その言葉で死んだわけじゃない







トラは強い人だけど、同じくらい脆くて繊細な人だと思うから



垂れ落ちるような斜陽が教室を照らす中で帝は確固たる理由があるんだよ、と告げるような声色でそう述べた。向かい合わせるように椅子の背もたれに両腕を置き、人間を舐めたような顔で帝の話を聞いていた柴田は不意を突かれたような気持ちになり、誤魔化すように笑った。
なぜ、このような話をするようになったのか経緯は覚えていない。曖昧で霧掛かっている。それほどまでに柴田にとって、この状況は予測不可能なイレギュラーな事態であった。


放課後、誰も居なくなった教室を覗くと帝が静かに泣きながら教室の机に座っていた。三年になり、自由登校期間へと突入したので、教室に居る生徒は少ない。柴田自身も科学準備室へ顔を出すという目的で解放された教室に鞄を置きにだけ来ていた。
放課後と云うこともあり、がらんとした教室で帝はただ一人、俯き息を吸っていた。
出会ってしまった時、胸が締め付けられるような感覚に陥った。禁書を望んでいないのに見てしまった気分だ。
柴田は黒沼帝という男の泣きそうな表情など何度も見てきたが、実際に泣いている姿を見るのは初めてだった。柴田と帝にとって共通の知り合いであるトラ関係で帝が泣きそうな顔を覗かせる瞬間は多々あった。誰にも悟られないよう気を使っているようだが、近くで冷静な眼差しで彼らを見ていた柴田にとって帝の僅かな時間しか表れない泣きそうな表情も見慣れたものだった。柴田はその度に帝に対して同情を抱いた。可哀想だと憐れんだし、出来る限りお膳立てもしてやった。だが、それだけだった。黒沼帝が抱える不安を拭いとってやろうという気は湧いてこなかった。実際に柴田は帝を憐れむことしかしていなかった。
それがどうした。
帝の頬からまるで真珠のように、ぽろりぽろり落ちる涙を見て柴田は胸を締め付けられた。自身に降り注いだ傷痕のように痛む。刃で斬られた傷と、内出血し膿む感覚が同時に柴田の肉を傷つけていった。声を掛けずに気付かれないように去っていくのが利口な手段であるし、泣きじゃくる帝のことを思えば立ち去るという選択が一番正しいと知りながらも、気付いたら、帝、と声をかけていた。
声をかけたことを柴田は未だに悔いていた。誰もいるはずがない場所で自分の為に泣いていた帝は、直ぐに涙を止める努力をしたが、無駄だと悟り「ごめんね」と誰に対しての謝罪か判らない言葉を述べた。
それから暫くの間の時間、交わされた言葉の詳しいことは覚えていない。朦朧として霧ががかっている。いや、正式には覚えてはいるが、言葉に出して説明したい出来事ではなかった。
ただ、帝が泣いている理由が今日、トラと約束していたのだが彼の方に予定が入りその予定と云うのは帝が知らない見ず知らずの女性と会うという約束らしい。今までもいっぱいあったのに可笑しいね、と苦笑いを見せる帝に向かい、柴田はそりゃ今までは付き合ってなかったけど今は恋人同士だからだろうが、と正論を帝に告げたくなったが、ついに口にすることはなかった。
帝とトラが付き合いだしたのは三年に上がる少し前の出来事である。ある日、突然、付き合うことになったと報告を受けたとき、柴田はついにトラはやってしまった、と感じた。囚われてしまった。幼馴染という存在をした彼の大切な者に。どこかで自分と同じで人を愛せない人間だと思い込んでいたので、不思議な感覚であった。まぁ、もっとも、トラは帝と付き合いだして三カ月もしない間に浮気を繰り返すようになるのだが。無意識だから性質が悪い。こうやって、陰で大切な幼馴染が泣いていることをおそらくトラは知らないのであろう、と帝を見ながら思った。トラに対しては泣き顔を見せないよう注意深く接しているような気がしてならない。帝にしてみれば、付き合ってもらっている感覚であるのだから、理解できない話しではないが、それにしても、互いに無知というのはそれだけで残酷だと柴田は思った。
客観的視点からトラと帝の二人の間柄を見れば、トラが無意識に放つ悪意に良く帝は耐えられると感じるものばかりだった。だから、なのかも知れない。柴田は気になってしまったのだ。

