00


 間接照明が照らすベッドの上は靉靆たる色を醸し出していた。巨大な体躯が腰を振るごとに、女の嬌声と共に、ベッドが軋み、空気が淀んだ。皮膚と皮膚をぶつけあう、肉欲を噛みあうセックスが黄土色に変色した安っぽい壁に影を写し出しながら揺れている。
 ギーゼルベルト・王は女の分厚い唇に口付けをした。吐息を奪うように、口紅ごと味わってやると、息が続かなくなってきたのか、女の膣内は締め付けを増す。舌先を噛み切るように、甘く孕むと、さらに圧迫感が増し、良い塩梅に射精を促してきた。相手は借金の肩に奴隷へ召された女だ。子どもが生まれたところで、殺させれば良いだけの話なので、容赦なく、膣内に射精をすると、獰猛的で人間性を含んでいないセックスが終わりを告げた。
 セックスが終われば女に用事など有りはしないので、ベッドサイドに置いてあった、煙管に手を付けるとライターで煙草に灯をつけて、肺に貪った。普段は、後ろで固めているオールバックの髪型がセックスの為、崩れており、さらさらと、この上海の地には似つかない金髪を掻き上げる。
煙管が置かれた寝台の上には、女が化粧を直す用の、鏡が置かれてあった。ギーゼルベルトの端整で琥珀色の髪質と同じく異国の顔立ちを鏡は捉えた。唇は分厚く、目は垂れ下がっているが、睫毛が眼元に影を落としている。稜線を描く鼻に、碧眼の双眸はギーゼルベルトが既に忘れてしまった出身国の人間がしている顔立ちを彷彿させる。
ふぅっと、息を吐き出しても、元々、工場排泄物でクリアな視界と縁がないこの世界では、煙たいという感覚さえ消えてしまっている。
 枕を背もたれにして、煙草を吹かしていると、横に寝転んでいた女が息を吹き返したかのように、身体を痙攣させた。
びくびくと、太腿と爪先を震わし、自身の身に何が起こったのかを、暫く睥睨したのち、飲み込むと緩く笑った。視界を半分隠してしまう、油がたっぷり含まれた艶やかな前髪の隙間から笑みが漏れると、一層のこと不気味になる。
 白く華奢な体躯に薄い胸元。折れてしまいそうだが、肉付きが良い抱き心地も良い豊満な身体。人より少し大きな唇に、吊り上った双眸。そして長い髪を持つ余計なことを喋らないこの女を気にいっていたので、暫く指名していたが、殺される直前まで犯しつくされて突然、笑い出すようなら限界だと、新たな女を探さなければいけない鬱陶しさに、ギーゼルベルトは溜息を吐き出した。
 「ギーゼルベルト様」
 か細い、鶯のような肉声が漏れた。女は窓の方を眺めている。ベッドが占領するこの部屋の作りは単純で、中央に大きなギーゼルベルトを抱擁するベッドが設置され、セックスが終わった後のピロトークに利用しろと言わんばかりに、雰囲気を促す換気用ではない開かない小窓が設置されていた。小窓からは、深夜、店を訪れた時には降っていなかった雨が燦々と降り注いでいるのが分かる。
「雨だな」
 「雨ですね……――私が初めて、父親にレイプされた日も雨が降っていました」
 唐突に過去を語り出されて、ギーゼルベルトは狐に摘ままれたような顔をした。この饒舌ではない寡黙な女が、喋り出すことすら珍しく、過去のことを自ら語るタイプには思えなかったからだ。わざと自身の可哀想な過去を語って、同情を売りにする女は多く存在するが、今、ギーゼルベルトの横にいる、死にそうな女はそうではなかった。そんな、自身を主張する意思が少ない所も気に入っていた。
 普段なら、よほど気がのらない限り、女の戯言などに付き合ってやる趣味は持たないが、口を閉ざしていた女の言葉に興味があったので、黙って、耳を澄ました。
 「嫌だ。止めて、お願いと泣き叫んだんです。私の家は牧羊を営んでいて、山羊の世話や家事を行うのが私の仕事でした。夕刻になると、山羊を厩舎に戻すんですが、そこで、餌をやっていたら父に押し倒されたんです」
 顔を覆いながら女が語っている。当時のことを思い出しているのか、双肩は震えており、自身の白い絹のような肌に爪をたてていた。
 「父からしてみれば、私を売る前の儀式のようなものだったんでしょう。私はその後、借金の肩に売られてしまったんです。元々、私は三女だったので、戸籍はありません。競売にかけられ、男のチンコを銜え込む毎日になってしまいました」
