群青色の排他




(充葉とジル)


一層のこと、失くしてくれれば楽なのに。
僕は眼鏡の隙間からそんなことを考えていた。胸の中で退く群青色の排他が、己の中で死を迎えれば、どれほど、幸福に酔っていられただろう。いや、幸福に酔うふりができただろうか。彼にすべてを求めなければ、彼へのみすぼらしい愛情を無へと帰還できれば、僕はもっと正しく呼吸ができたはずだ。
瞼を閉じるたびに、シャボン玉が眼鏡の隙間から出ていく。レンズがぱりんと一瞬割れたときにだけ、僕は彼に酔う世界から、一瞬、抜け出し、正しいと世間一般に言われる世界へ戻ることかできる。けれど、すぐに薄い膜は形成され、僕を酔わすのだ。
誰に言われるまでもなく、すべての出来事が歪んでいると僕自身が一番よく知っているのに、後から突き刺さる頤使に報いることはできず、淡々と、瞼を閉じて、涙を殺すふりをする。








上品に嘲笑しなさいね




(充葉と母)


暖炉が響いている。薪が折れる音が時折して、俎板を叩く包丁の音と重なる。玄関を潜り、首に巻いていたマフラーを外し、居間の横にある衣裳置場に掛けると、洗面所へ足を動かし、うがいをして、台所の扉をあける。がらり、と重圧な扉を開くと、とんとん、たんたん、リズミカルな音を刻む母さんの背中が顔を出した。
僕が帰ってきたことに気付いたのだろう。忙しなく、だが優雅に動く手は止まることはないが、口元から「おかえり、充葉」という声が溢れる。僕はハンガーにかかっていたエプロンを身に巻き付けながら、ただいま、と返事をした。妹弟で共有して使っているエプロンは薄汚れていて、そろそろ買い換え時だな、と思いながら、母さんに近づく。
何を手伝えば良いのかと尋ねれば、母さんは「今日はなにもしなくていいわ」と言った。その言葉が珍しかったので驚いたが、どうやら今日という日は母さんの中で父さんとの思い出の日なんだろうと理解し、台所の椅子に腰掛けた。女である母さんは未だに淡い少女時代の記憶を大切に保有し、時には純情に、時には卑猥な女になる。今日は純情な部分が押し出されている。何かの記念日だから、自分一人の力で行いたいのだろう。
どうせならエプロンを着ける前に言って欲しかったよ、なんて思いながら。
母さんの背中を眺める。
母さんは調理しながらも僕に他愛ない話を投げ掛ける。妹弟がいないこの時間帯は唯一、僕が母さんへの報告を許される時間だった。僕は瞼を柔らかく閉じて、今日学校であったことを当たり障りなく喋っていく。母さんへ伝えても良い範囲で語っているつもりなのに、油断すると、甘え縋るような気持ちになってしまう。母さんは聞き出すのがとてもうまい。きっと人と人との距離感を巧みに図ることが出来る人物なのだろう、僕の母という人は。また、同じくらい小さな情報からすべてを悟ることに長けているのだ。
僕があまり好きではない母さんの一面であり、僕が甘えたくなってしょうがない母の一面でもある。

僕が一通り喋り終わるころには母さんも料理を終えていた。エプロンで濡れた手のひらを拭きながら母さんは僕に近付き、頭を優しく撫でられる。母さんの肌理細かい柔らかな手は僕の尖り無遠慮に切り揃えられた髪の毛を撫でる。やさしさとかあたたかさとか、母体がもつ特有のものが僕へと伝わり、羊水に浸っていた記憶が回帰するようで泣きたくなる。僕が世界で唯一、何の見返りもなく、甘え縋っても許される人物というのが、母さんなのだとわかり、嫌気がさす。弱さをすぐに曝してしまう可能性が付き纏い、未熟な自身の皮膚が剥がれる。
だから、撫でられた手のひらを軽く振り払う。
母さんはそのことに嫌気がさした顔をせずに、やんわり微笑むと「鞄を上に置いてきなさい」と述べた。僕は頷き、玄関に置いてあった鞄を手に取り、階段をあがる。絢爛豪華に装飾された母の趣味がつまった廊下だが余計なものは何一つついていないような気になる。階段独自の音を踏みしめながら、自室の扉をあけ、窓辺から見える隣家の様子に眉を歪める。
そういえば、彼は僕が母さんから与えられるようなあの情けなくも甘えたくなる気持ちを知らないのかと思うと、どうしてだろう、悲しい気持ちでいっぱいになった。







殺人疑惑




(充葉と女)


死ね
死ね
死ね
死ね
死ね
死ね
死ね
死ね
死ね
死ね
死ね
死ね





紙に書く。連なった文字を見て、連立方程式を思い出した。イコールで繋がっているわけじゃないのに、神経質な僕らしい文字が数学を彷彿させる。数学のように明解な解答が用意されているわけがないのだけど。
紙を皺くちゃにして、踵を返すように、ごみ箱に投げ込。インスタント珈琲の絞り粕が紙に染み込んで、僕が死んだようだと感じた。誰に書いたか理解不能な文字の羅列。思い当たる親しい顔が数個、頭上に浮かんだが払拭するように首を振る。
駄目だ。
死んでほしいなんて考えてはいけない。
殺したいくらい憎くて、殺したい愛しくて、殺してしまいたいくらい、怖い。

愛しい人間の皮を被った内臓が捲れ、生々しい肉が潤った内部が顔を表す。気持ち悪い物体だ。
いらない中身。

いつまでも僕の心に住む。あの女の顔が唾を吐き出した。









母胎沈没




(充葉と親)



