04 赤門を潜ると開心会が保有する道場が目に見える。歴史ある風格を醸し出しているが、中華人民共和国になってなら建てられたものなので、紅色に塗られた外装とは裏腹に室内は新しく、組の人間が小まめに管理している。 通常なら、中間管理職の人間が好きに利用していい空間ではあるが、煌が道場を借りる時は、他の人間が立ち入ることが出来ない。ギーゼルベルトの存在を外部に極力漏らしたくない煌の計らいだった。 廊下を出て右にある給湯室の冷蔵庫で冷やしておいた、お茶を持って道場へ帰ると、ギーゼルベルトが床に倒れていた。出会ってから十年の月日が経過した今、彼は台所へ背が届かなかった幼いギーゼルベルトではなく、姿形を大人へと成長させつつある。 幼い頃は天使のような顔つきをしていたが、今は骨格から変わろうとしているのか。深夜、未だにベッドが占領するあのアパートで二人一緒に暮らしているが、ギーゼルベルトは成長痛で痛む身体を抑えるように、丸まって寝ている。痛いなら声をかけなさい、と注意を促しても、平気ではないくせに、平気だというばかりだった。 「ギル」 「煌―――ありがとう」 仏頂面は相変わらずだが、出会った当初より安心した居場所いる時に見せる、油断がつまった表情を良く覗かせるようになった。煌にしか分からないだろうが、口角筋が僅かに動いて、眉が下がるのだ。白い歯が分厚い唇の隙間から見えて可愛くて堪らない表情になる。 この顔を見せられるだけで、庇護欲を駆り立てられる。独り占めしておきたくなる。 「おい、お前たち――休憩は終わりだ」 真上から嫌な声が降ってきて煌は顔をあげた。せっかくギーゼルベルトと二人の時間に浸っていたというのに、横槍が入り不機嫌に顔を膨らますと「そう、睨むなよ」と男は答えた。 男の名前は王・佩芳と言った。ギーゼルベルトと煌以外、侵入を許さない空間において、異例中の異例だった。元々、煌はギーゼルベルトへの教育を自分一人で行う予定であったが、道場を借りるとき、中間管理職総統のアルコットに許可を貰い、ついでに他の人間を追い出すように頼んだが、条件として佩芳をつけることを提示してきた。 煌は当然のように初めは拒絶の反応を示した。誰がそんなどこの誰とも知れない汚らわしい男と可愛いギーゼルベルトを会わせるものかと反抗的な態度をとり「嫌です」と大声で言い張った。 しかし、アルコットは双眸を細め、きわめて冷静な肉声で告げたのだ。 「わかっていないね、煌。お前の可愛いギーゼルベルトはまだ人間ではないんだ。お前にとって可愛いペットかも知れないが、使い物にならないとなれば、人権など突如としてなくなる。まだ彼は奴隷なんだよ。可愛く可愛く鳥かごに入れてお前が育てているのは知っているが、手加減をし過ぎて、役立たずになったら困る」 と。煌はアルコットのこの声を知っていた。人を殺すときのみ、彼がぼそりと囁く音だった。煌の同期たちもこうして、アルコットの平坦な声の下、殺されていったのだから。 煌は拳を握りしめ、条件に沿うしかないのだと、奥歯を噛み締めて睨みつけた。そうして、ギーゼルベルトが人殺しとして役にたてるよう、指導役として使わされたのが佩芳だった。 王・佩芳は屈強で食えない男だった。王という名がついていることから判るように、開心会、李・呉・王家の中で、王に所属する人間である。王の中でもかなり、位が高く次期頭首候補の後継人だった。 後継人とは開心会次期頭首候補全員につけられる、御目付け役である。家の中であれば、現頭首に次いで発言権を持ち、次期頭首候補が幼い頃は変わりに代表を務める。もし、自分が後継人をしていた子どもが開心会の頭首になるようなことがあれば、実質、組の中で一番発言権と権力を握ることが出来る立ち位置にいた。今でこそ、中間管理職総統のアルコットより立場は下だが、将来的に組のトップになる可能性を秘めた役職なのだ。 佩芳はその風貌から後継人という言葉が良く似合う言葉だった。荒れくれ者が多い、王家を束ねるにはぴったりの良く通る低く深い肉声に、屈強な身体。煌は佩芳が脱いだ所を見たことがあるが、スーツの中に収めた姿より、よほど頑丈な姿をしており、さすが王家後継人だと頷かざるおえない体躯であったし、実力も相当のものだ。煌は一度だけ、佩芳と共に仕事をしたことがある。煌が出来ればやりたくない、汚れ仕事。抗争の手伝いとして駆り出された。 抗争なんていう生ぬるいものじゃなく、圧倒的な惨殺だった。煌は佩芳の横で補佐として手伝ったが、一見、髪の毛を短く切り揃えた好青年風に見える若者が、容赦なく弱者に対しても拳を奮った。 真横で煌は見ていた。対抗組織内で一番名の売れた実力も相当する暗殺者を佩芳は蹴り一つで倒しあげた。なんでも彼の靴には特殊な金属が含まれており、蹴り上げるだけで内臓が全部潰れてしまうそうだ。圧倒的に見せられる体術に煌は唖然となりながらも、なんとも楽しそうに人を虐殺している男の横顔を眺めたのだ。 そして、怖いのはこれだけではない。正直な話、長年、この世界に身を置いていると楽しそうに人を殺す連中なんてものは、五万といるのだ。珍しい話ではない。だた、煌が真にギーゼルベルトと関わらせたくないと思ったのは、まるで佩芳が「今からお茶でもしにいくか」という、穏やかな言葉のもと、抗争を開始して、仲間が死んでいくのに表情一つ変えず、戦いが終わるとこれまた平然とした顔で「肩がこったなぁ。お、煌は大丈夫か? 疲れただろう。助かった。じゃあ、帰ろうか。帰りにケーキでも買っていこう」と述べたところにある。普通の人間は血で真っ赤に染まった中に身を置きながら、食べ物の話しなんてのは出来ないものなのだ。 佩芳は基本、優しい男だった。煌だって、幼いころから嫌なこと一つされたことないのだ。それが、恐ろしい。