 今は枯れ果てる寸前の花である女だが、ギーゼルベルトは女が売られてきた直後の姿を覚えている。
透明感がある肌は変わらず、薄く化粧が施された強気な顔立ちは男たちの欲望を誘うには十分な価値がある女だった。人間の仕入れは店主に任せているが、さぞ高値で売買されたのだろう。処女であったのなら、希少価値がつけられ、もっと高値で売れただろうに、その父親は馬鹿なことをした。どうせ売るなら、綺麗なまま売る方が、自身の利益になるというのに。
しかし、ギーゼルベルトもその女の姿を一目みて、凌辱の限りを尽くした人間の一人だ。
「ギーゼルベルト様。こんなこと、お聞きするのは失礼だと承知しております。けれど、私は知りたいのです」
「なにをだ。可能な範囲であれば答えてやろう」
一度、話しを聞くと決めた相手であるのなら、ギーゼルベルトは真意な態度で女に挑もうと決めていた。どうせ、今日やる事はすでにない。暇を持て余していた所だ。暇が出来ると余計なことまで考えてしまうので、いけない。女の戯言に付き合って時間を潰すのも一興だろう。
「ギーゼルベルト様は、元々奴隷の出身だと聞きました。開心会に売られてきたのだと」
開心会とはギーゼルベルトが所属するチャイニーズマフィアの名だった。上海を拠点に世界各国に交渉の場を広げている中国、黒社会を代表するマフィア。
正式には開心会の下に三つの組織、王家、呉家、李家があり、ギーゼルベルトはその中の王家の後継人の役職についている。王家の中では、王家、現頭首に続いて位が高い。
女が語るようにギーゼルベルトは元々、奴隷の身分だった。
奴隷というより、開心会に買われた身と言った方が正しい。女は知らないであろうが、開心会は有能な使えそうな幼子を買い取り、幼少期から調教を始める。開心会の下につく三つの代表する組織以外にも、組織を統括する為の中間管理職という、開心会直属の役職が存在する。ギーゼルベルトはそこの買収された子どもであった。
苛酷を究める調教に耐えられる子どもは多くなく、たいていの場合、死んでしまうが生き残った買い取り子には、ある程度の役職が与えられる仕組みになっており、自身が買われた金額を返金さえすれば、組織から足を洗うことが出来るのだ。
だが、後継人のような跡目争いに直接参加できるような立場にはいない。王家に買い取られたわけではないので、本来なら、王家に関わらない外枠にいる存在であった。
「話して欲しいなら、話してやっても構わない」
どうせ、誰かに喋りたくなる季節なのだと、しとしとと雨が降り注ぐ小窓に目をやり、眉間に皺を寄せた。








      01


ギーゼルベルトが生まれたのは旧東ドイツ地区だった。赤煉瓦に周囲を囲まれた薄汚れた土地で産声を上げたギーゼルベルトは三歳まで、貧困で飢えを凌ぐ日々だったが、両親と共に生活していた。二人の両親に、双子の弟、生まれたばかりの妹の五人家族だったが、ギーゼルベルトに当時の記憶は殆どない。彼の中で、ドイツで生活した三年間は自分が死んでいた時代であったからだ。
ドイツの富裕層と貧困層の格差は激しく、食うに困った両親が中国から人身売買に来ていた商人に向かってギーゼルベルトを差し出した。長男であったが、寡黙で喋ることを知らないギーゼルベルトのことを両親が不気味がっていたのは、幼いギーゼルベルトにだって察することが出来たし、弟妹が残される中、自分だけが食い扶持を減らす為、売られていくのは、納得がいく光景だった。
通帳に刻まれた文字と引き換えに、ギーゼルベルトは奴隷商人に腕を引かれた。我が子を売りに出すほど貧困層だった家に生まれたのだから、幼いギーゼルベルトの腕は鶏ガラのようで、良く高値で売れたものだと彼自身が失笑してしまう程だった。
両親とは似ても似つかない、美しい顔立ちで生まれたのが、高値で買い取られた理由だった。ブロンズの碧眼に、大きな女子と見紛う顔つきは、変態どもを喜ばせる材料としてうってつけだったのだ。
中国へと貨物を運ぶ船はドイツきっての貿易港であるハンブルク港から出ていた。奴隷商人に腕を引かれ、似たような境遇で生まれてきた人間を鮨詰めにして船へと乗せられた。