尋ねる。

どうして、それほどトラが好きなのか、トラの行為を黙認できるのか


目を逸らし話しにくそうな顔をした帝だが、柴田が視線を送り続けると、おずおずと口を開いた。どうして自分が泣いているかということすら話しにくそうにしていた帝だ。更に深く切り込んでいけば話すことを躊躇い帝を困らすこといなると柴田は知っていたが、今はそんなことを気にするには些細な問題だった。


帝は戸惑いながらも打ち明けた。トラがどうして好きなのか、付き合って貰っているという状態を理解しているということも、トラ自身に悪気がないということを知っているということも。
ここまでは柴田の予想通りだった。だが、問題は帝がトラという人間がどういう人間であるか、ということを語り出した所から始まった。それは、どうしてトラのことが好きなのか、ということに繋がる流れなので不自然なく柴田は聞いていたが、途中から、自分自身が尋ねてはいけない部分に触れてしまったと気付いた。


トラは強い人だけど、同じくらい脆くて繊細な人だと思うから


帝の小さな口からその言葉が放たれた瞬間、柴田は「あ」と小さく漏らしたしまう程の衝撃を受けた。なぜなら、今まで黒沼帝という人間は「トラはかっこよくて強くて優しくて周りに気を使えて」と云ったトラ・トゥ・オーデルシュヴァングの良い所を取り上げた褒め方しか聞いたことがなかった。元々肯定的な言い方で他者のなにかを表すとき、褒め言葉しか囁かないのが黒沼帝という男であり、特にトラに対して帝が褒めるとき、それは咋であった。なので、柴田は帝はとことん盲目で、これではトラにかけられる期待いう名の重圧は嗚咽がこみ上げてくる類のもので、トラに対して同情的な眼差しで見ていた時さえあった。
それが今、帝はトラの性格の悪い所を述べている。
柴田が聞くそれは帝が幼馴染として長年、トラの傍にいて、トラ・トゥ・オーデルシュヴァングと云う人間のことをいかに真意な眼差しで見つめきたのかわかる。大切で、大切で仕方ない人間を見る視線であった。あたたかみが篭っていて、この地球上に存在するどの優しさよりも、帝がトラへ向ける優しさには敵わない。誰がどんなに誰かのことを好きでその人物を見守っていたとしても、それは帝には敵わない。そもそも、比べることすら間違いであるが、柴田はそんなこと無視して、自身へ突き刺さる帝の言葉に生唾を飲む。そして最後に帝が述べた「ごめんね」という言葉で、自分が帝に尋ねてはいけないことを尋ねてしまったと気付いたのだった。

普段の柴田らしくない焦りが、帝に不信感を募らせ、涙をようやく止めた帝は「ごめんね」と再度謝り、椅子をずらすと、教室から静かに出て行った。彼の荷物には一人分とは思えないお弁当があり、手付かずのままであった。柴田は背中を見ながら、自分が好奇心と自分の心を知りたいがために酷な言葉を吐き出させた小さな背中を呆然としながら見ていた。どういう気持ちでお弁当を作ったのだろうか、そう考えるだけで胸が張り裂けそうだ。そういえば、話の中に、トラの補習が終わってから、残り少ない学生生活を味わうために制服のまま集まって、晴れたら屋上で弁当を食べてから買い物へ出かける予定だったということになっていたと云う。結局、突然の予定変更により(柴田の予想だが、おそらく補習中に意気投合した女とセックスしにトラは出掛けたのだろう)食べられなかったお弁当は重さの変わらぬまま、小さな背中に見合った小さな手に握り締めながら家路を辿った。