気性が激しく、他人にキレることが珍しくない煌だからこそ、そんな煌の逆鱗に一切触れず、無理矢理怒ってみたとしても、のらりくらりと交わされる、優しすぎる態度がずっと煌は不気味で、ギーゼルベルトと関わって欲しくなかった。 それなのに――― 「はい、センセイ」 「おお、良い返事だ。ギーゼルベルト。では、今度、俺の頭の上にあるボールを落としてみろ!」 当のギーゼルベルトは煌の気持ちなど一切、察することなく、寧ろ、指南役として選ばれた佩芳に懐いている所があった。「センセイ」などと呼び、煌は酷く、気に入らない。煌のことは指導中も煌という呼び名だけであったのに。 ギーゼルベルトにしてみても、煌以外の人間とまともに関わりを持つ事、事態が珍しい事なので、嫌いになる人物の方が珍しいのだが、それにしても良く懐いていた。 佩芳の動きは確かに、アルコットの見立て通り、煌が教えるより、よほどギーゼルベルトにあっていた。今は少年らしさを残しているギーゼルベルトだが近い将来、身長も伸び、縦の成長が止まると、今度は横に太くなっていくだろう。そうすると、今のように煌が容易く折れてしまう、腕ではなく、もっと逞しいものになるだろう。 ――けど、心配ね。 煌は武道場の隅っこで壁に凭れかかり、三角座りをしながらギーゼルベルトたちの動きを目で追う。ギーゼルベルトは明らかに強くなっている。始めたころとは赤ん坊と成人男性くらいの実力の差をつけていた。流石、生き残るために、同じ船内にいた奴隷たちを武器も使わず皆殺しにしただけがある。彼は利発な子であり、頭の方も賢く出来ているが、それ以上に、人を殺す才能に長けていた。 簡単に強いという話しではない。例えばスポーツという競技に身を置くと、ギーゼルベルトのような人間は淘汰されてしまうだろう。ルールという枷が彼を縛り、上手く活躍は出来ない。けど、人殺しにルールなんてものは無用だ。好き勝手殺せば良いのだから。彼を縛ることは出来ない。 圧倒的な力は、本能的にどうすればどうやって人が死ぬのかということを知っているし、既に何人も殺した上で彼の生が成り立っているので、今更誰かを殺すことに抵抗があるなどと言わないのだろう。 それは開心会側としては喜ばしい事なのだろうが、煌としては辛い現実であった。組織は将来、ギーゼルベルトを暗殺者や抗争の良い武器として利用するつもりなのだ。暗殺者は組における汚れ仕事。黒社会でも忌み嫌われる存在だ。最終的に使えなくなった暗殺者が島流しのように、組織から殺されたり、無茶な仕事を与えられ死んでしまったり、精神が可笑しくなって自殺するといった結末を辿るということを煌は知っていた。そんな風にさせたくない。 ギーゼルベルトのあのあたたかい、穢れを知らない掌はもっと一般的な幸せを掴むために存在しても良い筈なのだ。この世の誰よりも可哀想な目に、彼はすでにあっているのだから。あんな、血の残酷な景色を見た上で、彼は生きているのだから。これ以上、引き戻せない場所へ来る必要などないのだ。 煌は人殺しは好きではない。 抗争にだって好きで行っているわけではない。暗殺者としての仕事だって好きで引き受けているわけではない。ただ、殺しの仕事は良い金になる。将来、ギーゼルベルトと幸せな人生を歩むために必要な金が。 ――なんとか、ギルが大きくなるまでにお金をためて組を出て行きたいね…… 中間管理職で奴隷として買われてきた人間が自由になるのは、それなりの対価を要求される。一つは長年勤めあげ、組へ自分自身が買われた時の金額を支払うということ、もう一つは他の誰かの手によって買われるということ。 煌はいつか自分の金でギーゼルベルトを買い上げる予定だった。ギーゼルベルトが汚い仕事に就く前に。 どんなに拒絶出来ても二十歳までだということを煌は知っていた。アルコットはそれ以上、見逃してはくれないだろう。急かすように佩芳という厄介な相手とギルを接触させ、育てあげようとしている。恐ろしい男だ。 ――ギル、そんなに強くならなくても良いんですよ 貴方は自分を護る術だけを手に入れれば良いのだと、必死で汗を流すギーゼルベルトの姿を見て煌は唾を飲み込んだ。 05 勃起をしたのは十四歳の時だ。腫れ上がった陰茎をギーゼルベルトは驚いた眼差しでみた。煌は性教育について、ギーゼルベルトに何も教えていなかったので、朝起きたら反り上がっていた陰茎を見てギーゼルベルトは硬直した。 これは、なんだ――と不可思議な現象に自分は病気になってしまったのではないかと脅えたが、暫くすると通常通りの陰茎に戻ったので一日目では何も言わなかった。 二日目の朝、起きると再び陰茎が反り立っていた。煌に声をかけようとしたが、彼は慌ただしく家を出る準備をしていた。最近、煌は帰りも遅く、朝も早く出ていく。疲労しているのが丸わかりな様子にギーゼルベルトは「大丈夫か?」と問いかけることしか出来ない。一度「仕事が忙しいなら俺も働く」と抗議したが、猛反発をくらい一週間近く口を聞いて貰えなかった。ギーゼルベルトにとって何が一番、堪えるか煌は熟知している。口を聞いて貰えないと、煌と共にいる時間の意味を持たない。喋らない人間など空気と一緒だからだ。結局、ギーゼルベルトが唇を噛み締めて「悪かった。我が儘をいって」と謝ったのだ。煌は喧嘩する前から、その結論になるのが見えていたといわんばかりの顔で微笑んでいた。だから余計にギーゼルベルトは忙しなく働いている煌の邪魔をすることが出来ない。時間があるときで良いかと、一週間近く、謎の現象と対峙した。 落ち着いて話し合う機会を設けることに成功したのは、一週間目の朝だった。煌は久しぶりにアルコットから言い渡された仕事が休みらしく、ギーゼルベルトと共に朝食をとった。煌はギーゼルベルトには完璧な食事を用意するくせに、自分でとる食事は随分と適当であった。