船に乗せられる直前、初めてみた広大で幻想的な港の風景はギーゼルベルトの脳内に深く刻まれていた。母親が見ていたテレビの中に登場する印象派スーラの絵画のように、美しく青から桃色へと変わるグラデーションを描いた夕陽に、煉瓦を積み上げた時計塔が照らされており、船が出港の合図を待つかのように待機している。ギーゼルベルトが生まれて初めて見た、美しいという人間らしい感情の発露を示すものだった。
見惚れるのは一瞬。お前たちの命はここまでだというように、首につけられた首輪を引き摺られて、貨物船の中へと乗せられた。

ギーゼルベルトの記憶が始まったのは、この貨物船の中からだ。腐敗臭がする人間が犇めきあった中で、必死に生に対し貪りついた時からスタートする。
商品は積荷と一緒に船の地下室で出荷を待っていた。生きる力がない子どもから、屈強な大人。国境を気にせず、奴隷という名の人権を失った人間は運ばれた。船はハンブルクを出る前から、積荷を積んでおり、北アメリカ大陸を経由して、様々な港に立ち寄った。そのさい、大量の奴隷が貨物室へと詰められていった。
鉄格子に入れられており、飯は出荷日に犬皿のように盛られた。一か月以上かかる航海において足りる食料ではなく、当然のように奪いあうという、今のギーゼルベルトからしてみれば杜撰で目先の利益しか脳にない商法で運ばれた。商品というのは売ってこそ価値がある。最高の状態で、客に売ってこそ、意味があるので、売るまでは、太らせてやらなければいけない。幸福しか知らないという状態に置き、調教をして絶望に叩き落すのだからこそ、幸福が蜜を奏で、良い値を叩きだすのだ。
幼い子供は当然のように屈強な大人に支配される。力がない人間は生きる権利すら与えられない。狭い船の中は蠱毒のように、争いが繰り広げられた。
弱い人間から死んでいく。幼いギーゼルベルトも当然のようにその対象であったが、生きることに貪欲だった彼は死んでいく人間の肉を食らった。犬のように、蛆虫が湧き出す寸前の身体に顔を押し付け、肉を貪る。肉は新鮮な方が美味しい。当たり前のことだ。
周囲の人間が人肉を食らう事に抵抗があるようだったが、ギーゼルベルトはすぐに顔を埋め、肉を貪った。躊躇いなどした決断力が遅い人間から死んでいく世界なのだと、幼いギーゼルベルトは本能で理解していた。
死人の身体を使い、自身を淘汰しようとする大人どもを殺していった。人間の骨は意外と硬く、そして、取り出すと鋭利な刃物替わりに利用出来た。彼は生まれながらにして、その扱いを知っているかのように扱った。家で農作業と手伝わされていた。野菜が、人に変わっただけだとギーゼルベルトは骨で内臓を破壊していった。
生きる先に幸福が待っていると信じたわけではないが、出港前に見た、美しい幻想的な風景がギーゼルベルトに希望を抱かせた。そして、自尊心が生まれながらにして高い彼は、ただ、惨めに死んでいく自分が許せなかっただけだ。絶望して死ぬためだけに産声を上げたとするなら、三歳まで生きてきた自身がなんとも憐れに映った。

船が港に着いた頃には、連れられてきた自分以外の奴隷は藻屑となっていた。血の海だった。修羅場をくぐり抜けてきた大人たちが顔を顰めるほど、凄惨な光景が繰り広げられていた。この運び方で幾度か商品を運んだことがあるだろう大人たちは、ギーゼルベルトが今朝がた死んでいった自分と同じくらいの少年の太腿を齧っている様子を見ながら、間抜けにも口を開いた。
積荷の中から下ろされると、血だらけのギーゼルベルトの耳朶を風が過った。異国の風だった。空港や港と呼ばれる場所は、その国独自の匂いと温度を運んでくるが、ギーゼルベルトが耳朶に感じ取ったのは今から自分が生きていかなければならない土地の風だ。裸足のアスファルトは小石を含んできて、痛いのだろうが、痛みなど輸送期間に麻痺していた。
港は自分のような奴隷に成り下がった人間が麻薬などと共に運ばれてくる場所なのか、近くには似たような人間たちが生気を失くした色をしながらゆっくりと船の中から降りてきていた。貧相で、生きる気力もなく、惨めな光景だった。
奴隷販売人が躍起になり「Goods are Chima~tsu myself!」と叫んだ。
血だらけのギーゼルベルトを見て、何が積荷たちの間で行われていたのかは一目瞭然だった。唯一、生き残ったギーゼルベルトに何があったのかを尋ねたが、ギーゼルベルトは口を開き「Tode」と答えた。
