07


 屠殺場へ連れていかれる牛を見ているような気分だった。
 朝、起きてきたアルコットは綺麗にされたリビングを見て驚きもせず、いつも通り珈琲を
沸かして、食パンを食べて、顔を洗ってスーツに着替えた。俺はリビングの昨日、ちょうどアルコットの母親の生首が置いていたあたりに腰掛け、一連の動作をするアルコットのことを眺めた。
 これが俺の大切なものか。
 言葉に出されて初めて自覚したが、なんともまぁ不思議な気持ちだった。そう自覚したからと言って、目の前で生きる生き物をどのように大切にすれば良いかなんていうのは分からなかった。優しく接することは可能だ。それは今まで通り、アルコットにとって都合がよい人間を演じ続けて入ればいい。きっとそうすれば好意をアルコットは向けてくるはずだ。けれど、それは仕事の延長線上のような、そのように動作すれば、そのような反応が返ってくる。頭の中でシミュレーションした通りの結果になるだけのもので、心がそこにあるのかと問われると、そんなものはない、と断言できる行動でしかない。
 今日、目の前の子どもは俺のものではなくなる。
 雲嵐に、指摘された通り、俺は目の前の子供を愛している。自覚したからと言っても、その気持ちがなんとも奇妙なものであるのには違いない。アルコットを愛している。そうか、愛しているのか、という感じで、現実味がまるでなかったが、生まれたことのない感情の正体に名前がつけられて、納得は言っている。
 愛しているのならば、今からこの子どもを連れて二人で逃げるのが正解なのだろうか。雲嵐が差し向ける追手はアルコットを不幸にするかもしれないが、それでも、これから娼婦として生きていくよりかは幸福になれるかも知れない。それが、大切にするということなのだろうか。まるで分からなかった。どうせなら、アルコットの母親の首をこの手で切り落とす前に気づきたかった感情ではある。
 腸が煮えくり返るような怒りは未だに持続している。俺はいつか雲嵐を殺す。それだけは昨日のうちに決めた。
 しかし、アルコットは。
 どちらを選んだほうが目の前の子どもは幸福になれる。
 いや、ああ、そうか、ああ、そうなんだ。
 俺はアルコットに幸せになって欲しい。そうしたい。そうあるべきだと思っている。
だからこそ、いつものように、最適解を導くことが出来ない。死亡のリスクが俺と逃亡した時の方が遥かにあがる。それが頭の中では分かっている。俺は強い。賢い。生き抜くことに長けている。けれど、一人だ。中国一のマフィアを相手に誰かを護りながら戦い抜くことが出来る自信もなければ、もし、アルコットを殺してしまったとき、俺にも一生、幸福が訪れないことがそうなる前から、分かってしまった。
逃げ出すのは今じゃない。この場所からアルコットを逃がすという選択肢を俺が手に入れるのはもっと入念に準備してからでないといけない。
ああ、確かに足枷だ。俺を縛る鎖だこれは。
いっそうのこと、今、自分の手でアルコットを殺して、こいつのことを好きになったという事実ごと消してしまいたい。けれど、出来ない。アルコットの死は俺の死と同じだ。目の前の男が殺されれば俺は殺した相手を死ぬまで殺しつくした後、けん銃で自分の頭をぶちぬくだろう。アルコットはもうすでに佩芳という男の世界の一部になってしまっている。
「佩芳」
「ん? どうしたアルコット」
「疲れてるのか? 元気ないぞ」
「ああ、感傷に浸ってるのかもなぁ。お前とお別れだから」
「……え」
「言ったろ。お前は今日からお勤め開始だ。つまり、俺の保護下からも離れる。住む家も別々、顔を合わせることもあまりなくなるかもなぁ」
「聞いてない!!! 俺は佩芳から聞いたのは教育が終わって仕事が始まるってことだけだ」
 アルコットは先ほど、俺のことを覗き込んできた心配そうな顔つきとは打って変わって、怒りを露わにしながら叫んだ。そうか言っていなかったか。言わなくてもわかると思っていた。いや、そんなことが重要だと思わなかった。住む場所が変わる程度の認識だった。
「安心しろ荷物はちゃんと送らせるぜ。お気に入りのマグカップとか持っていきたいよな」
「こんなの別にいらない!」