肉ばかりの偏食家で「なら俺もそれで良い」というと、首を振って「ギーゼルベルトはちゃんとしたの食べなきゃだめね!」と怒っていた。一応、自分が食べている食事が可笑しいという自覚はあるようだ。 朝食は新鮮な中国では珍しいサラダと、ご飯。玉子スープに豚の生姜焼きが出されていた。ギーゼルベルトはがつがつと床にしゃがみこみ、貪ったあと、食器を洗面台まで持っていき、洗った後で、煌の前に立った。 「煌、ちょっと相談がある」 「なにあるか? なんでもワタシにいうと良いよ」 煌はギーゼルベルトに頼られることを好んだ。普段、世話になりっぱなしという感覚があるので、ギーゼルベルトは滅多に煌へお願いをしてこないので、偶に頼られると口角をあげて、偽りない笑顔を見せた。 「朝になると陰茎が立ち上がっているんだ」 「ん? んん?」 「病気なんだろうか……お前は医術の心得もあったはずなので、見て欲しい」 恥ずかしそうに俯いていう、ギーゼルベルトを目の当りにして、煌は自身の鼻筋を抑えていた。頭が痛いのか? とギーゼルベルトが心配そうに尋ねると「大丈夫ね」と首を横に振った。 煌の中で生まれているのは、後悔と反省であった。ギーゼルベルトを綺麗に育てたいあまり、性教育を怠った自分の結果が無垢すぎるギーゼルベルトを作り上げていたのに、不安そうにおずおずと訊いてくるギーゼルベルトを見ると、なんて可愛らしい天使なんでしょうか? と抱きつきたい衝動を隠せないのも本当なのだ。 「大丈夫よ、ギル。ごめんね、ワタシが興味ないから忘れてたよ。それはギルが大人になった証ね」 煌はギーゼルベルトの肩に手を置き、朝勃ちの現象を丁寧に教えてくれた。 ひとまず、病気ではないと安堵したギーゼルベルトであったが、煌に説明されたものの中にある、ある一つの単語が気になった。 「女性の裸とか、興奮したときに勃起するよ。ギルがどんな夢を見たかワタシはきかないが、その夢に出てきたのはギルのタイプの人かもだよ。わ――怖いよ。あ、けど、朝に勃起しちゃうのは、生理現象的な所もあるから、興奮だけとはいえないんだけど」 という言葉をぶつぶつ吐かれた。それまで、そうか大人になったのかと納得して訊いていたギーゼルベルトだったが、興奮した時に訪れる現象であるという煌の一言が入ることにつれ、顔色が蒼白した。 ギーゼルベルトが見たのは煌の夢だった。別に煌が脱いで悩殺ポーズを決めているわけではなかったが、肌の白い煌をずっと眺めている、ただそれだけの夢だったのに、自分は興奮してしまったのだと恐ろしかった。 ぞわり、と悪寒がした。今までギーゼルベルトは性的なものを理解していなかった。煌にこのたび、性教育をがっつり受け、性欲がどのようなものなのか理解した。それを夢の中に出ている煌と重ねてみれば、自分は煌を抱きたいということになってくる。 なんて、おぞましいんだとギーゼルベルトは拳をつくった。親がわりに勃起することの異質性は、今まで無垢であったギーゼルベルトとて理解することが出来た。 自分は煌に興奮などしていない――! 言い聞かせて、ベッドの中に潜り込んだ。買われたあの日から、ギーゼルベルトと煌の部屋は変わらず、ベッドも無駄に大きくて寝心地が良い、キングサイズのベッドを二人で利用している状態である。成長痛を終え、身長がぐんぐん伸びてしまったギーゼルベルトは丸まって背中を向けて寝るのだが、横にいる煌の息遣いを聞くたびに、心臓の音が大きくなっていく。 違う! と布団をかぶり、強制的に目を瞑ったが、翌日、起きてしまえば、夢精しており、ズボンの中が気持ち悪かった。女の人の夢ならどれだけ良かったであろうと、昨日、性教育を一通り受けたお蔭で、このズボンは一人で洗面所で洗うものなのだと理解したギーゼルベルトは溜息を吐き出した。 夢の中に出てきたのは、紛れもなく、煌であった。扇情的に声を荒げ、ギーゼルベルトに向かってキスしてきた。丁度、適当に煌が昨日買い与えた、AV雑誌のように。白い肌を見せて、赤い口許をこちらへ向けた。 「ギル」 「っ―――」 ズボンを洗いながら意識を飛ばしていると、煌から声をかけられた。びくんと肩を震わせて隠そうとするギーゼルベルトを発見して、煌は慈愛に満ちた親が子へ向ける最大限の愛情を示すかのように「おめでと」と言った。勃起ではなく、射精したことに対する祝辞であることは直ぐに分かり、耳朶まで赤く染めた。 「出て行ってくれ! 煌!」 怒鳴ると煌は「照れてるね」と囃すような言葉を残して、スキップをして台所兼廊下を歩いていった。 再確認をするようにギーゼルベルトは「煌は親だ」と呟いた。 彼はまぎれもなく、船の中で人を殺したギーゼルベルトを普通の人間のように扱い、誰からも愛されず不気味がられていたギーゼルベルトの身体を包み込んでくれた人であった。彼の顔を見て、手に触れた時、港でみた現実のものとは思えない景色よりも、煌の事が生きる希望のように映った。 駄目だとギーゼルベルトは眉間に皺を寄せた。自分の気持ちは煌を傷つけるだけの感情なのだと瞼を閉じた。 髪を伸ばし始めたのは、ギーゼルベルトが自分の恋慕を拒絶するかのように、見て見ぬふりを始めた十四歳の終わりだった。 ギーゼルベルトの髪は今まで煌が切り揃えていた。成長に合わせ、大人びた自分自身を見せたかったのでオールバックに髪型をセッティングするなどという工夫をしていたが、基本的な髪形は拾われた頃から変わらなかった。おそらく、煌が美的感覚的に少々、歪んでおり、彼の髪型も、拾われた頃から三つ編みを前で括ると言う機能的な髪形を変えることはなかった。 「髪を伸ばそうかと思う。煌に見習って」 ぼそり、とギーゼルベルトは髪を切って貰うため、風呂場で椅子に腰かけているとき、呟いた。