ぐちゃぐちゃになった台所を眺めて平和な場所というのは案外簡単に異邦人により崩壊するのだということを、久しぶりに思い出した。
別に悲しい記憶というわけではないけれど、昔もあったな。小学生に上がり宿題をする場所を親に貰った。部屋の隅っこの小さな机に俺は綺麗に教科書を並べておいた。毎日眺めて勉強できるということが嬉しくて綺麗にしていたのに、酔っぱらった親に酒をかけられて教科書を読めなくされた。
なんとなく、あの時のショックだった気持ちが蘇った。自分じゃどうしようもならない、理不尽な暴力に屈するようなそういう気持ち。あまり、好きじゃない。
割れた食器を片手に取り、ほむらは明日ハウスクリーニングを頼むと言っていたけれど、ある程度片付けた方が良いだろうと、メメさんが纏めておいてくれた掃除用具の中からゴム手袋を取り出して硝子を拾った。なんだか自分で片付けたい、そういう気分だった。
硝子を拾っていると、机を割られながらカレーを食べていた自分の姿を思い出して少しだけ笑った。なんだか可笑しいだろ。あの場面でカレー食べて、から揚げを頬張ってるの。驚いて泣いたり笑ったりそれなりに緊張しとけよって思う。
けど、あの時はなんだかいつも通り振舞いたかった。ほむらは兎も角、ジュリアさんもメメさんも、普段と違うような緊張感の中で息をしていてとても、息苦しそうだったから。俺くらいは、いつも通りのなんだか間抜けでほむらに愛されることが仕事みたいな男でいた方がいいなって思ったんだ。
「白銀くん」
「あ、ジュリアさん。帰ったんだ。おかえり」
青白い幽霊みたいな顔をしたジュリアさんが振り返るとそこには立っていた。メメさんを病院に送り届けたあとだ。てっきり今日はメメさんの病室で一泊するのかと思ったんだけど、多分メメさんの方に「ちゃんと自分の部屋のベッドで寝ぇ」と言われてしまったんだろう。メメさんはそういうことを言う人だから。
「メメさん大丈夫だった」
「あ……うん。本格的な検査は明日するけど、とりあえず異常はないって。入院は一週間くらい」
「そっか、良かった。すごい音がしたから三か月くらいは無理かなって思ってたからさ。メメさん凄いね」
「……うん。あの、白銀くん」
ジュリアさんはゆっくりしゃがんだ。スリッパを履いているといえ、硝子の欠片が散らばっているので危ないよって注意はしたけど、大丈夫と俺の真横に座り込んだ。三角に座って顔をその三角の中に埋めて、二、三回言葉を躊躇ったあと「ごめんね」と口にした。
「ジュリアさんが謝るようなこと一つもないよ」
「私と関係がある人がやったことだから」
親だから、という言葉をジュリアさんはわざと避けているように見えた。
俺もジュリアさんも肉親と縁を切ったという過程は一緒だけど、自分の親だった人間に興味がなくなった俺に対して、ジュリアさんは未だにアルコットという人間のことが気になるのだろう。
無理もない。忘れようとしても今回のことみたいに放置してくれないのだ。存在するとわかると視界に入るとどうしても意識してしまう。きっと俺なんかよりも彼女は余程、アルコットという男に好かれたくて褒められたくて生きてきたんだろうから。自分の人生の半分以上を意識していた人物が絡んでくるのだから、気にするなという方が無理な問いかけだ。
ジュリアさんはアルコットと家族に戻ることは諦めている。そういう決別は既に済ませたあとだ。貴方は親ではないのだと、毅然と言い張る彼女の態度から、それは読み取れた。
けど、家族にはなれなくてもまったくの他人には戻れない。そういうものなのだ。
「迷惑かけて、ごめん」
「……迷惑、かけてもいいんだよ」
ゴム手袋を脱いで震えるジュリアさんの手を握りしめた。小さい子供みたいな手。迷惑じゃない、なんて嘘は言わない。おいしいご飯は血の晩餐になったし、台所は崩壊して、明日も学校があるのに未だに起きてるし。けど、迷惑かけてもいいってことは伝えておきたかった。
俺たちは血の繋がりもないし、一緒に住み始めて一年と少ししか経っていないけど、俺が18年以上一緒に過ごしてきた誰よりも、貴女やメメさんとほむらは家族に近い。理想の家があるならこんな形がいいなって思い浮かべられるような、そういう存在なんだから。いつか別々に暮らすことになるだろうけど、それでも、今、辛いなら頼ってもらえるようなそういう存在でありたいって願ってるから。