生きる為に殺しただけだ。事実を受け入れない奴隷販売人が頭を抱えて唸っている。生き残ったギーゼルベルトの髪の毛を掴み上げて、地面に叩きつけた。お前か! お前がやったのか! と奴隷販売人は唾を吐き捨てながら叫ぶ。ギーゼルベルトの頭を何回も、彼は踏みつけ、腹を蹴り上げた。どん、どん、と玩具を蹴るように。最後の商品を奴隷商人は自身の手で壊そうとした。
それがどうした――と声を潜め、コイツも殺してやろうかと骨を鳴らした時、滑らかな異国の言葉が聞こえた。
「そちらの子どもは商品ですか?」
息を飲むほど美しい少年だった。白亜の陶器のように透き通る皮膚。艶があり滑らかであるのに、深い印象的な黒を彷彿させる髪の毛。美しさを誇張するような、吊り上った双眸に、翡翠の眼差し。身体の線は細く、ギーゼルベルトより数歳年上なだけだというのに、流暢な上流階級が喋る丁寧な言語を操り、着ている漢服の質の良さからも、彼が奴隷ではなく、買い手側の人間であることが見てとれる。
奴隷商人はギーゼルベルトの上から足を退けた。へこへこと頭を下げる。今から考えれば、彼が頭を下げるのは当然のことだ。少年の胸元には開心会の幹部関係者であることを示すバッチが付けられており、奴隷商人にとって中国黒社会の顔ともいえる組織はお得意先であり、敵に回すとこの地で商売すら出来なくなる相手だ。
「ええ、それは。汚い餓鬼ですが、良く見れば綺麗な顔をしている奴でして。今夜の競売にかけようと思っていた所ですが、良かったらどうですか、坊ちゃん」
坊ちゃんと言われ少年は眉を顰めたが、呼吸を一つ置き「ちょっと待ってて下さいね」と踵を返し、大人を呼んできた。
ギーゼルベルトと同じくこの地には似つかない金髪を靡かせ、黒の光沢を放つスーツに包まれた男は、少年とは違い、開心会幹部候補生がつける、鈍い金色の輝きを放つ偽物のバッチではなく、正式な幹部の証として宝石に刻み込まれた「開」の文字が目立つ、正式な幹部のバッジをつけていた。
「開心会、中間管理職総統のアルコットです。そちらの奴隷、いくらの値段でしょうか?」
奴隷商人は下手に出るような口調ではあったが、せっかく運んできた積荷を壊されてしまったのだから、せめてコイツだけは――という魂胆が見え隠れする金額を提示した。ギーゼルベルトの両親に支払われた金額の倍値だったので楽な商売だなと自身に提示された売買の様子を冷静な眼差しでギーゼルベルトは見つめる。
アルコットは渋ることなく、契約書にサインした。
彼は丁度、今夜開催される奴隷を売買する会場で将来、中間管理職を育てるにあたって有望な子どもを探しにきていた最中だったので、普段なら狡猾なやり方で奴隷を大量に運んでくるこの商会が船の中から出てきた、血だらけのたった一人の奴隷に目をつけた。口に付着した血に、爪が抉れ肉が中に盛り込んだ様子。殺戮を知った眼差しは今後、開心会の中で最低でも人殺し程度には役に立つ人材だと見込んだからだ。
なにより、アルコットが連れてきた、一人の少年たっての希望だった。
息を飲むほど美しい造形をした少年の名前は煌といい、アルコットが二年前に拾ってきた奴隷上りの子どもだった。
彼の家は元々裕福な商人だったのだが、父親が事業で失敗し、借金のかたにアルコットが引き受けた。元々、学校で基本教育が叩きこまれていたのが幸いだったのか、利発な頭は飲み込みが早く、二年前に拾ってきた幹部候補生の中で、現在では唯一の生き残りだった。
他の子ども達は残念なことで、見込みがないと判断を下し、扶養するのを止め変態どもへ差し出したり、暗殺者として育てるべき過程の特訓で腹の骨が折れ、そのまま死んでしまったりして、リタイアしてしまった。無能な人材に金を支払ってしまったと後悔する中、煌だけが順調に才能を開花させ、先日、今まで世話をしてやっていたアルコットの家からも出て、僅か9歳にして一人暮らしを始めたばかりの有望株だ。
今回は、そんな彼に奴隷売買の様子を体験させるためと、一人暮らしを始めたばかりの少年が寂しくないように付き添いの子どもを買ってやると言っていた。結果を出せる努力人には甘いのがアルコットという男だった。