鋏を持って腕まくりをした煌は目を見開き、シャキシャキと鋏を空で動かしていた。 「それは、素敵な案あるね! ワタシと一緒なんて、まるで本当の親子のようね!」 煌は歓喜を表し、ギーゼルベルトの後ろから抱きついた。ぎゅうっと締め付けられる抱擁の中にいながらギーゼルベルトは罪悪感でいっぱいになった。 ずっと前から気づいており、あえて追及しようと思わなかったが、煌にとってもギーゼルベルトは唯一の支えであり、親子として依存を求める人間だった。元々、親しくなると仲が良いことを皆にアピールしたがる性格であるというのも関係しているが、ギーゼルベルトとの関係を「ワタシたちはとっても仲が良い親子なんです」と言って回るのを好んでいた。そして、それを裏付けるような行動をギーゼルベルトがすることを喜んだ。拾われたばかりの頃は違和感さえ抱かなかった。今でも殆ど変らないが、ギーゼルベルトにとって煌という人間は世界のすべてであり、彼を基準として常識が構築されていった。 煌はギーゼルベルトを一つの空間に閉じ込めたがっている。狂気的にというより、親がもつ保護欲から来ているものだろう。いきすぎた、過保護と名付けるのが正しい。現にギーゼルベルトが名前を言える人物は、十四歳の時点で中間管理職総統のアルコットと、自身に武道の稽古をつけている佩芳と煌の三人だけであった。他者と接触を拒み、安全で大事な空間にギーゼルベルトを閉じ込める。だから、ギーゼルベルトはこの関係の異質さに違和感を抱くようになるまで数年かかり、性的な欲望を煌へ抱き、煌に対して自分が向けているこの感情はただの性欲だけではなく、恋慕なのだと知ったときに、答えなければいけないと決断した。 そして、それを利用するかのように、髪を伸ばすことを告げた。髪の長さは戒めだった。少なくとも髪を切るまでは、煌と共にいようという。 限界がいつかくることを、ギーゼルベルトは察してはいた。この気持ちが誤魔化せるものでないということは分かっていたのだが、閉塞感がある世界で自分を護り、幸福を与えてくれた彼に対する恩返しがしたかった。 彼が必死に護り、慈しんでいる世界を自分はいつか壊して出て行くのだと思うと申し訳なさは募ったが、ギーゼルベルトは自分の性格を熟知しているせいもあり、ずっと耐え抜くなど無理だということを知っていた。そして、甘やかされて育ってしまったせいで、自分の気持ちに振り返ってくれない煌に対し、苛立ちを募らせ喧嘩ばかりしてしまう日々がくるであろうことも。 「今日は切り揃えるだけにしてくれ」 「まかせなさい! ワタシ上手いよ。髪が伸びたギルも素敵ね」 夢みたいに顔をころころ変えながら、喋る煌の口を塞いでやりたくなった。 06 腰骨まで伸びた髪の毛をギーゼルベルトは鏡の前で括り直した。動きやすいよう後ろで束ねると、大人びて見える自分の顔を凝視する。十八歳になったギーゼルベルトの背は煌を抜き、巨人と称されるほど大きく成長した。縦の成長だけではなく、ようやく筋肉がつき始め大人びた身体つきへと変化しつつあった。 「行ってくる、煌」 「うう、ギル――気を付けるよ」 ギーゼルベルトが一人で外へ出歩くのは煌へ引き取られてから初めての経験だった。今日は佩芳との武道の用事が入っており、通常なら煌と共に武道場まで足を運ぶが、急遽、アルコットから頼まれた仕事が入った。猛反発した煌だったが、アルコットが「やれ」と命令することを覆すことが出来る人間などこの界隈に僅かしか存在しない。また、そんな人間が煌の我が儘を聞いてくれるはずがなく、ギーゼルベルトは始めて一人で外出する機会を得た。 別に監禁されているわけではないので、煌が仕事へ行っている間、出かけることは可能だったのだが、もし、煌が帰ってきた時に自分がいないのを発見すると、唖然と口をあけたあと、立ち竦み、吃驚を上げ、汗だくになるまで探し回るのではないかと想像すると家の扉を開けて、外へ飛び出して行こうと言う気にはなれなかった。扉を開けた煌は酷く落ち着いた顔をして、こちらを眺めているのだ。ギーゼルベルトが彼からの愛情を感じる瞬間であり、疑似家族に浸っている煌が最近では、鬱陶しく思う顔でもある。 「とっても、とっても心配よ――」 そう言いながら、ギーゼルベルトに抱きついた煌の腕を引き剥がす。 「いつも通り稽古をつけてもらうだけだ」 「うう、そうね。けど佩芳に嫌なことされたらすぐに言うよ。ワタシ、取っちめてあげるよ!」 煌は意気込んでいるが、すでにギーゼルベルトの方が腕っぷしだけでいうと強く、もっと追究するなら佩芳に嫌なことをされたことなど一度もなかった。寧ろ、煌とだけ接する窮屈な世界において、解放的とすら思える場所でもあった。 踵を返すと煌は寂しそうにこちらを見つめていた。熱い眼差しが背中を刺して、振り切るように家を出た。 広すぎるあまり二人しかいない武道場は殺風景に見える。ギーゼルベルトは、足蹴りを佩芳に食らわせようと、指先に力を溜め、床を蹴ったが、軽くかわされてしまった。肉弾戦となると自信があるのだが、足技を利用した攻撃は佩芳には悉く交わされる。上半身を利用し、身体を回転させ捻りだす拳を利用した業の方が彼相手に対し的中率は高い。 「よし、ここまでにするか」 佩芳は中国黒社会を支配する開心会の幹部生とは思えない、爽やかな口ぶりで、休憩の合図を挟んだ。次の攻撃を組み立て動かしていた身体を止め、ギーゼルベルトは顔をあげた。 休憩は煌がいるとギーゼルベルトの為に甲斐甲斐しく世話を焼くため、お茶などが常備されており、エネルギー補給ね! と言いながらお菓子を食べさせてくれるのだが、今日はそれがない。二人して給湯室の冷蔵庫に入っていたペットボトルのお茶を飲む。甘い烏龍茶の味が咥内に沁み渡ってきた。 武道場の壁に凭れかかり、天井を見ていたギーゼルベルトに先ほどまで沈黙を保っていた佩芳が突如、話しかける。 