朝。
目が覚めると背伸びをして深呼吸する。新しい空気を体の中に吸い込んで、夢の中から今日が始まる時間に戻る瞬間が好きだ。ジャージに着替え、足音を立てないよう階段を下りて冷水で顔を洗う。細菌をため込んだ口内を清潔に戻すべく歯を磨き、綺麗になったことを確認して、ひっそり家の中から飛び出た。
早朝の誰もいない道路を独占するように走り抜ける瞬間が好きだ。まだ街は眠っているけれど、地平線から太陽は顔を出していて、柔らかく広がる光の景色を見るごとに、この美しさは早起きした人間の特権だと思いながら足を踏みしめる。
行きかう人々と会釈を交わし、朝早くから仕事へ向かうスーツを着た社会人が今日は10分も遅れていることを知り、少しばかり頑張れと心の中で応援してしまった。
公園の前を通り過ぎると顔なじみの老人に出会い思わず足を止める。ベンチに腰掛けた老婆はこの付近に住んでいるようで、三日に一度程度の割合でお話をする。他愛無い話。主に老婆の昔話だが、私が知らない時の話を生きた人間から聞くことが出来る貴重な機会だ。本来ならば誰にも語られることのなかっただろう老婆の過去の記憶を辿るのは中々、面白いし、話し終わったあと、彼女が朗らかに笑うのが好きだった。生い先短い人間、いつ死んでも良いよいと思えるようなささやかな時間を共有できているとするならば、これ以上、嬉しいことはないかもしれない。
話を終えると、またランニングに戻る。高揚した身体は軽い手足をどこまでも自由自在に動かす。まるで踊っているかのように。
朝から走り過ぎることはあまり良くないと分かっているのに、ついつい軽いランニングを超える距離を走ってしまうのはいつものことなのだがいい加減止めにしなければと思いながらも、毎日繰り返してしまう。少し、反省しながら、家の扉をあけた。
「ただいま」
少し大きな声を出す。ランニングを終えると家族がもう起きている時間帯だ。声を潜める必要はなく、寧ろ、私が今、この場にいるのだということを僅かながらアピールしなければいけない。
そうでなければ、子供が不在と知った両親は、いつまでも新婚のような甘さを抱きかかえ、友人のような朗らかな、まるで自分が親であることを忘れ去ったかのような顔をし続けるのだから。
私はその顔が、少し苦手だ。まるで二人が世界に二人だけだった時の方が幸福だと間接的に言われているような、言葉に出せない気まずさみたいのが存在して、少々、息が詰まる。
「おかえり〜〜碧子。朝から、すごく頑張るね」
甘い、まるでペットを可愛がるような声を出すのは両親の片割れである、スオウくんの方。艶のある黒髪はまだスタイリングされていなくて、彼が起きたばかりだということを語っていた。
髪質は私と同じなので、夜にしっかりヘヤケアをすれば朝、こんなに撥ねないのに。どうせ、お風呂からあがって自然乾燥のまま寝てしまったんだろう。スオウくんはそういう所があるし、見えない所でズボラなのだ。社会に出るとき、一人前に見えればそれで良いと思っているし、もし綻びが見えても笑いのネタになると思っている。自分がそういうことをしても許される性格と容姿をしているということを知っているのだろう。
もうすぐ私が帰って来る時刻だというのを察して、タオルを用意しておいてくれたんだろう。こういう細やかな気配りが出来るところは流石だと尊敬しつつ、有難くタオルを受け取り、ひんやりと流れ出た汗を拭きとった。
「ありがと」
「体冷やさないようにしなよ。風邪ひいたら、俺も翼も心配だしさ」
「うん」
翼が心配するという言葉に重きを置いているのが良くわかるし、そういうのを分からなかった幼いころの自分に戻りたい気持ちになるときもある。
まだスオウくんの世界に私という人間の椅子が別枠で用意されていると疑わなかったあの時代、私は純粋にスオウくんのことが大好きだった。物心つくころからスオウくんは熱心に私の面倒を見てくれた。
分からない宿題を一緒にやってくれたのもスオウくんだったし、初めてレギュラーで出場した陸上の試合を応援してくれたのもスオウくんだった。彼はどこまでも娘である私に優しかったし、私も彼のことが翼くんより大好きでたまらなかった。将来はスオウくんと結婚する! なんて言っていたものだ。今思うと、滑稽で少し笑ってしまいそうになるが、幼さ故の発言だったとどうか見逃して欲しい。
誤解しないで欲しいのが、スオウくんは今でも優しい。いや、スオウくんは基本的に誰にでも優しいのだ。そういう性格なんだろう。私は自分がスオウくんの一番だって思っていた。それくらい、大事にしてもらったから。
「碧子、お前さ朝から走り過ぎなんじゃねぇの?」
スオウくんからタオルを受け取った私に声をかけたのは、優雅に珈琲を飲むふりして、私とスオウくんの会話に聞き耳を立てていた翼くんだ。私のもう一人の両親。
翼くんは元々、自分が陸上の選手でオリンピックも世界陸上でだって金メダルをとったことがある凄い人なんだけど、自分が両親からアドバイスを受けることを嫌がっていた過去から、私に指摘をするとき、様子を伺うような態度で探りを入れる。
毎日、朝から走り過ぎなことを気にしていたんだろうけど、声をかけるか、かけないか、暫く悩んで、先ほど私とスオウくんの会話を聞き「碧子の機嫌は悪くなさそうだし言うか」と決めたんだろう。
面倒くさい性格……と思う。私では考えつかない気遣いだが、このように彼が吐き出す言葉を躊躇う人間は数少ないので、言葉を選んでいるという時点で、私に対する愛情が見え隠れして嫌いじゃない。