煌が付き添いの子どもとして面倒を見ると決めたのが、アルコットの目の前にいるギーゼルベルトだった。高い買い物だが、彼の殺人者としての才能を買って、煌の心に空いた隙間を埋める玩具としてギーゼルベルトを提供した。
「ワタシ、煌っていいますよ。あなたは?」
ギーゼルベルトの前に煌が立った。長い三つ編みをした煌が屈み、幼いギーゼルベルトの肩に髪先がつく。人体を貪ったのだから、バケツをひっくり返したように、ギーゼルベルトは血だらけで、一か月以上洗われなかった身体は腐臭を漂わせているのだが、煌は臆することなく顔を覗きこませる。
ギーゼルベルトは返答に困った。名前を尋ねられたことなど、生まれてこの方、経験したことがない出来事だった。口を閉ざして、目線を逸らしていると煌が血だらけのギーゼルベルトの頬っぺたを白い指先で包み込んできた。
汚いから離れろ! と逃げようとしたが、仮にも中国を代表するマフィアである開心会の幹部候補生のバッチが与えられた少年だ。当然、頭が利発なだけではなく、腕力や武術にも精通している。一か月間、生死の狭間で息をしていたギーゼルベルトが振りほどける相手ではなかった。
「ぎーぜるべると」
小さく落とすように名乗ると、煌は満足気に微笑みを浮かべ、血だらけのギーゼルベルトへ抱きついた。











          02


力加減を知らない煌の抱擁によって、気絶したギーゼルベルトが目覚めたのは、古いアパートの一室だった。床はフローリングだが隙間風が吹いており、コンクリートに囲まれた室内である筈なのに、風がびゅうっと皮膚を過った。ギーゼルベルトが居たドイツでは珍しい建物であったが、中国において、欠陥を抱える住宅は安ければ安いほど良く存在していた。
寝返りを打つと、ここがベッドの上なのだということが判る。安いアパートには似合わない巨大で上品な貴賓を漂わすベッドは場違いであったが、こんなに気持ちが良い寝床が提供されたのは、生まれて初めての経験だった。
ふと、視線を自身の掌まで下げると、真っ赤で人肉が爪の間に挟まっていた筈なのに、綺麗に拭き取られていた。鼻を啜ると、腐敗臭はせず、太陽の光をじんわりと浴びた味わったことがない香りがした。
「起きたか?」
台所兼、廊下から煌が扉を開いて顔を出した。ギーゼルベルトは朦朧とする視界の中で煌の存在を確認して、肩を震わすと威嚇するように睨みをきかせた。
見惚れる程に美しい少年だったが、蠱毒の中で鍛え上げられたギーゼルベルトの精神は他人に対して攻撃的になっていた。
買い取られたのは事実だが、不満があるなら隙を見て殺し、逃走するのも生き方としては有りだろうという選択肢が頭の中にはあった。煌がどのような性癖かギーゼルベルトは知らないが、妙なことを働き、耐え凌ぐのであれば生きている価値など無意味に近い。そうならば、舌を噛みきって生命を遮断した方が良い。
睥睨し、武器になりそうなものを探すと寝台の上にボールペンが置いてあった。文房具でも使い方次第で、殺傷能力を持った武器になることをギーゼルベルトは学習済だったので、煌が近づいてくる前に、ボールペンを手にとり、構える。
「あら、怯えてるか? しょうがないね。あんな状況にいたんだから。可哀想に。けど、大丈夫よ。ワタシ、貴方に酷い事しない。約束するよ」
出会った時に話していた訛りは交渉用の話術だったのか、今は妙な発音で煌は喋っている。その声が余計、不気味に覚え、ギーゼルベルトはベッドを蹴り上げて、煌に襲い掛かったが、頸動脈を切り裂く寸前で、手首に手刀を食らわされ、床に屈服させられた。
「やめるね。ワタシ貴方に酷いことしたくない」
「黙れ――! 煩い、俺に近寄るな! 退け!」
煌はギーゼルベルトを屈服させると、腰の上に尻をおろし起き上がれない体勢をつくりあげた。暴力は奮いたくなかったが自衛のために攻撃手段を奪うしかない。本当は、清らかな心を持つ漫画やドラマに登場する少女のように、無抵抗のまま少年の攻撃に耐えることが一番早く、彼が心を開くのだと知っていたが、それを許してくれるほど、少年は無知ではなく、人殺しをする能力に生まれながらにして長けていた。
先日、買い取ったばかりのギーゼルベルトが抱きついた後に気絶したのは、煌が力強く抱きしめただけが原因ではない。栄養失調による過労。人肉を食らって生きてきたのだから、死ぬ直前だったのだ。