「ギルは煌のことが好きなんだろう」 身も蓋もない会話にギーゼルベルトはお茶を拭きだしてしまった。咽かえるギーゼルベルトの背中を佩芳は「大丈夫か?」と優しく撫でる。 「な、なにをいきなり!」 「いきなりじゃないぞ。ずっとコイツ煌のこと好きだなぁって思っててさぁ。聞きたかったけど、煌がいただろ? 今日がチャンスだってな」 佩芳はギーゼルベルトの頭をぽんぽんと軽く叩いた。暴かれていたことが恥ずかしくて、頬を真っ赤に染めたが、佩芳であれば知っておいて貰って良かったのかも知れない。胸に秘めた気持ちを抑えきれるほど、ギーゼルベルトは大人ではなく、誰かに吐露してしまいたかったからだ。 それに佩芳には不思議な所がある。接する時間はギーゼルベルトが稽古をつけてもらっている間だけだというのに、今回のように、ギーゼルベルトが悩んでいることを言い当ててしまうのだ。彼は誰に対しても、敏感で人の悩みをぬるっと救ってくれる所があるようで、皆から慕われるのも納得がいった。後継人という役職も頷ける。 アルコットいわく佩芳も自分と煌同様、元々は奴隷出身で開心会に買われてきたことがあるようだ。彼はアルコットより数歳年上で、昔は共に訓練を積んだこともある仲間だといっていた。彼は中立ではなく、王家に買われた奴隷らしいが。 それを言われたあと、傍から見ているとアルコットの方が形式上、立場が上だというのに、佩芳には頭が上がらないのか、人を嘲笑うような顔つきではなく、幼い子どものように見えることがある。口が裂けても言えない台詞だが。 尤も、後継人という立ち位置に収まっているのだって、佩芳の気紛れであることを組織の内部は承認しているような風向きだ。現場にいるのが好きで、そんな上に登っても意味ねぇだろう、というのが彼の口癖で、単純な戦闘力だけではなく、金を稼ぐことに対しても類い稀なる才能を持っているらしい。 マフィアの位というのは、強さは頭の良さだけではなく、どれだけ組に金を投資できるかということも、大きな権力を握る大切な要因なのだ。例え、殺し合いが不得意でも、組に収める金が大きいほど、優遇される。佩芳は時には乱暴な抗争だって王家の人間なのだから好んで行うが、その他の場合、ほとんど無傷で大きな利益だけを話術でかすめ取ってくる。 ギーゼルベルトはそんな佩芳を尊敬していた。傾倒はしていないが、憧れの眼差しで彼に武術を教わっていた。 「そうだ、俺は煌のことが好きなんだ、佩芳……けど、煌に気持ちを伝えることなんて出来ない」 「どうしてだ? 煌だって言えばギルの気持ちに応えてくれるだろうに」 「煌の気持ちと俺の気持ちはまったくの別物だ」 髪が長いのがなによりの証だというように、ギーゼルベルトは吐き捨てる。恋慕を捨てることも出来ず、そろそろ、この気持ちは限界が近づいている。煌の元を去る日はそう遠い未来の話ではないのだと、ギーゼルベルトは目を細めた。 「別物でも甘えれば煌はお前の願いを聞きうけてくれる。そうだろう?」 「しない、そんなの」 「そこが、お前の優しすぎる所だよなぁ」 佩芳は再びギーゼルベルトの頭を撫でた。この身長になってから頭を撫でられるので、佩芳の方が手を上にあげている状態なのだが、心理的には幼い子供に戻ったようだ。 「好きで仕方ないんだ」 ぽつりと呟いた。 煌という人間の事が好きで好きで堪らないから、いっそうのこと憎たらしい。 ギーゼルベルトは佩芳に溜まっていた気持ちをすべて吐き出した。初めて夢精した日のこと、髪を伸ばす決意をしたこと、そして、決意をしたにもかかわらず、横で寝息を立てる彼を利用するかのように、オナニーをしたことがあるということ。煌が疑似家族を求めているということ。ギーゼルベルト自身も家族を壊したいとは望んでいないということ。 「そっか、そっかぁ。辛かったな」 泣き出しそうなくらい声を震わせながら言い終わったギーゼルベルトの肩を佩芳は叩いた。下を向いていたので、佩芳の表情はギーゼルベルトには見えなかったが、同情して励まそうと必死な顔をしてくれているのだろうと、ギーゼルベルトは思っていた。 実際、佩芳の顔を覗いてみると、なんとも面白そうな笑いを堪えるように口角をあげ、いつも笑ってばかりいる精悍な顔つきが嘘のように、冷ややかな眼差しをしていた。だが、ギーゼルベルトが顔をあげると、いつもの表情に戻った。 ギーゼルベルトに聞こえない声で(大丈夫、もうすぐ離れられるよ)と呟いた。 なにか言いましたか? とギーゼルベルトが尋ねると、佩芳は「なにも言っていないぞ」彼は屈託なく白い歯を見せていた。 07 チャイムが鳴った。雨が燦々と降り注いでいた静かな日だったので、よけい、チャイムは響き渡った。 ギーゼルベルトが風呂を沸かし、夜ご飯を拵えている時間だった。夜ご飯といっても、煌が今朝がた作っていった食料をあたため盛り付けるだけの作業だ。 突然の来客にギーゼルベルトは煮込んでいた鍋の火を止める。煌はチャイムを鳴らさない。客人が来たら出るなと躾けられているが、念のため、覗き穴に目をいれると、そこにはアルコットが立っており反射的に扉をあけた。 「アルコット様」 「ギーゼルベルト大きくなったね」 アルコットの前に立つと強制的に背筋を伸ばされた気分になった。家の玄関だというのに、緊張が走る。アルコットは不気味な笑い方を残し、ギーゼルベルトが制止を促す前に靴を脱ぎ室内へ上がる。睥睨すると家の狭さに溜息を吐き出した。 「君に話があってきたんだ」 「私にですか?」 ギーゼルベルトは普段、煌と共に食事をとっているローテーブルに煌を案内すると、正座をして話を聞いた。アルコットが自分に話すことというのは、いったい、なんの用なのだろうかと、ギーゼルベルトは首を傾げる。 