 アルコットはそう言って珈琲を入れていたマグカップをたたき割った。え――お前、それ俺には散々、壊すなよって注意したろ。どこかの国の王室御用達とかうんたら言いながら。それに、それより危ないだろう。思いっきり叩き落したから破片が飛び散ってる。
「怪我するだろ」
「佩芳!」
 指先を手に取り怪我がないことを確認した。まぁ、怪我してないみたいだから、アルコットがマグカップを割ったことを気にしてないなら別にいいが。
「なんだアルコット」
「……っもう会えないってことなのか。俺は、俺は」
「……会えないってことはないさ、アルコット。お前が望むならな」
 そうだ、お前が望むなら俺は毎日だってお前に会いに行ってやるよ。今から地獄につき落とす、俺のことをお前が本当に毎日、会いたいと思うならな。
 アルコット。
 俺はお前が思うよりもひどい男だ。お前には優しい一面ばかりを選んで見せてきたが本当は碌でもない男だ。お前を大切にする方法すら、今の俺には分からないでいるんだから。けれど、俺は悪い男で、俺はひどい男で、お前のことを大切にする方法が分からないと言いながらも、結局は自分の幸福のためにお前を殺してやることすらできない男だから、今から卑怯な男なりに、お前に対して呪いをかけることにする。
「アルコット、仕事っていうのはお前が思っている以上に大変だ」
「そんなこと、覚悟してる」
「ああ、けど、覚悟してないようなことをやらされるかも知れない。だから、忘れないで欲しい感情があるんだ」
「感情、だって?」
「怒りだ」
 怒りやすいお前にはぴったりの感情だろう。
 けれど、アルコット。怒りを抱いている人間っていうのは意外と図太くて死なないんだぜ。怒りを向ける矛先が生きている間はな。俺は、俺がお前を連れ出すまでにお前に死なれちゃ困るんでね。自殺でもされたら最悪だ。
 だから、忘れるな。
 お前が受ける仕打ちを。騙してそこに送り出した俺の名も。そして、王 佩芳というお前を騙していた男でさえ被害者であったと認識しろ。
「俺は怒ってるさ。アルコット、お前の奉仕先が決まったときから」
「佩芳が、俺のために?」
「はは、嘘だろって顔で見るなよ。本当だ。俺は多分、ずっとずっと怒ってた。もしかしたら、お前と出会ったときから」
 これは嘘じゃない。俺に感情を教えたのは間違いなくお前だ。激しい怒りも誰かを愛しいという感情も、他者を美しいと思う気持ちも。アルコット、間違いなくお前が俺に教え込んだ気持ちだ。
「アルコット、お前が思う怒りを忘れるな」
「けど、ずっと怒っていたら疲れる」
「ふ、はは、そうだなぁ。疲れるなぁ」
 ああ、可愛い。ああ、なんて間抜けで無垢で美しい。上手に呪いにかかってくれ。生き延びて、俺のことを待ちわびていてくれ。そんなことしなくても、お前が自分の力だけで這い上がれることは知っている。お前はそれに見合った能力も気力もある。お前はお前だけの幸福を見つけるかもしれない。その時は、その時だ。
 けど、いつだって、俺は俺こそが、お前のことを一番幸せにしてやれるのだと忘れるな。
「疲れる前に俺がお前の怒りの対象を殺してやる」
「殺す。佩芳ならしそうだ」
「そうだ。俺なら出来る。必ずな。もし、勤め先が地獄だったりしたら、そのことを思い出して欲しい。アルコット俺はおまえのことを大切にしてんだぜ、これでもな」
 そう言って頭を撫でた。
 アルコットは満足そうに俺の目をみたあと、首肯した。頭を撫ですぎると怒って手を振り払ってきたが。
 まぁ、これで呪いにはかかってくれただろうし、娼婦になるとは一言も言っていないので、俺のことを憎むかもしれないが「佩芳は自分の仕事を全うしただけだ」くらいに思ってくれるだろう。そうなるように、仕向けた。そうなるように育てた。
 ああ、本当に、お前のことを一度手放さなければいけないのが腹正しい。
 お前のはじめてを奪ってやれないのが憎たらしい。
 待ってろアルコット。お前のすべての幸福を保証できるようになるために、俺はこれから先の人生をかけてやるからな。


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