髪と唾液と棒と僕




(記憶喪失)






頭蓋骨が崩壊する音が聞こえる。切り揃えられた前髪は喋るすべを持たず、落下した毛先は消滅する。僕は落下した毛先に対して喋りかけるけど、過去の僕は語るすべを奪われ、毛先によって引かれた線の先に立っている人間の中に存在する。どうしてだ、と僕は口を開きたくなるが、僕にその人間に対し問いかける資格はない。僕が尋ねることが出来るのは、毛先だけである。


「トラさん」


過去の僕が別格として扱った人間の名前を呼ぶが、その人間が見ているのは僕の毛先だけである。目線は合わせられず僕へ鈍痛だけをもたらした。砕氷する心はその人間を求めているが、砕氷されるだけで、呼吸をはじめない。呼吸する手段を奪われ、両足を剥ぎ取られた僕は、惨烈な骨が大気に触れ、手で毛先を蹴散らそうとしたのならば、前髪と毛先を断裁した、鋏が手の甲へと落下し突き刺さる。血液が海のように広がり、僕を吸収する。毛先と共に。そこでようやく、人間は毛先が引いた境界線を蹴り破り、磔にされた釘を抜き、僕へと近付き、手のひらを握る。


「帝」


あたたかさと残酷さが同時に僕を支配して、前髪で人間の手を振り払おうとするが、護れるわけもなく、辛辣な現実が顔を覗かせる。血の海に引き摺りこまれる前に両手は僕を引き上げ、抱き締める。
欲望が葛藤を起こし、畏怖や懺悔と戦う。結局、前髪の防御だけでは、防げなかった攻防は欲望が勝利をおさめ、抱き締めることを受け入れる。固まった身体に対して、唇を鬱いでいた、ゼリーの塊を取り出す。鬱血していた首筋は本来の皮膚を取り戻し、唾液が侵入した身体は、鋏で突き刺された手のひらを。骨を覆う肉と皮膚を再生させる。同時に涙という余計な感情も思い出してしまい、人間にキスされながら、頬から涙が零れ落ちた。一瞬、戸惑いを見せた人間だが、容赦なく、僕へのキスを再開させ、太ももを持ち上げると、人間の陰茎を穴へと突き刺す。棒は凶器だが、一点を突き上げると快楽へと導く麻薬でもある。僕は麻薬で犯される身体へ対し、消え去った筈の畏怖と懺悔が姿を表し抵抗する。再生した筈の手足が再び崩落をはじめ、腐臭が漂う。怖い。前髪は護る筈もないのだが、それ以上に体全体が剥落する。抵抗は無惨に散り、僕はただ、謝罪を繰り返した。けれど口さえも塞がれ、穴へは熱を吐き出される。唾液を注ぎ込まれた時と同じように、剥落は停止し、僕は世界
を吸収するように、元へと戻る。切り揃えられた前髪は喋るすべを持たないが、毛先が再生されたことによって、喋る権利を得る。


「トラ」


名前を呼ぶと、トラは僕を抱き締めた。畏怖は引き、懺悔は残り、欲望が根を張り、後悔が顔を出す。抱き締めながら僕に顔を見せることなく、長い付き合いの中で自我というものが芽生えてからというもの、僕に一度も泣き顔を見せなかったトラの嗚咽を初めて耳にして、僕もトラを抱き締め、耳朶に息がかかる距離で、ごめんなさいとありがとうと大好きを繰り返し、愛していると告げる。涙でぐちゃぐちゃなトラの声をはじめて聞き、産まれて初めてトラから、あいしている、と聞いた。





20110409









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