「君はもう、二十歳を超えた。そうだね」 「ええ。二十歳になりました」 「と、いうことは、この国の憲法で定められた成人年齢を二年も超えてしまったということだ」 「そうですね」 「大人の君にいつまでも煌の庇護下にいてもらっては困る。最近、中立で書類整理というアルバイトじみたことはしてくれているようだけど。私が君を拾ったのはそんな目的じゃない」 言われるまでもない台詞を吐き出され、ギーゼルベルトは生唾を飲み込んだ。いつまでも現状が続くと思っていなかった。組に拾われた恩には報いるつもりだったので、煌に頼み込んで書類整理の仕事だけは任せて貰えるようになった。勿論、一番初め頼み込んだときは、反論され無視される時間が続いたが、なんとか仕事を貰えるようになったのは、佩芳が口をきいてくれたからだ。 煌がいくら喚こうと、ギーゼルベルトがきちんとした仕事を任される機会が巡ってくるということは、理解していた。それが、ついに来たのだと、ギーゼルベルトは首肯した。 「君の方は理解力が高くて助かるよ。じゃあ、詳しい仕事内容は王関係だから。明日、王家に来てもらっても良いかな」 「わかりました」 アルコットは要件だけを言い終わると、立ち上がり、部屋を後にしようとした。その時、部屋の扉が開き、憤怒した煌が入り込んできた。後ろから何故か佩芳もおり、アルコットに申し訳なさそうに掌を顔の横にあて、ごめん! のポーズをとっている。彼がアルコットがギーゼルベルトへ会いに行っているとバラしたのは一目瞭然だった。 「なに考えてるね! ワタシを通さずにギルとあって! 駄目よ! ギル! なにを言われたかわからないけど、ワタシは反対するよ」 「奇声を発するのはやめなさい、煌」 「これのどこが黙っていられる状態ですか! アルコット」 煌は土足のまま室内へ上がり込み、アルコットのすまし顔に拳を食らわした。仮にも中間管理職総統に拳を食らわすことが出来る人物がいることをギーゼルベルトはこの時、初めて知った。 頬からアルコットの白人の肌に真っ赤な血が流れている。美しい男は鼻血を流す様子さえ、様になっているが、普段、机に向かって書類を整理することが多い役職についている男とは思わない、腕力で煌の手首を掴むと、くるっと回転させ、床に叩きつけた。 「仕事をさせるのは当たり前だろう」 「駄目ね! 嫌ね! よくないね! そんなの、ギルがする必要ないよ! ワタシがするから、ワタシがするから、ギルにそんな酷いことさせないでよ」 肩を震わせ泣きそうな肉声で煌は叫んだ。後頭部を強打しているので、痛い筈なのだが、痛さなど気にせず、アルコットを睨みつけている。 ギーゼルベルトはその光景を見ながら、改めてどうして自分はコイツとずっと一緒にいてやる選択肢をとることが出来ないのだろうと胸が痛んだ。煌が自分とは違う形であるが、なによりギーゼルベルトのことを愛してくれているのは、言葉にしなくても分かる事実だった。 行動、一つ、一つが物語っている。 例えば、煌が必死で働くのはギーゼルベルトのためだ。本来、中立の中で群を抜いた成績を収めてきた煌に与えられる仕事量はそれほど多くなく、優秀であるのでえり好みできるのだが、与えられる報酬額が多い仕事をとってくる。額が多いというのは、当然のように危険な仕事だ。 彼が人殺しをして帰ってくる夜は分かる。先に寝ているよう、電話が入り、寝静まった深夜に忍び足で帰宅する。 そろり、そろりと玄関を歩く音に反応してギーゼルベルトは目が覚める。真っ赤な返り血は洗い流していても、酷い匂いがする。目を開けずとも、煌が人を殺したあとなのだということが判る。 彼はいつも真っ先にギーゼルベルトの部屋にきて、寝ているギーゼルベルトの顔を確認する。ふふふと、笑い声を殺して泣きそうな顔をしている。「抱きしめたいけど、抱き締められないな」と零して、部屋を後にする。 いつだって起き上がって、抱き締めたいが、家族として彼を愛することに限界があるギーゼルベルトは煌の腕を掴めなかったし、煌が綺麗な所ばかり提供してくれる世界の中で、汚れ仕事を見せたくないというのは重々承知の上だった。覗いて暴いてしまうと、煌はきっと死にたくなる絶望を味わうのだろう。 そんな気持ちを味わってまで彼が仕事をするのはギーゼルベルトを汚れ仕事に関わらせたくないからだ。組が生まれながらにして殺人鬼の才能を持つギーゼルベルトに与える仕事など先が知れている。早く二人で組を抜けるのが煌の夢であり、希望であった。 「いやよ、ワタシ。ギルにそんなことさせたら、お前らでも殺すよ」 物騒なことをいうと、アルコットは煌を鼻で笑った。お仕置きが必要かな? とポケットに忍ばせておいたナイフを取り出す寸前で、佩芳の制止声がうねる。 「ちょっと待てって。な、お前らも落ち着け」 「落ち着けって落ち着いてられないよ! しかもなにね! お前!」 「落ち着けって。あのなぁ、ギルに任そうとしている仕事は俺のボディーガード。だからお前が思っているような危ない仕事じゃないって」 「危ないよ! ギルに弾除けになれって言ってるのと同じね! 弾除けなら他の人間でも使うよろし! ギルにそんなことさせられないよ!」 「大丈夫だって。煌だって俺の強さを知っているだろう? ギルはなにかあったら、師匠である俺が護ってやるって。な、だからお前も落ち着けよ」 佩芳は煌の頭を撫でて、押し倒しているアルコットを上から退けた。煌は抵抗しようと、佩芳の腕を動かそうとするが、彼の手は堅牢で力では煌は抗うことが出来ない。 「煌――」 ギーゼルベルトが声を出す。黙って下がってなさい! と煌が怒鳴る前にギーゼルベルトが次の言葉を放った。 「俺はやってみたい。