シグナルに応答せよ







優しくして欲しかっただけかも知れないと溝内は忙しなく動く黒目の双肩を眺めながら思った。
台所からは食器を破壊する、ぱりんという音や鍋がくつくつ煮える安堵の音が聞こえてきた。珍しく「今日は俺が晩ごはんを作るから」と自信満々に宣言した人間が奏でる音とは思えなかったが、それを聞いていると寝てしまいそうになった。昔、風邪をひいた時、母親が二畳半の小さな台所でお粥を作るため、鍋を揺らした音とそれは似ていた。溝内の予想であるが、今日だって黒目がいきなりご飯を作ると言い出した原因だって、自分が風邪っぽかったからだ。普段、鈍感なくせに、体調のことになると、当の溝内より敏感なのだ。ご飯を作ると言われて、嫌な予感がしたので、電話台の横に立て掛けてある、体温計を手にとると、やはり微熱があった。自己管理が出来ないなんて失態だ、と思いながら、ソファーに寝転ぶ。夕飯の準備が出来たのならば、ベッドで寝ていてくれても良かったのに、と文句を垂れながら心配を孕んだ言葉が飛び掛かってくるだろうが、今は黒目がいる音というのを聞いていたかった。なにしろ、ベッドまでの距離は信じられないくらい遠いのだ。すし詰めのような生家とは違う。
瞼をゆっくり閉じる。風邪のせいで、指先から日からびたミイラのように感覚が死んでいった。暗闇だけになった時、そういえば以前もこんな事があったと思い出した。高校時代。授業料無償化でかかる金は少なくなったといっても、学校へいくということは金がかかる。今と同じように、いや、学校生活と並行しての仕事だったので、今より辛かったかも知れない。アルバイトを掛け持ちして、体調を崩したときが一度だけあった。実家よりバイト先に近いからという理由だけで、付き合っていた達海の家へと転がり込んでいた。熱帯魚の餌をやるなら、と達海は溝内に最低限の宿を提供した。恋人同士なのだから勝手に上がり込んでも良いと言わない所が達海らしいと溝内は思いながら、部屋の一角に布団を引き寝ていた。寝ていると、どこか浮遊感を味わい、ああ、風邪だと、実感した。それは、ゆっくりとしたもので、後悔がじわじわ自分に沁み込んでいくようだった。どうして達海の家で、と寝返りを打つ。発汗し、寝間着が皮膚に付着して気持ち悪い。誰かに縋りつきたい風邪特有の寂しさのようなものも付き纏う。

『楓』
『……吉良』
『熱帯魚の餌、忘れたやろ』
『ごめん』

熱帯魚の餌を振りながら達海が襖を開ける。熱で思考回路が低下していたのだろう。忘れていたと溝内は罪悪感と恐怖に襲われる。もう、この部屋を貸してもらえないだろうか、だとしたら困る。なんていうのは建て前で、達海に会えなくなるのが嫌だった。

『別にええで。気にしんとき。なぁ、楓、お前さん、それより大丈夫か』
『何が?』
『素直じゃないのも、ええ加減にせえよ』

汗でべたつきおでこを触られる。熱があると暴かれていると観念して、溝内は、達海におでこを触らせた。

『もうちょっと可愛いなりい』
『悪かったね』

可愛く媚びることが出来ればと自分でも良く思う。そうすれば、達海はもっと自分を甘やかしてくれるだろう。風邪の時くらい、その権利は自然と溝内の手のひらにあることも、達海がそれを許可することも知っていたが、実行に移すことが出来なかった。
高く縋りつくような肉声で、懇願すればいいだけの話だ。体調が悪いんです、だから構って下さい、お願いしますと言う遠まわしなアピール。そうすれば、お凸を触る愛しい人間の手のひらは一時、自分のものへなるだろう。可愛らしいと達海も満足し、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる筈だ。けれど、無理だった。どうしても、出来なかった。昔から苦手なのだ。女子のように甘えることが。ゲイだと自覚する前からなので、おそらく、天性のものだろう。若しくは、長男として生まれた人間の定めかも知れない。長男背負いこみ体質とは言ったものだ。家族が増え、家の生計が危うくなっていくと同時に、自分の中にある甘えが消えて行くことを溝内は感じ取っていたのだから。

ごほん、ごほんと、溝内の口から咳が出る。お凸を触っていた手のひらは剥がれ落ち、布団で自分の汗を拭かれる。熱帯魚の空気音だけが、部屋に響き渡り、溝内はいつの間にか寝てしまっていた。
瞼を開けると、夢ではないことを悟る。黒目が鍋を両手に抱え、机の上にゆっくりと置いていく様子が見えた。

「黒目くん」
「溝内くん! 大丈夫」
「風邪、でしょ。平気だよ」
「嘘いわないでよ。ほら、まだ熱い」

前髪を上げられ、お凸で熱を測られる。やっぱりまだ熱いねと言って、不細工な雑炊をスプーンですくわれ、食べるよういわれた。自分で食べるからと溝内はスプーンを奪い、口へと運ぶ。味はけして美味しいと言えるものではなかったが、優しくて、瞳が潤んでしまう。

「どうしたの、溝内くん。あ、熱?」
「違うよ。熱いの食べたから」
「あ、なるほど! うん、けど食べられるようなら大丈夫だよ」

良かったと言いながら鈍感な黒目は、自分の分の雑炊を食べ始めた。溝内くんのには敵わないけど食べられる味になって良かったよ、と言いながら口を動かす。溝内は今なら、自分という人間はまるで可愛くないだろうと尋ねることが出来ると思ったが止めておいた。尋ねたところで「溝内くんは可愛いよ」と自分より幾らも可愛い笑みが帰ってくる姿が安易に想像出来たからだ。
おかゆを食べながら溝内は思う。そうか、この先程から感じられる安堵があの時の自分達には何一つなかったからなのだと。風邪の時に黒目が鈍感でないのは無意識の間に自分が、気付いてほしいという信号を彼へ出しているからなのだ。そして、そんな些細な信号を、黒目はけして見逃さずに、察知してくれる。きっとそれは信頼というもので、互いのことを想い合えるから気付けるものなのだ。

おかゆを食べ終えるころには、毀れ落ちた涙は止まらなくなっていた。嗚咽が込み上げ、鼻を啜る。焦る黒目を見ながら、この胸の中に湧き出た気付きや、彼のことが愛しいという感情を伝えたくなったが普段から口数が少ない溝内は的確にその感情を黒目に届ける術を持たなかった。語彙力のなさがこれほどまでに悔やまれる瞬間はないと思いながら、ようやく口を開く。

「おいしいね、黒目くん」
「み、溝内くん、大丈夫。う、あ、けど、ありがとう溝内くん。ね、今日は寝よう」

結局、伝わらなかったか、と少し伏し目になりながら、食器を片づけようと立ち上がるが、さらりと腕の中から食器は消えた。

「俺が片づけるから」
「けど」
「いいんだよ。溝内くん。だって、俺も溝内くんのことが大好きだから」

ね、と念を押されるように落され、溝内は驚きのあまりソファーに尻もちをついてしまった。









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