グレーゾーン、膝の上で眠る呼吸の行方





薄暗い、灰色が通常の部屋。曖昧で誤魔化されたグレーゾーン。どうでも良い証。共働きな両親。小さな襤褸布のようなアパートは二人がまだ無名だった場所の休憩場所だったらしいよ。愛や夢を語り合った宝箱は、紀一さんっていう塵を母親が授かった時から、彼女にとっては牢獄に、彼にとっては冷たい水槽に変わった。それでも、毛むくじゃらで、猿のような赤子が産まれた時、彼らは純粋にその生を喜ぶフリをした。人間なんて、簡単に何重にも皮を被れるんだ。なんて滑稽で陳腐なんだろうか。産婦人科の先生が喜びの祝辞を、両親は悪魔のお告げを紀一さんに授けた。彼女にとっては牢獄、彼にとっては冷たい水槽に変わった宝箱へ戻った。母乳のあたたかさを知らない紀一さんは、哺乳瓶に入ったなけなしの愛情とやらを必死に吸った。きゅうきゅう。紀一さんの口は栄養を獲る。一日一回の呼吸の術。あだぶら、かだぶら、ちちんぷいぷい。泣き声の代わりに出た廃棄物を母親は壁に投げ捨てた。紀一さんの四肢が自由に動き回るころ、父親と呼ばれた人間が、紀一さんを蹴り飛ばした。ゴムの入った鉛のように紀一さんは飛んでいった。頭をぶつけ、紀一さんは一度死んでしまった。薄れゆく景色の中で討論する両親が見えたよ。紀一さんの怪我はどうでも良いのか。罪の擦り付け。押し付け合い。潰された胸が破れているようで、久しぶりに泣き声を発した。

どうした、死んでしまうのか。犯罪者はごめんだ。虐待で訴えられる。俺のキャリアは。私のキャリアは。
双方が罵倒を浴びせ続けた。馬鹿な両親だ。紀一さんは思ったよ。そんなのより、紀一さんを手当てしないと本当に貴方たちは人殺しになってしまう。紀一さんは既に死んでいるけど、入れ物は呼吸をしている。殺すのか、化け物め。ねぇ。泣くことが少ない紀一さんを化け物と罵ったくせに。お前たちが、紀一さんが不要と喚くので静寂を生きる為に決め込んだ紀一さんを化け物と呼んだくせに。人間の便利な脳みそで記憶を改竄して、紀一さんを殺すのか、化け物共よ。


あだぶら、かだぶら、ちちんぷいぷい。
紀一さんの身体は一命を取り留めた。紀一さんはそれから、両親のサンドバックに決定した。少し身体が丈夫になった、四歳の頃、鬱血は耐えなかった。背筋を真っ直ぐ張ってあるけないのは、骨格がしっかりしていない時期に殴り蹴飛ばされたせいだ。骨が曲がっていて、紀一さんの背中は猫背のまま。生涯を終えるんだってさ。母親が煙草をぷかぷか蒸かしながら言っていたよ。お陰で真っ黒な肺さ。どう責任をとってくれるんだい。
けど、紀一さんは一つだけ感謝している事があるよ。愚者である彼らが、滑稽で意地を張る幼児のような生活であったお陰で紀一さんは健太に出会えた。双方、新居があるのに、紀一さんを襤褸アパート放置してくれてありがとう。無責任な親で交通事故にあえば良いと願いながら、外へ続く鍵を開けっ放しにしてくれてありがとう。感謝、感謝だよ。
公園に戯れにいった紀一さんは健太と出会った。健太は忘れているかも知れないけど、健太が初めてくれた食べ物が飴玉だったんだよ。あんなに美味しいもの、初めて食べた。舌でころころ転がって溶けていくのが、淋しくて愛しくて、泣いてしまった。泣く紀一さんに健太は不思議な顔をしたね。もっと飴玉をやるって自分の食べていた、ペロペロキャンディーを差し出した。唾液がべっとり、ついていて、半分なくなっていたのに、紀一さんにはとても、美味しく感じたんだ。甘い、甘い。甘いなんて言葉でしか知らなかったよ。美味しいんだね。美味しかったんだね。知らなかったんだよ、紀一さんはね。健太。