煌―――」 お前一人で辛い思いをさせるのは嫌だし、組を抜け俺と一緒にいようとしているお前と別れる覚悟があり組に恩を返したい自分とでは、元々、歩んでいる方向性は違うのだということばを咽喉元で飲み込み、双眸だけで訴えると、間に入った佩芳が詳しい話をしてきた。 「俺がさぁ、ちょっとミスして暗殺者に首んこ狙われちゃってるわけよ。んで、それの護衛を頼みたい訳。王家に住み込みで護衛しろってわけじゃねぇし、きちんと17時には家へ帰してやるよ。殺しの仕事もない。危険はあるが俺がいるから最小限に抑えられる。どうだ? かなり良い条件をこちらは提示している」 「だから―――!」 煌が反論を口にする前にアルコットが割り込んできた。 「煌、いずれギーゼルベルトには働いてもらうことになる。お前が否定しようと、変わらない。それに、ギーゼルベルトとお前、二人を解放出来るだけの額をお前はまだ組織に捧げていない。わかるか? もっと汚い仕事に彼を回すことだって出来るんだよ」 良く考えなさいというアルコットの言葉を最後に煌は何も言わなくなった。 翌日になると王家へギーゼルベルトは初めて足を踏み入れた。昨日から降り注ぐ雨に変化はなく、傘をさしながら王家の門前に立つ。王家は西洋の王宮のように、石を削られて出来ており、中国とは似つかないヨーロッパ建築の大きな目立つ家だった。 門には柄の悪い構成員である門番がたっており、ギーゼルベルトと付き添いでやってきた煌の顔を確認すると中へ通してくれた。 広大な整備された芝生がある庭。真ん中には通路替わりに石畳がひかれており、真っ直ぐあるくと、ようやく玄関に到着した。吹き抜けの真ん中に螺旋階段がある大きな玄関は真上にシャンデリアがかかっており、趣味の悪さが見てとける。 小さなおんぼろアパートが世界のすべてであったギーゼルベルトには煌びやかな空間すぎて、目を細めたが、いつも道場で合う顔とまったく変わらない笑みを浮かべ、佩芳が現れた。 「良くきたな。座れ、座れ」 客間に案内されると、大きなソファーが机を挟み向かい合うように設置されていた。アンティーク調の花柄が描かれたソファーに天然の木を磨き上げ、年月をかけてつくりあげたという、焦げ茶色のテーブルが設置されており、メイドらしき女性がお茶をおいて出て行った。 「相変わらず、趣味悪いね。ワタシ、王家嫌いよ」 「おいおい、嫌いとかいうなよ。相変わらず辛辣だなぁ、煌は」 「辛辣じゃないね。お前! ギルに怪我一つ負わせてみろ、殺してやるからな」 脅しではないと思われる言葉が吐き出され、おお怖いねぇと佩芳はおどけてみせた。 昨夜、納得したかのように見えた煌であったが、やはりギーゼルベルトが働くことに対して、仕方ないから黙ってやったというスタイルを貫き通しているみたいだが、ギーゼルベルトにとってやめて欲しい姿勢だった。 一層のこと、言ってしまった方が良いのかも知れないと、恋慕を知っている佩芳に向かって、どうすれば良いだろうという視線を投げかけると、佩芳は得意気に口を動かした。 読唇術を心得ていたギーゼルベルトは彼が何をいおうとしているか、理解した。 『言ってしまえ』 すべてを告げろと述べている。だって、どうせお前は煌のことを離れるつもりなんだろう? という色が目に宿っていた。 ギーゼルベルトは決意したかのように、椅子に腰かけ佩芳に向かい文句を告げている煌の腕を引っ張る。 「煌――」 「なにあるか、ギル! ちょっと今、ワタシ大事な話してるよ!」 「俺も大事な話があるんだ。聞いてくれないか?」 声を少し落としてギーゼルベルトが発すると煌は佩芳へ唾を吐き出し、ギーゼルベルトと向かい合った。 本当に言ってしまっては良いのか? とギーゼルベルトは煌の真っ直ぐに自分だけを愛してくれた眼差しを見てしまうと躊躇いが生まれ、焦ってしまうが、言わなければ突然、煌にとって裏切り行為を自分は働くのだと思うと口が開いた。 「煌、俺は――――」 家を出て行く意思があるということ。戻ってはこないということ。お前のことを親ではなく恋人として愛していたことを話そうとした瞬間、窓ガラスが割れた。 パァンというおとがした。数個にわたっておとがした。 どくん、どくんと、嫌な声がしている。ギーゼルベルトの双眸は迫りくる、銃弾を見てしまった。煌は気付いていない。窓ガラスは煌が背を向けている方向にあった。ギーゼルベルトと話す為、向かい合ったので窓に背を向けていた。 見えていない。逃げられない。速度の球が近づいてきていた。ギーゼルベルトは咄嗟に煌の肩を掴んで自分の後ろへ突き飛ばした。自分が煌の盾になれば良いと決断したからだ。 しかし、球はギーゼルベルトの髪を掠り、長髪が切れてしまっただけで、他は違うものにあたった。 最悪は免れたが、次に最悪な事態がギーゼルベルトの脳内で渦巻いている。 目をあけると、続けざまに入ってきた銃弾に、自身が倒すことが出来なかった身体が揺れ、血を拭きだしていた。 久しぶりにギーゼルベルトは人の血を浴びた。 佩芳がモノのように横に倒れ、身体から噴き出た血で溢れかえっていた。状況はどう贔屓目で見ても即死であり、突き飛ばされた煌だけが死んでしまった佩芳に目もくれず「ギル平気あるか」と尋ねていた。 返り血を浴びた、ギーゼルベルトは自分の置かれた立ち位置を理解して、そっと煌の問いかけに答える。 「大丈夫だ」 それだけを、告げ、眠っていた獅子が目を覚ましたかのように、立ち上がった。佩芳の死体から拳銃を抜き取ると数人のスナイパーの足を狙って放つ。一発で楽にさせる必要はなかった。 「駄目よ行ったら!」 駄目よ、とギーゼルベルトの服を掴む煌の腕を振りほどく。どうせ、暫くすれば離れる筈の掌だったのだが、まさか、こんな感じで想いを告げる事も出来ず別れることになるとは思っていなかったとギーゼルベルトは目的地に向かって走り出した。 彼は思い出した。