「貴女に頼られたい」
「……うん」
「メメさんや……ほむらより頼りにならないかもしれないけど、俺だって男なんだから」
「ふふ、喧嘩は白銀くんは確かにあまり強くない、もんね。けど、ありがとう」
ありがとうと朗らかに笑うジュリアさんの顔を見て少しだけこちらも落ち着いた気持ちになれた。
ジュリアさんは手を握りしめる俺の手を逆に握り返した。視線を少し上に向けて、けど少しだけ俺から顔を逸らして口を開いた。
「私ね、アルコットのこと全部決別できたと思ってた」
「うん」
「けどダメね。会うと、顔を見ると心が騒ぐの。心の大事な所に幼いころの自分がいて、アルコットの顔を見ると、愛してよ! って叫んでしまいたくなる」
「そういう気持ちは分かるよ。俺も両親の顔を見ると、嫌な感情が出てくる」
縁を切って清算した。彼らに対する期待や希望はもうなくても、人間なんて過去の積み重ねなんだから、そういうものを無かったことにはできない。
「そう、そういうものなのね」
「うん、多分」
「私、別にアルコットともう一度家族になりたいとかそういうのはないの」
「うん」
「私の家はここだもの。けどね、アルコットのことが気になるの。あの人、ようやく自分に素直になれたのねって、思うから。私ね、初めてアルコットが佩芳のことを、佩芳だけを好きなんだって気づいたとき、どうして! って思った。どうして、シヴと結婚したの、どうして私を生ませたの! って。愛する気がないなら、はじめから結婚しないで欲しかった。あんな、愛に飢えてるシヴを番にするなら、最後まで責任取って欲しかった。そしたら、私も殴られることなかった。ひもじい思いをする必要もなかった、生まれてさえこなかったんだからって。初めて、アルコットの気持ちに気づいたとき、絶望して三日間くらい部屋に引きこもった。そしたら、ドアの扉開けられて髪の毛掴んで、シヴにアルコットの前まで引き摺り出された。私、あの時のアルコットの落胆した顔、忘れられない。興味がないような怜悧な眼差しが。いつか、暴露してやる。アルコットの隠してる気持ちを、全部暴いてやる。傷つけたいから、この男を。傷つけてでもいいから、私のことを見てほしかったから」
「うん」
「実際、暴露してスッキリしたの。私はね、前を向けた。私があの家族を完璧に壊してやったって思った。そのあと、ほむらに拾われて白銀くんとメメさんに会って、私ね、幸せだったの」
幸せと言ってもらえて嬉しい。そうだよな、ほむらが用意したこの家はオママゴトかも知れないけど、俺たちに新しい家の形を教えてくれた。楽しいことしかない空間で過ごすことを、愛してもらうためにした努力が初めて返ってくることを教えてくれる場所だった。
「幸せだったからアルコットのことが気になるの。そういう余裕が今の私にはあるから。目の前に現れるなら考えようって、アルコットともう一度向き合おうって思ったのに。こんな風に壊すつもりは無かったの」
「壊したのは後からきた佩芳って男だろ」
「そうだけど……」
「なんでも自分のせいって思うのは良くない。ジュリアさんのせいじゃないよ。さっきも言ったけど、仮にジュリアさんのせいでも別にいいんだよ」
「……うん」
「アルコットをどうしたいの」
「……話したい。アルコットが気になるから、もう別に不幸になって欲しいわけじゃないから」
泣きながらそういうジュリアさんを見て、なんて情に深い人なんだろうかって思った。見捨てられない気持ちは分からなくはないけど、俺は俺を愛してくれなかった人の為にこんな傷つきながらも向き合いたいとはもう思えない。そういう気持ちの余力があるなら、ほむらのことを考えて過ごしたい。
ジュリアさんは、気づいてると思うけど、人ってそう簡単には変われないんだよ。今のほむらを穏やかになったという人はいるけど、俺にとってほむらは出会った時からずっと同じだ。過激で気分のむらが激しくて、とても優しいのに、とても恐ろしい。何かきっかけがあればすぐに酷いことを出来る。そういうほむらが俺は怖いよ。ほむらに対する嫌われるかもしれない恐怖はきっとずっと付き纏ってる。ずっと怖いままのほむら。けど、逆に言えば俺が優しいって思っている一面が昔からなかったわけじゃないんだ。どの一面が前面に出てるかという違いくらいで。