小さな背中が消えるまで眺めていた柴田は、突如、立ち上がって廊下を駆け出した。目指すは数時間前に退出した化学準備室だ。まだ、そこに居てくれることだけを願って扉を開けると、丁度、帰ろうと白衣を脱ぐ飯沼の姿を見つけ抱きしめる。
突然の出来事で対応できない飯沼は慌てるが、柴田の食い込む指先を感じ取り、ただ、静かに柴田の背中を撫でた。

柴田は先ほどの帝の言葉を思い出していた。
無遠慮に帝が踏みこんできて欲しくない場所まで踏みこんでしまったのは、今、呼吸を感じる飯沼にあるということを。柴田は知りたかった。自身が飯沼に抱くこの感情を。卒業まで残り数か月となり、焦っていた。不可解な気持ちを抱えたまま卒業することを恐れた。そして、聞いてしまったのだ。愛というのを一番理解していそうな知り合いに向かい。自身の欲だけを考え。自分の為だけに。尋ねた相手である帝が傷つくか、なんて気にもせずに。一度、自分の中に入ってしまった人間に対する扱いではないということに気づかぬまま。そもそも、初めの泣きじゃくる帝だって、飯沼に会う前の柴田であれば、通り抜けできた筈だ。気付かないふりは柴田にとって得意技であったし、干渉のラインを引くのも柴田亮平という男にとって容易いことであった。それが、できなくなってしまっていた。未熟な餓鬼であると処分さえすれば良いことであるが。出来ないまま、今に至る。

飯沼は柴田の背中を摩った。どうしたの? と尋ね、君がそんなにとりみだすなんて珍しいね、と云った。柴田は飯沼の言葉を聞きながら目を瞑る。
自分らしくない。
もっともな言葉だ。
ただ、柴田の中で僅かな罪悪感が生まれてきていた。そして、それ以上に自覚を始める自分の心が嫌で好きだった。柴田は帝が告げたトラへの気持ちを思い出した。あれほどまでに一人の人間に想われるという感覚はどのようなものだろうと、想像してみたがまったく想像さえつかなかった。今までなら、重いと切って捨てたような発言をしたであろう柴田であるが、眼前に居る飯沼を前にしてそれは云えなかった。トラのことを羨ましいとさえ感じた。


柴田くん、今日、晩御飯一緒に食べてく。秋刀魚だけど、それで良かったら


あやふやで自信の無い口調で探るように喋る飯沼を見ながら、柴田はこの人に嫌われたくないとふと思った。帝がトラへ与えるようなあたたかさと似ている。柴田にとって、飯沼がくれる優しさこそが、あの優しさと類比するものであった。そして、自分自身もあのあたたかさを飯沼へ与えられていればいいと思うが、無理やり犯し写真を餌に脅すという関係で成り立っているこの関係で自分から飯沼にあのあたたかさを与えられているとは信じられなかった。けれど、晩御飯へ行くと頷いたときに飯沼が見せた笑みに錯覚を起こす。
大事なのだ。
それだけは判る。
飯沼のことが。トラや帝たちに抱く感情とは別に。

けれど、それ以上の答えを柴田は知らなかった。
出そうになっては、ヒントのように帝の顔が浮かび、次の瞬間、トラの顔が浮かぶ。そして、はにかむ飯沼の顔が浮かぶ。
判らなくても大切だった。

ふと、小さくなっていく帝の背中が脳裏に浮かんだ。その背中が知らない間に自分へと変わり、そんな帝を乱雑に不器用に扱うトラの顔も自分自身となった。

飯沼を再び抱きしめる。
潰れたカエルのような声を出した飯沼の頬っぺたを抓り、感触を味わいながらキスしたくなった。性的欲求を満たすキスではなく、愛しさからくるキスであった。










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