生きる為に人を殺す感覚を。煌がけしてギーゼルベルトに触れさせなかった、いやなあたたかさを。 脚を砕かれたスナイパーの顔を殴りつける。やはり素手で殺すのが一番良いのだと本能が教えていた。振りかざした腕が顔を破壊する。脳みそを潰す。悲鳴が聞こえる。一名だけ、捉えなければいけないのだと最後の一人になった時に気付いたので、とりあえず四肢を切断しておいた。 佩芳を失った王家の損失は大きかった。彼一人で王家を回していたようなものだったので、次の後継人は優秀な人材が求められ、正式にアルコットの方からギーゼルベルトにするという発表がなされた。彼が煌の秘蔵っこで甘やかされて育てられたということは皆知っていたが、残虐を究めるスナイパーの殺し方に、佩芳から直接指導を受けていたということが認められ、ギーゼルベルトは王家の後継人に就任した。 「ギル!」 十年以上世界のすべてを締めていた玄関を出る為、ギーゼルベルトはドアノブを回した。後ろにいる煌がギーゼルベルトを引き留める為、腰にしがみ付いている。見上げてばかりだった煌がいつのまにか小さくなり、叶わない筈だった煌はいつの間にか弱くなっていた。 「離せ煌。俺は行かなければならない」 「行くことないよ! ワタシが」 「駄目だ、煌。俺は命を救われた恩に答えなければいけない。離してくれ」 引き留めようとする煌の手を離す。駄目だと瞳で訴える。もう、俺たちの道は違えてしまったのだと。 いっそうのこと、最後にキスをして無茶苦茶に犯してやろうかとも考えたが出来なかった。手を伸ばすことが叶わない距離は変わらないらしいと、泣きそうになる顔を直してギーゼルベルトは煌を解き飛ばした。 後ろで、泣かせたくない相手が、泣き叫んで、嫌だと喚いているのがわかるが、もう、家の中にもどって可愛いギルを続けることは出来なかった。 08 話し終え、ギーゼルベルトは煙草を吹かした。煌と共に住んでいた家を出て、既に十年以上経過している。未だに、同じ組織内に所属している煌とは顔を合わすが、話しても喧嘩ばかりして、碌な会話にならない。 恋慕は未だに消えていない。 ギーゼルベルトが好んで抱くのは、黒髪のロングストレートで、肌の色が白く、唇の真っ赤な色が似合う女だ。煌の幻影を追い求め、空いた穴を埋める用に娼婦を抱く。 「ギーゼルベルト様ありがとうございます。これで、死ねます」 女は恍惚そうに震えた。やはり死にたかったのかと、ギーゼルベルトは女の首に手をかける。今まで楽しませてくれた礼だと、軽く力を込めると、女は動かぬ人になった。死んでしまえば、煌と似ていると思った美貌も塵屑のように消え果る。 服を着て、苦いあの日を思いだす雨のなか、傘を広げて店を出た。迎えに来ていた部下の車へと乗り込むと、王家へと帰る。 門前で、傘をさした煌の後姿を見た。当時となんら変わらない、外見で煌は門前に立っていた。彼が、こうして今もたまに用事もないのに、王家を覗きにきているのは知っていた。母親が子どもを見つめるような眼差しで。過去を忘れられていないのは、煌も同じだ。 ただ、昔と違い、目に篭る色が、ギーゼルベルトを求める眼差しが性的なものを欲求する眼差しもあるのだという事にギーゼルベルトは知っていた。離れたことにより齎した効果なのか分からないが、離れてしまったことにより、口論になり、いつも喧嘩をしてしまうので、きっかけとなる一言を見つけられずにいる。 あの狭い部屋を出てきたというのに、心は未だにあの部屋に囚われている。幸福だったあの日々に。彼の顔を見るだけで満足だったあの日々に。 「しかし、もう、戻れはしない」 ギーゼルベルトがぼそりと呟くと運転手が「なにか言いましたか?」と尋ねてきた。いいや、なんでもないとギーゼルベルトは雨の中、一人、王家の前にいる煌の姿が見えなくなるまで、ずっと視線を向けていた。 end 「いやぁ、こまったな」 霊安室で男は目を覚ました。固まった神経を動かすように、肩を回していつもと変わらない、煌が嫌った顔を向けて、血だらけの自分を見て、あははと快活に笑った。 「目覚めたのか?」 投げられた衣服を手に取って男は礼を告げる。 「サンキュ、アルコット。血だらけでさぁ。これじゃあどこにも行けないなぁ」 裸になった男は服を着替えて、死体から蘇ると、立ち上がって準備運動を始めた。 「さっさと着替えると良いですよ」 「うん、そうするよ。けど、心臓止めるのは大変だなぁ」 「佩芳以外、出来ないわざだな」 「けど、上手くいってよかった」 佩芳は人を騙した後とは思えない顔つきで笑った。死んだと思われていた彼は生きていたということを知っているのは、アルコットを含め数人しかいない。 提案したのは佩芳本人だ。アルコットがギーゼルベルトの使いかたに困っていた所に、自分が殺されたふりをしてギーゼルベルトを騙すのはどうだろうか? と投げかけた。暫く悩んでいたアルコットだったが他の意見を聞き入れる素振りを見せない煌の様子を見て決断を下した。あのまま、ギーゼルベルトを使いものにならない役立たずで終わらせるわけにも、利用価値がある煌を手放すことも組織としては大きな打撃になるので、芝居に出たのだ。 「じゃあ、俺はついでにアメリカの方にでもいって、交流の輪を広げてくるよ」 あんなに慕っていたギーゼルベルトを騙したというのに、悪びれもしない男は、軽快な足取りで霊安室を出ていこうとする。アルコットが「お前は変わらないな」と独り言を告げると、くるりと振り返り、佩芳は答えた。 「変わる人間なんていないさ。根っこのところではね。それに、俺は悪いことをしたわけじゃない。寧ろ、良いことをしたって今でも思っているさ」 だって、下らない餓鬼の恋愛に組織が振り回されることなんてあってはならないだろう? と彼は平然と吐き捨てた。 |