山を登って峠道。其処まで運ばれてくる潮風に。ぴたり。足を止める。木々の合間。拓けた視界のその先にゃあ。紫の帆の船と緑の帆の船とが。火花を散らせ睨み合っとった。その辺りには霧が立ち込めとる。そっからの展開は御存知の通り。助言を受け入れ実行した。であれば既に道は決まっとる。外野が騒ぐ事じゃ無し。 今生会うことは無かろうが。その噂ぐらいは耳に入ろう。それが何よりの報せ。何卒御元気で。この時代何が起こるか分からんが。
水筒を傾け水を一口。さぁさ次へ進まねば。もうこの辺りは秋が遠のき冬が来とる。雪はまだまだ降りはしないがそれも時間の問題。次に大きな町に着いたら深靴でも買っとこうかね。なんて考えながら歩を進めておれば。潮風に混じってつんとした臭いが鼻につく。口に鉄を含んだような、生臭い独特の臭い。ああこりゃあ知っとる。血の、臭いだ。 此処まで来る間に出会した戦場で。この臭いを嫌っつーほど嗅いだから。忘れる筈もない。あれは本当に衝撃的だった。ぬるま湯に浸かって生きとったんだから。それも仕方ない。お陰で暫く肉が食えんかった。酒は飲んだけども。
こぉんなとこでどうして血なんか。付近で戦は無いと先の城下町で聞いたんに。よもやまた山賊か?このご時世。奴等はそこかしこに居るもんだが。こうも短い間に会いたくはない。然しそれでも無いようだ。漂ってくる気配が。彼女にも分かるもんだから。ああこいつは話に聞いていたなぁ。
「おっ母!お父ぉ…っ」
血の臭いと共に運ばれてくる子供の悲痛な叫び声。導かれるがまま。そちらへと行きゃぁ。路端に引っくり返る荷車。血に伏せる男女。それに縋り付き泣き喚く子供、女の子。 じわりと土に染みていく血と。木や草に飛び散っている血が何とも凄惨。恐らくもうあの男女。子の親であろう二人は事切れとるだろう。可哀想に。
その更に先に佇んどる大きな影を見る。すぅ、と目を細めた。居ったのは熊。けれどその腕は一つが腐り落ち。足はあらぬ方向に曲がっている。耳は千切れ眼は収まるべき場所を飛び出してぶら下がっとった。これはもう死んでいる。一目で分かった。 だのに動いてるっちゅーことは。成る程“死に憑き”か。おぞましや。その証拠に憑いとる熊の体から。にゅるにゅる。糸のような黒いもんが生えている。其処の二人に鞍替えするつもりか。その体はもうぼろぼろだものなぁ。そうはさせまいよ。
『去ねや』
目を細めたまま。突き刺すようにそれを見、言う。彼女にしては珍しく。冷たく鋭く。一分の隙も見せずに。さすれば熊はたまったもんじゃないとばかりに逃げ出した。
死に憑き自体は珍しいもんじゃない。あれはああしている事で生きている。それもまた摂理の一つ。かと言って目の前の凶行を見過ごせる訳もない。自ずから死体を作って憑くなど。本質を曲げるつもりか。死に憑きの消えていった方を睨みながら。泣き縋る少女に近寄る。この世の終わりとでも言いたげな顔をして。此方を見とった。取って食いやせんさ。
震える肩に触れようと手を伸ばしゃ。ぎゅっと目を瞑って。怖がらせるつもりは無かったんだがなぁ。苦笑しつつ少女を抱き締めた。
『大丈夫、怖いもんはもう居らんよ。』 「…っほ、んとう…?」 『ああ。私が追っ払ったかんね。今のうちに父ちゃん母ちゃん連れて、家に帰ろう。』
縋りつくように。背に手が回される。これを振り払えるほど。人でなしじゃあ無いんでね。
終
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