大人になるということはね






大人になるということは、耐え凌ぐことを覚えると云うことだと、佐治は考えていた。耐え凌ぐ、だけが自身を大人という高見に引き上げるものではないことを悟ってはいたが、彼の中で、それも大事な手法の一環として考えられていた。
元来、佐治明という人間は流されやすい性格であった。魅力ある人間がいれば影響を受け易く、彼にとってそれは普通のことなので、気にも留めなかった。また、流されているという自覚があったし、彼は業と自分自身が流されているのだと知っていた。それは一種の調和であり、環境や人間関係によって、趣味や性格が異なってくるのは板仕方ないことだと処理された。確かにそれは仕方ないことであるが、彼ほどその事実に早く気付いた子供は少ないであろう。早熟した彼は一人で達観し、一歩引いた世界から、苦悩する友人を眺めるという構図があまりにも普通になっていた。その世界はある意味、楽であった。感情に起伏が少ないので、楽なのは至極当然の如く受け入れられることであろう。彼は、擬態し、境界線を張り巡らすことにより、必要以上に他人の心に干渉することを拒んだのだ。また、それは自分の心に他人が干渉してくるのも同じであった。寂しいとは思わなかった。大人になる、と云うことは、そういうことなのだ、と割りきっていたし、それでも、彼の人生は充実したものであった。
だが、ある日、その耐え凌ぎ、擬態し、境界線を張るということは確かに正しくもあり、大人としての模範とすべき姿でもあるかも知れないが、その世界は孤独であり、自身の心が侘しいことに気付いた。
それは黒沼帝という一人の少年との出会いであった。帝も彼の世界において部外者の一人であった。友達としては認めているが仲間としては非常に曖昧で、だが、彼にとってそれはどうでも良いことであったし、それ以上に面倒な存在であった。人間、一人と親密な関係に置かれるたびに、その人間やそれに対する周囲の人間に対し、擬態し適応しなければならない。面倒だ。だが、彼にとってその程度であった。同じグループ内で輪を作るにしても、帝という人間との関わりは必要最低限であると彼は決めつけていたし、関わるつもりもなかった。
それなのに、彼は見てしまった。
自分と同じく、耐え凌ぐ、黒沼帝という少年の姿を。
別に他者が耐え凌ぐ姿を見ることが珍しいのではない。そんな姿、彼は山のように見てきた。ただ、それが帝であるということと、帝の耐え方が彼にとって問題だった。
彼がそれを初めに目の当たりにしたのは、彼の友人であるトラが帝に向かい理不尽なセリフを膨大に吐き続けていた時だった。帝はその言葉に耐え凌ぎ、謝罪を述べた。ただそれだけの行為であったが、彼は唖然とした。帝の耐え凌ぐというのは、彼がするように、外へ受け流し、処理するのではなく、全部、抱え込んだうえで、対応すると云った耐え凌ぎ方だった。その処理の仕方だけ見れば、精神コントロールが不器用な、彼に云わせれば幼稚な人間がとる対応であったが、帝の違う所は、真剣に、それを全部、受け止めている、ということだ。帝と違い、同じような人間は居るが、その人間は何かしらで、受けた、耐え凌ぐ行為というのを発散しているし、彼のように密かに垂れ流している。だが、黒沼帝という人間はそうではなかった。受け止め、思慮した末に、謝罪を述べた。また、黒沼帝という少年は、子供ではなかった。受け止め処理できるのだから。同時に、彼、以上に周囲を達観する能力を持っていた。ただ、それは彼のように、その能力で周囲を舐めた眼差しで見るのではなく、他者の良い所を見つけたうえで歩み寄るとしていた。
彼にとっては、信じられない行為であった。愚かだ、とも感じたが、帝と自分を比較することによって、自分自身の小ささが見えた。なんと、自分という人間は脆弱で空っぽな人間なのだろうと、佐治はそのとき、早熟し達観したゆえに蓄積出来なかった様々なものの充溢に気付いたのだ。
暫くの間、彼は帝と喋るのが辛かった。自分と帝を比較する度に、潰れそうになった。だが、また暫く立てば、仕方ないことだと処理し、帝に対しては僅かな痛みを抱く程度になった。
そのことが、彼の小ささを真に表しているのだが、佐治明はそのことに気づいてはいない。









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