それから紀一さんは健太の後ろをついて回った。健太は紀一さんに色々なものをくれたね。初めて健太なお家に連れていってくれた感動は今でも胸の中でじんじん言っている。健太のお母さん、よし子ママは、紀一さんに料理をくれた。温かいお風呂もふかふかのお布団も、家族の団欒を健太は紀一さんに見せた。温かいお風呂を一緒に。ふかふかのお布団も一緒に。健太は紀一さんを撫でてくれたね。健太の膝の上は、紀一さんの居場所だった。

紀一さんの事実を察した、よし子ママは紀一さんを、何度も止めて(泊めて)くれたけど、紀一さんは、彼女にとっては牢獄、彼にとっては冷たい水槽に帰宅した。帰宅していないのが知れ渡ると、健太に会えなくなっちゃうからね。まだあの家に居なくちゃいけないんだよ。

テレビが付けっ放しの薄暗いグレーゾーンの部屋。食費とカロリーメイト。カロリーメイトは大嫌い。ぱさぱさしていて美味しくない。黴臭い精液の香り。壁に染み付いた血痕。気紛れに郵便物を取りに戻りサンドバックを蹴る仮面夫婦。
痛い、痛い、痛いねぇ。骨と皮だけの体に鬱血跡が残り、内臓が潰れる音がする。けど、お前たちは知らないだろう。あたたかさを。紀一さんがもらった、あたたかさの欠片も知らない、化け物め。仮面を剥ぎ取ったら、正体不明の宇宙人が顔を出す。
殴られる最中、ずっと健太が撫でてくれた感触を思い出した。健太の膝の上は紀一さんの特等席で、誰も邪魔出来ないんだ。あの場所は今も昔もこれからずっと、縋りつける安住の地で、よしよしと健太が頭を撫でる度に喜びを知るんだ。健太、健太、ねぇ、健太。紀一さんは健太が大好きだよ。好き、好き、大好き、愛しているよ。柔らか膝の上におかれた頭。健太は寝ろよ、と紀一さんに命令する。瞼をゆっくり閉じて、寝る意味を知った。ゆっくり眸を閉じると、ぷかぷかと羊水に帰る。紀一さんは眠る。あの化け物じゃない。健太の中に包まれて、健太の家族に揺りかごをもらって。
なぁ、お前たちは知らないだろう。誰かを真剣に愛したことがない化け物なんだからね。
紀一さんを殴るのは楽しかった? 
紀一さんを犯すのは楽しかった?


紀一さん、唯一の汚点。紀一さんが小学六年生の時。紀一さんは実の父親にお腹を殴られ、首を絞められ、ついでに後ろも切り裂かれた。肉棒が紀一さんをズコズコ犯す。喘ぎ声をあげる父親が気持ち悪くて、吐き気がした。いや、嘔吐した。すると殴られた。痛かったので、紀一さんは、父親を、彼ご自慢の灰皿で殴った。反抗されると微塵も予想していなかった父親はあっさり倒れた。そのまま肉棒を孔から取り出し、紀一さんは裸足のまま走った。踏みしめる石が足裏に食い込んでも紀一さんは健太に会いたかった。
けど現実って残酷だね。紀一さんの会いたい時は、健太の会える時じゃない。健太は偶々、従兄弟と遊びに出かけていていなかった。よし子ママは紀一さんを家にあげてくれた。身体を消毒して、抱き締めてくれた。有り難かったし、健太と同じ匂いがする、よし子ママは大好きだけど、紀一さんは、この場にいない、健太に対しての不満が溢れかえった。健太、健太、健太。だって、紀一さんの健太だったら、今、ここに居てくれる筈だもん。紀一さんの所に駆け付けてくれる筈だもん。それなのに、健太はどうして、いないの。
膝に泣き付きたかった。健太は夜を迎えると同時に帰宅した。紀一さんは健太に擦り寄った。泣いた。健太は撫でてくれた。困惑しながら。けど、ねぇ健太、駄目だよ。紀一さんの健太なら居てくれないと。健太、健太、悲しくて仕方ないんだ。わんわん泣く、紀一さんはやがて泣き付かれ眠った。

思い出すと、理不尽で身勝手、どうしようもないことで健太を攻めた。健太を紀一さんが理想とする型に当てはめだした、その日。父親に処女を奪われたことじゃない。そんなの、どうでも良い話だ。紀一さんにとっての唯一の後悔、ミスは、こんな、馬鹿なことを実行し始めたせいで、一度、健太を失うということ。唯一の汚点。