だからアルコットも別に変ったわけじゃない。アルコットはジュリアさんがどれだけ心を砕いて接しても、佩芳以外に興味がない男であることは変わらないと思うんだけど、きっとジュリアさんはそれを分かったうえで、アルコットがスッキリする手伝いをしたいんだ。
そうだよな。人は変われない。大人になっても子供の地続きの自分があるだけだ。子供のころのジュリアさんがアルコットに愛してほしいと叫んで努力したように、大人のジュリアさんだって割り切っている中に、残滓のように彼に愛されて彼に認められたい彼の力になりたいって気持ちが存在するんだ。
「うん、わかった。けど自分から連絡を取るのは止めよう。そこまで、貴女が心を砕く必要はない」
「そう、よね」
「けど、もし連絡を取ってきたら会ってもう一度話してみるといいよ。もちろん、その時は俺とかメメさんとかほむらに連絡してから会ってください」
「……うん」
「今、白銀くんは呼ばないって思いませんでした?」
「思った……」
「素直ですね」
「うん。けど、気持ちは、ありがとう。やっぱり白銀くんは優しい人。ほむらが好きになったのが貴方で良かったって私は思ってる。そういえば、ほむらはどこにいるの」
「え! あ、風呂掃除させてます」
「風呂、そうじ?」
実はさっきから風呂を掃除するというより風呂を破壊するような音が聞こえてくるんだけどジュリアさんはそんなことも気づかないくらい追い詰められていたのかと、ドタバタとうるさい音がして、白銀! 白銀! と何度も俺の名前をほむらが呼んでいる。うるさいなぁ。
「ちょっと、早く行った方が良いわよ」
「そう思いますか」
「うん! ぜったい! メメさんがせっかく綺麗にしてくれてるお風呂なのに」
「それは大変だ。泡だらけだろうな」
「着替えのパジャマ出してきてあげる」
少しだけ明るくなったジュリアさんの声を聴きながら良かったって思いながら浴室の扉を開いた。案の定泡だらけになった全裸のほむらがいて、けど、さっきまでの俺たちの会話を盗み聞きしてたのか、思ったより落ち着いた顔でこちらを見ていた。
「うわ!」
泡だらけの体で抱き着かれて上からシャワーをかけられた。予想してたけどサイアクだ。ジュリアさんはシャワーだけだろうから浴槽洗ってなんてお願いするんじゃなかった。
「優しい子やね白銀は」
「やっぱり聞いてたのか」
「あんな大きな声で喋ってたら聞き耳たてずとも聞こえてまうわ」
「わかった上で風呂掃除してるふりして邪魔してたのか」
「だって妬けるやん。まぁジュリアも落ち込んどったし特別の特別に割り込まんであげたんや」
「そうか。ありがとう」
「そこでお礼を言えるところ、たまらんあぁ」
「どうも」
ほむらは裸のまま俺を抱きしめた。おっぱいが顔にあたって少しムラってしてしまった。いやダメだろ。今日は流石に。欲情させようとするなとほむらを押し返したけど、俺の力ではほむらに適わないので、抱きしめ続けられた。空気を読むことに長けているジュリアさんはきっと着替えのパジャマは脱衣所の前に置いておいてくれるだろうし、途中で止めてくれることはないだろうな。今日のシャワーも諦めてしまう気がする。いや、さすがにそれはダメだ。
「ほむら、やるなら部屋行こう」
「部屋ぁ? あとで考えますわ」
「あと、じゃダメだって! ほむら、ちょっと! おい!」
結構全力で拒絶したけど気づかぬうちに全裸にされあっけなくセックスに持ち込まれてしまった。ほむらの俺の服を脱がすのが異様に早いの少し経験値の差を見せつけられて腹が立つんだよな。ジュリアさんもきっとメメさんとセックスしたら同じ敗北感を味わうだろうから、したときは教えて欲しい。分かり合いたいので。


このあと、結局風呂場で三回ほどしてしまい、ジュリアさんにシャワーを浴びせることが出来なかった。彼女は気にしなくても良いと言ってくれたけど、翌朝反省の意味も込めて俺はしっかりと風呂場の掃除をした。ほむらは寝ていた。




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