煌は気絶してしまったギーゼルベルトをアルコット専属の運転手に任せると、アルコットに引かれてギーゼルベルトが運ばれてきた船の様子を覗いた。
血だらけの少年は予想通り、殺害を犯し、人肉を食べて苛酷な一か月を生き延びた。貨物室の中は、人肉が腐敗した匂いでいっぱいで、血が壁に飛び散っていた。良く、ここまで売り物が損失しているのに、商会の連中は気付かなかったな――と無能さを嘲笑うと共に、彼らが奴隷をここまで運んでくる過程において、数人死んでしまうというのは当たり前の話しなのだろうと、今後、彼らの商品を買う時は注意しなければいけないと目を細めた。
室内に足を踏み入れると、ギーゼルベルトが一か月間居座っていたであろう、血の跡がない場所を見つけた。あの鶏ガラのような少年が、この地獄のような惨状を作りだしたのだと思うと、彼のことが可哀想でならなかった。
煌自身も、売られてきた身だ。
二年前まで共にいた筈の両親など、当の昔に忘却してしまい、脳裏にあたたかい記憶など残っていない。引き取られた先のアルコットは、優秀な煌を贔屓して、今のように上等な漢服まで与えていたが、その分、同期に拾われてきた奴隷たちのやっかみは凄かった。
アルコットの贔屓はあからさまだ。食事の量や質、着ている服、与えられる言葉、すべてにおいて優秀な人間が優遇されてきた。煌はその中でも群を抜いており、反抗してアルコットに平手打ちにされたり、足で蹴られたりするが、独房の中に閉じ込められた事もなければ、鉄砲玉変わりに戦場へ駆り出されそのまま、故人となることもなかった。別にアルコットは煌のことを特別気に入っている訳ではない。彼の中で、優秀な人間こそ、贔屓されて当然という思考回路が存在するに過ぎなかった。
なので、煌は自分なりにこの二年間、才能に感謝しつつ、血反吐を投げ捨てる努力をしてきた筈で、同じ釜の飯を食べていた少年少女たちが皆死んでしまうという状況を体験してきたのだが、この貨物室で繰り広げられた惨劇に比べると、自分が体験してきた過去が幸運な方だったのだということを知ることができ、アルコットがいるというのに、その場で嘔吐してしまった。
血を見て気持ちが悪くなったわけではない。港で見つけた、生きることに絶望しながらも生に執着する少年のことが、可哀想で仕方なかったからである。
可哀想で仕方がないこの少年を護ってやりたくなった。誰かを護りたいという気持ちが湧き出すのは生まれて初めてのことだった。
思えば誰かに執着することなく生きてきた。
元々、そういうタイプだったのだが、如実となって現れたのはアルコットに引きとられ半年が経過した頃だろう。
半年目は引き取られてきた子ども達はまだ生き残っており、アルコットから普段の褒美だと、皆へ子猫がプレゼントされた。
残虐性を孕む苛酷な日々に疲労していた面々は、アルコットから与えられた子猫に群がり、心の支えとした。
子猫は自分たちを恨まない。酷い目に合わせたりしない。可愛がったら、可愛がったぶんだけ愛情を返してくれるし、逆に殴ったり蹴ったりしてストレス発散に使っても良い。有り難い玩具であり、形は違うが子ども達にとって心の支えだった。
煌にも当然、子猫は買い与えられた。サバンナキャットという、痩身で纖な高価な猫が買い与えられた。金持ちのゲスが好きそうな見た目に煌は冷静に対処した。情を持ってはいけないと、猫を放置して決められた時間だけに餌をあげた。
けれど、餌をあげていると、次第に愛情が湧いてくる。自分の掌をぺろぺろと舐めだす猫を見て「駄目よ、駄目よ」と繰り返し唱えてみても、身体をすっぽりと覆うことが出来る子猫の体温を抱きしめるまでそう時間はかからなかった。
冷静になど対処出来ないようになり、訓練が終わると猫と戯れるのが日課になった。アルコットの思惑通り、子ども達は猫の虜となったのだ。
ある日、アルコットに猫を持って広間へ集まるよう指示が入った。アルコットが所持する子ども達が住まう大きな西洋建築の家には巨大な中庭があって、そこを広間と呼んでいた。庭師が丁寧に切り揃えた庭は、不思議の国のアリスを彷彿させるような、薔薇に囲まれており、その中央に立ったアルコットが皆の教鞭をとる形で、猫の首をちょん切っていった。