まぁ、だったら言ってくるなそんなこと私も自覚している、と、言いたいのだが、ここで少しでも反論すれば先ほどから私を凝視しているスオウくんに「あれ、せっかく碧子を心配してくれた翼に対してなんて態度取るの。謝ろうね」と言われるのが目に見えていた。
そう、私がスオウ君の世界の一番じゃないんだと気づいたのは、思春期になり翼くんと大喧嘩した時だった。今思い出しても、あれは翼くんの方が間違っていると言えるのだが、スオウくんは翼くんを庇ったし、私が悪いと認めるまで許してくれなかった。強制的に吐き出された謝罪の敗北感は今でもよく覚えているし、もう少し語彙力と社会における力を培った暁には絶対に両親に対して、如何に私が正しかったか、ということを言い返してやろうと心に決めているのだが、ここで気づいたのだ、自分はスオウくんの一番じゃないし、翼くんの一番でもないことを。
世界で一番愛された子供なんて思ったことはないけど、普通に両親から愛されて育ってきていると思っていた。いや、愛されていないわけじゃない。そういうと語弊があるような気がするけど、少なくとも娘である私が両親が自分に向ける愛情を疑わなくてはならないほど、私の家は歪なのだということに、その時にようやく気付けたのだ。
「明日からは気を付ける」
「ああ、そうしろ」
「翼くんは現役だった時代、どれくらい走ってたの」
「オレ? 朝は眠いし寝てた」
「うわ……」
「おい、碧子。だから祐樹くんの記録抜けなかったんだ、とか思ってねぇだろうな」
「はいはい、思ってない、思ってない」
嘘、思った。努力が足りないねって。けど逆に朝からトレーニングしなくても彼はあの時代の頂点に立つことが出来たのだと素晴らしい才能の持ち主だと改めて尊敬した。だらだら練習するだけが正解じゃない。
この話をこれ以上広げても良いことはないから、言葉をスオウくんに振る「朝ごはんは?」って。そうすると察しの良いスオウくんは目を細めながら「なにが食べたい? 目玉焼きならできるよ」と少々オーバーリアクション気味にいう。私はスオウくんが作る下手くそな目玉焼きを思い出しながら「早く髪の毛整えてくれば良いと思う。目玉焼きよりオムレツが食べたいから」と返した。
キッチンに立ち卵を二個割って、ボールに落とす。菜箸でかき混ぜながら牛乳に塩と胡椒を入れて味付けをした。バターをひいたフライパンが温かくなると、卵液を落とし、じゅわっと卵を焼いていく。
背後ではスタイリングを終えたスオウくんが、翼くんに「もう食べ終わったの!」と声をかけ、翼くんは「フルーツがまだ」とご機嫌な声を出していた。一緒に食べれることがうれしかったのだろう、スオウくんは慌てて台所までやってきて、適当に茶碗に白米をよそった。
相変わらず仲が良い。
両親の一番は私じゃないし、家族としての形は歪だと思うけれど、私はあの時から、今に至るまで変わらず両親のことが好きだし、尊敬もしている。ただ、昔のように純粋に好きだと大声で叫べなくなっただけだ。案外、これが普通の成長なのかもしれないとすら思う。
けれど、否定され、弾圧された記憶は嫌に頭に残る。あの時、強制され謝罪させられたあのなんとも言えない、言葉にしたくない感情はきっと幼いころに負った心の傷として一生、私の中に残り続けるだろう。
だから、こうして親しすぎる雰囲気を醸し出されると、心が少しざわめくのだ。
その気持ちを分かってほしいとは両親に思わない。彼らはきっとその気持ちを受け入れられないだろうから、期待もしていない。期待するだけ時間の無駄だって、そんな風に思う。
要するに両親は未だにお互いに恋して愛しているだけなのだ。まるで付き合いたてのように盲目に。そうして今後も生きていくし、それが彼らの幸せなのだから、自分が傷ついたからと言って彼らの間に割って入るようなことを私はしない。
だから私は別の、自分だけの世界を持ちたかった。
別の人と、私も両親のように、恋をして愛してみたかった。きっとそうして恋に落ちた時、本当の意味で両親のことを理解できるのだと思う。
まぁ別に理解する必要なんてものは本当のところないというのも知っている。きっとスオウくんが私の気持ちをしれば「う――ん、時間の無駄じゃない?」というし、翼くんは「そこまで人のこと気に掛けると疲れるぞ」と言うだろう。
けれど、理解したいのだ。愛しい人たちだから。あなたたちが無駄だというものを、私は大切にしたい。私の価値観をもってして。
あなたたちを理解せず、切り捨てるような人間にもなりたくない。自分自身のため。私自身の人間性の問題なのだ。きっと、私はそういう強さを手に入れたいし、自分の両親を理解できないようなつまらない人生を送りたくないのだ。
生きるからには楽しいことが多い方がいい。時間がかかっても良いから、自分の中での彼らの落としどころを見つけてみせる。
「あ、少し焼き過ぎた」
半熟のオムレツが良かったのに、焦げ目がついてしまった。料理中に考え事はいけないと反省。
少し焦げたオムレツを器に盛りつける。熱々のまま食べたいから、フライパンは水につけてトーストを片手に机まで向かった。驚くことにまだデザートを食べていた、翼くんとスオウくんは私の焦げたオムレツをみて「失敗したのか、食べてやろうか?」「碧子が作ったなら味は美味しいよ」と言いながら、オムレツを摘まんできたので、勝手に食べるなとけん制しながら、つまみ食いされたことが少し嬉しくて口を尖らせた。くやしい。



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