気持ち悪いんだよ、ホモ野郎



脳内に付着して取れない言葉。紀一さんは、泣いてしまった。
虐待された暴力たちより、紀一さんには、痛かった。健太を失った空洞は埋められなくて、紀一さんの身体が大きくなるにつれ、虐待をやめた化け物は高校を適当に選び入学させた。健太を失ったことにより、様々な世界を忘却した紀一さんに再び息を取り戻させたのは、友人である、帝だった。帝、特に帝の恋は紀一さんが健太に押し付けていた、幻想で、紀一さんは古傷を抉りとられた。同時に、愚かでしょうがない友人が幸せになって欲しいと願った。
何時だったか

世界の殆どを占めている人と一緒に居ることができて、傍に立っていることが許される、それだけで、僕にとって、幸せなことなんだ

と帝にいわれ、紀一さんはちょっと泣いた。本当だね、帝。紀一さんは、どうして判らなかったんだろうか。
折れそうなくらい、柔らかで、そのくせ、強い帝を抱き締めた。あの膝の上に頭を置いて瞼を閉じる、些細な願い事。けれど大きな願い事。膝の上に頭を置かなくても、撫でてくれなくても、横にいるだけで、幸せだったのにね。




なに
幸福が溢れるね、うそみたいに
そうだね、紀一
そうだね、帝、紀一さんは、紀一さんは





抱き締めながら帝に、セックスしてくれないかと申し入れした。無性に大切な人と交じわいたい気分だったのだ。心臓を合わせ、舌を絡め、繋がり、あたたかさを感じなかった。健太を亡くした今、紀一さんには帝くらいしか大切な人はいなくて、お願いしたけど、帝は駄目だと告げた。


駄目だよ紀一。だって紀一が今、抱きたいのは、僕じゃないでしょ

だったら、その人を抱き締めに行かなくちゃ。紀一だったら大丈夫だよ



帝以外に言われたら無責任だと投げ出す言葉だけど、真っ直ぐな眸でそう云ってくれる友人に嘘偽りはなく、無責任という言葉だって一つもなかったんだよ。紀一さんは優しい掌で背中をとんっと押され、いってらっしゃいと囁かれた。紀一さんの腕はぐんぐん、伸び、脚は信じられないくらい早いスピードで動いた。乾いたアスファルトを蹴り揚げた冬の日は、汚点を犯した夕方のように、気持ち悪いくらい赤く、雲はグレーに染まっていた。
雑踏をかき分け、健太に辿り着いた。腕を掴んだ先にいた、健太は、唖然とし息をすることを忘れた顔をすると、紀一さんの呼吸を聞き、腕を振り払った。いやだ、いかないで、健太。まだ、何も伝えていないのに。謝ることも、許してくれないの、健太。
耳を塞いで走る健太に、都合が良すぎたのかと、肩を落としたけど、諦められなくて、何度も脚を運んだ。ぶっきらぼうで、無視を貫いていた健太だけど、二週間目の夕方、飴玉を紀一さんに差し出した。



健太
お前、馬鹿だろ。俺、あんな酷いこと言ったのに。なぁ、だって、俺だって、本当は、紀一でなきゃ



ぐしゃぐしゃと泣きだした心が弱い健太。必死に紀一さんに伝えようとしてくれている。
紀一さんは抱き締めた。健太の香りだった。紀一さんが唯一、眠れる場所だった。紀一さんのシャツに健太の鼻水がつく。健太が一通り、涙でぐちゃぐちゃになった顔で紀一さんに言葉をくれる。紀一さんには勿体ない。こんな、言葉、貰えたら、紀一さんは健太を手放せないよ。
ねぇ、健太、健太、あのね、健太


「ごめんね、健太。紀一さんは健太を愛しているんだ。ありがとう」





声に出して伝えた思いは健太に入ってくれたみたいで、抱き締めた、腕を強め、キスをさてくれた。送り込まれる呼吸に、はじめて息をしている感覚を味わった。抱き締め、健太の体温を確認する。あたたかい膝の上に頭を置く、最上級の幸せは紀一さんを突く。誰よりも気持ちよくて、比べることができなかった。









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