次々、ベルトコンベアで流されるように、猫の首は鋏でちょん切られていった。ざくざくと切り刻まれる身体。悲鳴に、子ども達は動けずにいる。自身の猫を隠そうとする子どももいたが、そういう子どもはアルコットによって、自分の首を撥ねられてしまった。
煌の猫も首を撥ねられた。あの高貴な毛並みをもったあたたかさを含んだ猫が首を撥ねられ、動かぬ物へと変わっていく。掌にどろりとした血の物体が落とされて、アルコットは笑顔で「これで分かったね。誰にも執着してはいけないよ。誰にも気を許してはいけないよ。君たちにはそんなもの不要だから。わかったら、その猫を解剖して、ついでに身体の不思議について授業をしようか」と述べた。
煌は暫く意識の無いまま、猫の死体を解体しつつ、誰かに執着することも、誰に心を開いてもいけないのだということを学習していった。強制的に身体へ叩きこまれ、いけないことだと学ばされた。
だから、執着などしなくなったし、ギーゼルベルトを買いに行く直前「君が選んで、君が育てなさい」と言われたから、また殺されるのだろうかと思ったが殺すにしては大金を積み過ぎたので、当面は殺されないだろう。
ここでギーゼルベルトに情を抱いてしまっては前回の繰り返しになるとわかっているのに、煌は幼子を護りたいという気持ちを止めることが出来なかった。猫の時もそうだが、普段、誰かに執着することがないので、一度、動き出した感情を止めることにとことん、弱い。
「退け! 嫌だ、やめてくれ!」
ギーゼルベルトが煌の下で怒鳴る。
「大人しくするのは貴方ね。ワタシは傷つけるつもりはない。寧ろ、護りたいのよ」
ぎゅうっとギーゼルベルトを抱きしめる。約、一年前に死んだ猫の身代わりにしているつもりは毛頭ないが、護りたかった。この自分より、悲惨な経験をしてきた、子どものことを。可哀想で、仕方がない子どものことを。
初め、ギーゼルベルトを選んだのは偶然だった。ただ、惹かれてはいた。血だらけの容姿を見た瞬間から。傍に置くなら、この子が良いと。
単純に、初めて自分より可愛そうな子どもの上にたつ優越感がないわけではなかった。優越感とは人間が生きていく上で捨てきれないものだ。
同情という感情がないわけではなかった。寧ろ、同情という感情が初め、ギーゼルベルトという少年と引き合わせた一番の気持ちであった。
煌が抱きしめているとギーゼルベルトは肩の力を落とした。ゆるりと強張っていた身体を解きほぐすように、泣きだした。
この子は今まで泣いたことすらなかったのかも知れない、と煌は嗚咽が裏返った泣き方をするギーゼルベルトの肩を掴んだ。
酷いことはしない、酷いことをする人間はこの部屋の中にはいないということを、言葉に出さず抱きしめることによって伝われば良いと夢みながら、背中に頬っぺたをあてた。










         03


ギーゼルベルトが煌に対する警戒心を完璧に解いたのは、同居生活が始まって三ヶ月ほど経った頃だった。初日で感情が追いつかない涙を流してしまってからというもの、意地を張っている状態に近かったが、煌は自分を傷つけようとする人間ではないのだという事を、与えられる行為からギーゼルベルトは理解した。
傷が癒えるまで煌はギーゼルベルトに家事さえ一切、手伝わせなかった。「ギルは寝ているだけで良いよ」と愛称で呼ばれ、ベッドに寝かされた。煌は寝られないギーゼルベルトが目を見開いて天井を眺めていると笑いながら、絵本を読んでくれた。絵本を読まれるのは初めてのことで、絵本の中でギルは中国語を徐々に覚えていった。
煌は開心会、幹部候補生のバッチを持っているだけあって、言語に発達しており、ギーゼルベルトの故郷の言葉を操ることが出来た。言語で不自由せず、二人の間で意思疎通が測れたのは、すべて煌がドイツ語で会話を進めてきたからだ。
絵本も初めの内は、ドイツ語に訳して読んでいたが、徐々に中国語を織り交ぜながら、語り聞かせた。
ギーゼルベルトは呑み込みが早かった。言語習得に関しては特に。幼く柔軟な頭はするり、するりと身体が感知するころには、煌が早口で喋る中国語も理解出来るようになっていた。元々、頭が良い方なのだと、煌は大喜びして、ギーゼルベルトの頭を撫でた。
