珈琲の宇宙






憧れだったんだよ、と僕は珈琲を容れながら口を開く。

香ばしい珈琲特有の苦みを帯びた香りが鼻腔をかすり、科学室の薬品が染みた部屋が、一瞬にして、喫茶店に変わる。午後の落ち着きを取り戻した雰囲気を味わいながらも、部屋の隅っこに追いやられ居場所がない僕へ、唯一、場所を与える芳香だった。
うん、けど、場所が与えられるのは、珈琲にミルクを容れるまでの数分間だけなんだけどさ。


せんせー

間延びする声が聞こえる。刈り上げ染められた煌びやかな金髪が、科学室によく栄え、ソファーベッドに寝転びながら、お菓子を摘む生徒は口を開く。顔を合わせる度に、剣呑で、無邪気な笑みを浮かべながら、僕に言葉を投げ掛ける生徒は柴田亮平と云って、容姿から察することができるように、不良と呼ばれる類に位置する生徒であった。僕が学生であったときから苦手とする部類の生徒であるが、避けようとしても執拗に絡まってくる手足から逃れるすべはなく、最初の頃にした抵抗は今は皆無といっても遜色ない程になっていた。避けるのも面倒であるし、中途半端な好意が別に嫌いではなかった。また、僕も一応、教師である、というのが、彼を忌み嫌えない理由だろう。
酷く危ない子供だと感じた。思春期の子供特有の一歩踏み外したら、どこまでも墜ちていける危うさを柴田龍平は保有していた。僕と彼の間にあった出来事(天変地異が起こるくらい不思議な出来事だったが、彼は僕を犯し、今も撮った写真を大事に抱えている)を無視しても、剣呑な笑みの正体は、ここから溢れているのだろう。僕は彼独特の危うさを見るたびに、裸で宙に浮いている気持ちになる。ふと、手首を掴み地面を確認したくなるのだ。
けど、僕のことだから、上に述べた理由は所詮、微睡みで、脅されている材料である、写真があるから、彼の自由気ままで優柔不断な態度を見過ごしているのかも知れない。教師だから、というのは盾の可能性の方が高い。気になるというのは確かなモノとしてあるが、一概に原因を突き止められるほど確固たるものではない。
それを含めて宇宙なのかも、という思考が浮かび上がり、彼の指先で眼鏡を取られた。


話さないの、センセイ


ああ、話の続きだったのか、と思い出し、珈琲を啜るリップ音と共に聞こえた、不機嫌な声に合わせるように会話する。
彼が僕の話を聞きたがるのは珍しいことではない。普段は、自由気ままに傲慢な態度でソファーベッドを占領し、持ち込んだ私物で好き勝手しているくせに、誰かの肉声が聞きたいんっす、と云うように、僕へ尋ねる。
今日は僕が彼くらいの時の出来事を話した。青写真に夢を詰め込んだ、懐かしい景色が珈琲に誘因され、瞼の裏に映る。僕はある一人の同級生に憧れを抱いていた。今、思うと、と言った感情であるが。愚図で何をするにも他者の真似事をしてきた僕にとって同級生は模範となる人物だった。中学高校時代は同級生の背中ばかり見ていた。彼は気が細やかに回るし、委員長としての勤めも立派に果たしていた。修学旅行など、環境が変化すると夜尿症を起こしてしまう僕は彼に随分、世話になった。漏らすパンツを泣きべそかきながら、洗う僕に対して侮蔑するわけでも、同情するわけでもなく、ただ、傍にいて大丈夫だと告げてくれた。また、同級生は眠りが浅く、夜中起きられるので、僕が一度起こしてあげるよ、と優しく告げ、僕はそれに甘えた。僕は過去に夜尿症が原因で苛められた経験があったので、否定することもなく、受け入れ手助けをしてくれる同級生にのめり込んだ。知識人であったので、同級生は本をよく読んでいた。博識な同級生へ近付きたくて、僕も本を読み始めた。同級生といる時間が一番、楽しかった。学園生活の中で色褪せない時間だった。最も、同級生と一緒にいる間は限られていた。同級生には幼なじみがいて、僕みたいな男子からは謙遜される存在であった。僕も男のことが嫌いだった。圧倒される存在感に唇を噛み締めるしかなかった。他の人間は嫌いだと云いながらも、男に憧れという感情が当て嵌まるものを抱いていた。だが、僕だけは男のことが心の底から嫌いだった。同級生に関わって欲しくなかった。同級生は男に関わるとき、辛い表情をしていたから。一度、僕にも同級生の悩みなどを話して欲しいと告げたけど、同級生には絹を裂くように優しく拒絶されてしまった。致し方ないことであったが、満足しない僕に対して、後日で良かったら、と同級生は述べたけど、結局、卒業するまで、僕は同級生から悩みを聞いたことは一度たりともなかった。



珈琲を容れた薄手の陶器の底が見える。珈琲を飲み終わったみたいで、僕は話を終了させた。当たり障りない程度に掻い摘んで話す内容は終わる。
彼はソファーベッドの上に転がり僕の話を聞いていたみたいだ。珈琲を飲み終わったカップはことんと置かれていて、咀嚼音がする口ではキシリトールガムを噛んでいた。理解不能な組み合わせだ、と思うが、同級生が噛んでいたキシリトールを思い出し、儚い思い出に浸るように、空になったカップへもう一度珈琲を注いだ。
彼は何が何かいいそうな顔でこちらを見ていたので、珈琲がいるのかと思い、いるの? と聞くが、いらないらしく首を振る。年相応な仕草が可愛かった。
僕は同級生の幼なじみと同じ部類へ分けられるであろう彼のことが嫌いではない自分自身が不思議でならなかった。大人と子供の違いかと、成長した自身を撫でる。実害として、男にもたらされたものより、彼にされた方が害が多いというのに。始めにあった煩わしさや恐怖感が萎みつつある今、不安定な位置に立つ自分の靴が見えた。

気付いてしまったら最後だよ、と同級生に告げられているようで、些細なことだと、生暖かい珈琲を啜った。
曖昧に誤魔化すのは僕も得意だ。上手くいかないから、思い込んでいるだけかも知れないけど。














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