人間が平等だと思っている男だもの。



反射する世界から微量の光を受け取り、沸き上がる胃液を抑えようと片手をさり気なく口元へ沿える僕の真横に立ち、母さんは述べた。
意味深で自信に溢れた言葉を飲み込みながら、濃艶な肉声で言葉を動かす母さんの姿を僕は青白く褪せた顔で聞く。
他者の内面を見抜くように語る母さんの顔は一瞬、人間ではなくなる錯覚を受けるが、次の瞬間、人間へ戻る。宗教団体に祭られる女薩のような神秘性は鍵を閉められ殺される。はじめから有り得ない存在なの、と言われているような気分にさせられ、唾が蒸発する。僕は幼い頃から母さんの変貌をよく目の当たりにしてきたが、いつまでも経っても慣れない。僕にとっていつまでも家庭を司る母であるが、他者から見れば境界線を引く美しさを保持する母。それが混沌へと導かれ、女薩へと変貌するのだ。そんな母さんに対して羽衣を隠し、愛を知らなかった女薩へ愛を与え人間へ再構築させたのが父なのだろう。だから、僕からみた母さんは人間へ、母へとなる。稀に湧きだす女らしさは目を伏せるのが利口なやり方だ。愛されているというのは、動作の節々から伝わってきているのだから。
母さんの話を聞いていると呪文を吐き出すかのような唇から、貴方苦手でしょう彼のことが、と言われているような気になった。




人間が平等だと信じているのは、神様か、誰も人を愛したことがない人だけだもの。それを、あの男は貫き通している。意志として、平等を信じているわ。


母さんは幼子を嗜めるように、彼のことを喋った。



あの男は神へあがれなかった人間ですもの。残る答えは愛したことがない生き物として表すのが正解でしょう。アムリタは飲み干したみたいだけど。まぁ、正確には男は自分の妻だけを愛しているのだけど、自覚がないから愛しているとは言えない。男は妻を特別視することを故意として避け、手前の不幸を見過ごし、世界の飢餓する人間へは情けを向けた上で、人類は平等であると告げる。人類は平等である、お前が俺の出来ることが出来ないのは、それはお前の努力が足りないからだと言ってのける。そんなこと、ないのにねぇ。男に告げられた人間は頷くか曖昧な笑みで誤魔化すしかない。充葉、貴方みたいにね。さっき、他愛無い会話をしていたでしょう。ジルくんのことで。傍から見ていて判ったもの。貴方の意見が否定され、貴方の意見が大衆の意見とされていることが。貴方は男が発する、気のようなものが苦手なのね。だから、いつもみたいに、予防薬を撒き散らす前に心を荒らされる。普通はそうだから気にする必要はないわ。あの男だけではないけれど、隣家は傍にいるだけで、滅入ってしまう人間の巣窟だもの。子供たちが悪いと言っているわけではないわ。抑え方を親から教えて貰わなかっただけなんですから。ふふ、こうやって親のせいにすると日本人らしい考え方と言われるのかしら。日本人らしい、という考え方に行き着く自体がその人間の視野が狭い証拠なのにね。ねぇ充葉、貴方は曖昧な笑みで誤魔化すしかなくなる。ね、図星でしょう。男は貴方にナイフを突き刺したことすら知らずに話を終了させた。そして、私の影に気付き、扉を閉める。男は世界で起こること、すべてを知っているつもりで、世界で起こること、すべてを知らない。男が知っているのは、男の世界の当たり前だけ。




母さんはここまで喋ると僕の頭を撫で、帰るわよ、と告げた。僕は母さんから伝わる熱を命綱としながら、落ちかけているつり橋を渡り家の扉を回す。
僕は母さんの話を聞きながら内心を抉りだされたような畏怖と納得するしかない、母さんであって母さんではない人物の説得力に唇を噛みしめていた。普段、母さんが使う言葉とはまた違った雰囲気を纏う言葉の数々だったからだ。まるで、実体験に基づいているようで。母さんが男に向けた言葉はすべて母さんに跳ね返ってくるもののように映った。勿論、受け手となるのは母としての姿ではなく、女薩としての姿であったが。

玄関で靴を脱いでいると、すべてを悟ったような双眼を僕へ向けた母さんは、にっこりと笑う。




似ているわよ。私とあの男は。ただね、私は誰かを素直に愛することが出来るようになった。その誰か、から、伝わるものを受け入れることができた。男と私の違いなんて、その程度のものだわ。だから、昔、充葉が産まれるもっと前は男のことが嫌いで仕方なかった。無視してしまえば良いのに、無視出来なくて、それは鏡に映る自分の醜態を認めたくない気持ちが全面に押し出されていたからでしょうね。私は男が嫌いだった。嫌いで嫌いで認めたくなくて仕方なかった。けれど、充葉や藍、竜に帝を産んでから、男のことが嫌いではなくなった。それはね、私が母親へなったからよ。お腹を痛めて貴方たちを産んで、私は母親へと、大人へと、ゆるやかに変化したの。そうすると、今まで嫌いだった男が、なんとも憐れに映った。憐れなのは過去の自分だった。はじめから、頂点に立っている。その頂点は自分が定めた場所であるだけで、実際は平らな盆地であるのにね。だから、さっき言った言葉は私にも言える言葉で、けど、二度と私に言えない言葉でもあるのよ。




母さんは言い終えるとエプロンを身につけ、台所へと足を進めた。僕は言い様のない気持ちにつつまれ、疑問だった点が説き明かされた気持ち良さと、過去のものだと言い張る母さんに対して、たまに女薩となっていると言えなかった気持ち悪さが渦巻いていたが、母さんは、きっとそのことにも気付いているであろうと思ったので、なにも言わなかった。
自分の世界で満足していた、女薩が母親へと変化を遂げている最中で、母さんはアムリタを飲むことを止めるほど、父や、そして父の子である僕らが愛しいのだと知った。





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