傷が治ってから、家事を手伝った。一か月近く、ギーゼルベルトと付きっきりだった煌だが、傷が癒えてからというもの、外へ出かける機会も多くなった。仕事をして疲れて帰ってくる。
逃げ出してやろうかとギーゼルベルトが考えたのは一度や二度ではない。外から侵入者が入って来ないようにと鍵はかけられていたが、内鍵で簡単に解除することが出来る。ドアの外へ顔を出してみたこともあったが、この扉から離れると煌に会うことが出来ず、帰ってきて、真っ先に今まで誰にも撫でられたことのなかった頭を撫でてくれる存在に出会えなくなるのだと思うと足が動かなかった。決意しても煌の顔を思いだす度に、足が竦み、結局、ドアの前で三角すわりをして煌の帰りを待つ日々だった。
「ただいまよ、ギル!」
甲高い声がして煌が扉を開ける。はっと顔をあげてギーゼルベルトは煌を見て、小さく「おかえり」と呟いた。初めて、ギルが「おかえり」と呟いた時に、泣きそうなほど喜んでいた煌の顔がギーゼルベルトは忘れられない。
煌は帰ってくるとギーゼルベルトのために料理を作ってくれた。はじめ、料理は自分でするつもりだったが、やり方が分からず、そもそもギーゼルベルトの身長では調理台まで届かなかったので、家事を手伝うと言っても掃除をかける程度だ。
寝室と同じ部屋に置かれたローテーブルに料理を置き、ギーゼルベルトは煌が作ったバランスの良い料理を食べた。量は多かったが、ギーゼルベルトの腹にはすっぽり収まった。煌はずっとギーゼルベルトがご飯を食べる様子を見ていた。
「なぁ、煌」
「なんですかギル?」
「あの、なんだ、その……いつも、ありが、とう」
「ギル!」
些細なひと言で煌は何故かとても喜んでくれる。そのはにかんだ顔を見るのがギーゼルベルトは次第に好きになり、この人にもっと喜んでほしいと思うようになってきた。
しかし、今回、言いたいのはこのことではない。本題に入るため、息を一飲みする。
「俺はいつまでこの生活を続ければ良いんだろうか」
兼ねてよりギーゼルベルトが疑問に抱いていたことだった。引き取られたからには意味がある。煌に養われるだけでは、開心会が大金をはたいてギーゼルベルトを手に入れる理由にはならない。怪我は完治した。煌の為に生活費を稼いで来いと送り出されても良いくらい、彼に対して情はあるし、外に出て組織全体の仕組みを把握しておきたかった。
「それは、外にでたいてことですか?」
「出たいというか。組織のこととか、知りたいし、俺は買われたんだから役に立ちたい」
煌の目を見て進言すると、煌は双眸いっぱいに涙を溜めてこちらを見てきた。ギーゼルベルトはぎょっとして呼吸をすることをうっかり忘れてしまい、泣かせるつもりはなかったのだと狼狽していると、抱き締められた。
「ギルはそんなこと、考えなくても良いよ! ワタシが護ってあげるよ!」
「けど、それじゃあ……駄目、だろう」
歯切れ悪くギーゼルベルトが呟くと、煌は暫く笑顔で誤魔化そうとしたが、騙されないと分かって溜息を吐き出した。
「ギルは本当に良い子ね。わかった、わかったから。指導はワタシがしてあげるよ。あの日、ギルを買いに行った時、アルコット言っていたね。ワタシが引き取られた時のように、中間管理職につけるような優秀な子ども探せと。そこで、ワタシ、ギル見つけたね。見つけて、買って、今はワタシに預けられているね。通常なら、アルコットがギルに教育施すけど、ギルはワタシに一任されているので、ワタシが教えてあげるね」
ギーゼルベルトは煌の腕の中から、本当にそれで良いのか? という眼差しを向けたが、これ以上、追求すると先ほどの言葉まで撤回されそうで口を閉ざした。
それに、ギーゼルベルトは煌の腕の中にいるとき、逆らうことが出来ない。引き取られ、目覚めた時に泣いてしまったからなのか、腕の中にいる温もりを追求したくなる。
こんな気持ちは初めてだった。
逃げ出したいのに、役に立ちたい。逃げ出したいのに、傍にいたい。腕の中にある温もりを噛み締めて行きたい。
人など信じたことなどなかったのに、ギーゼルベルトはこの煌という少年のことを信じて見たくて堪らなかった。母親さえくれたことがないものを、ギーゼルベルトに彼は与えようとしてくれているのだ。





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