雨が降った図書室の少し黴臭い香りが好き。世界中が静まり返って、甲高い女の声がすべて殺されてしまったように思えるから。
雨が開けたばかりの花壇の土が好き。少し抜かるんでいて、足を踏み入れるとそれだけで汚れてしまうから、誰も花壇には入ってこないから。
誰もいない朝の教室が好き。放課後と違って朝の空気は新鮮で、それだけで心が弾むから。昔から、朝が好きだった。開心会の人たちは夜を好むから、朝の我が家はいつだって静かで厳かでまるで私が世界にいることを許されたような気持ちになれたから。

「ようするに、ジュリアは誰もおらん場所が好きってことをこのポエムは言いたいんか?」
向かい側の席。
どかんと、粗雑な座り方をされた。あなたの席じゃないのに……と心の中で毒を吐く。
朝の時間を邪魔する不法侵入者。大きな指先が私が先ほどまで書いていた52円のノートを取り上げ、ノートの隅っこに書かれた独り言を、声に直した。
すぐに手を前に差し出して、ノートを返すように指示した。目の前の男、西蓮寺ほむらがノートをいつまでも取り上げ続けるような小学生のような真似はしないと知っていた。予想通り、ほむらは素直にノートを私に返却した。良かった、と肩の力が抜ける。身長差がかなりあるので、取り上げられたままだと無理やり奪い取ることは難しかっただろう。
「別にいいでしょ」
「まぁ、別に良いけど。白銀に付き合って朝早う教室着たら、えらい真剣にノートとってるのがおもろうてなぁ」
くすくす、と西連寺ほむらは笑った。
見目が良いので笑うだけで人を小馬鹿にした態度を誤魔化せるのが、私の知る身近な大人たちと似ていて苦手だ。父であるアルコットも、その側近である佩芳も似たような笑い方を良くするのだ。まるで自分の中でだけで世界が完結してるみたいな笑い方。具体的にいうと目が全然笑っていないし、声にも感情がのってない。
まぁ、それでも西連寺ほむらのほうが僅かだがマシだと感じるのは、彼の言葉には父や佩芳と違って、感情がのっている時の方が殆どいう事実があるからだ。
すべてがどうでも良いと話す父や佩芳とは裏腹に、すべての言葉に感情が乗り過ぎている。普通、人間なんてもの、嘘も誠も交えて会話をするものだ。退屈だと思っていても楽しそうに笑うし、泣きたい気持ちを我慢して押し殺すことだってあるのに、目の前の男にはそれがない。だからこそ、気持ち悪くて、けれど、あの人たちよりはマシだと思う。
「昔からの癖なの」
「くせ? ポエムが? おもろい癖あるねんなぁ」
「自分がどうして、そうなのか。整理しておかないと心が荒れるときがある」
「あ――あれか? 心が荒れたらお父さんに怒られちゃうってやつですかいな? まぁ、開心会みたいな場所で女が癇癪起こしたところで疎まれるのは目に見えとるわなぁ。あ――けど、あれやん。あの奇天烈な女、アナスタシアは癇癪起こしまくって人権得とるんやろ。おもれ――女枠で。ジュリアもやったら良かったやん。おもれ――女枠。アナスタシア蹴散らして乗っ取ったら人生今より楽やったんちゃう?」
「……」
言い返せないことをズケズケと言い放ってきたので、無言で睨みつけた。ほむらは、睨みつけてくる私の顔を見ながら「拗ねやんとき」と言い、眉間の皺に指を差し込んできた。うっとおしいので振り払う。
人生が楽か。
的を得た指摘だと思う。開心会の子供なら一度くらい夢見たことはあるだろう。アナスタシアを見ながら『アレに成れたら』って。嫉妬しすぎて羨望の眼差しが憎悪に代わるくらいには、親という本来一番無条件で愛情を与えられるべき存在からの感情を泥棒みたいに霞め取っていった女に対して。
自由奔放に振る舞って、愛を強請って、物を与えられ、いつだって物みたいに扱われたことのない存在に自分もなりたいって。
けど、成れないのも知っていた。自分がアナスタシアに勝てるビジョンなんて一度も浮かんだことはなかった。アナスタシアはいつだって開心会の子供を見ると「努力したことがない哀れな人」という眼差しを向けるけれど、心の中では誰もが「お前がいるから」と返している。私はもう何度もそう返した。
自分の両親の、心が狭いことを知っている。心が、世界が狭い。そこには面白い子供の席は一つしかなくて、すべての親たちの心を彼女は一番初めに奪っていったのだ。そこから、落胆させることなく興味を引き続けている彼女は確かにすごいだろうし、確かに努力家だろう。
けど、私はずっと思っていた「あなた、たまたま生まれた環境が一番良かっただけじゃない」って。だって、努力しなくても両親の愛情を勝ち取っているのを私は、私たちは知っている。だからこそ、他の親の心まで奪う余裕があることを。スタートラインが違う競争に勝ったからと言って、上から目線で見てくるな! ってそんな風に……

「あら、黙ってしまわれましたか? ジュリア、ジュリア――? 無視しんといてぇや。白銀は陸上やし、まだ誰も登校してないし、暇なんや」
「……携帯とでも喋ってたら」
「スマホは喋りません」
「喋る。ヘイ、シリ」
「siriやん。いや、以外と喋るのおもろいのは知ってるけど、飽きてしまわれましてんsiriと喋るのは」
「私はシリと喋るの結構好き」
「暗い子やねぇほんと。一時期siriとばっか喋ってたことあるやろ」
「うん」
「喋ってたんか。あ――こんな誰からも可愛がられる顔して、根暗っ可哀想属性てんこ盛りやなぁほんと。あの女がおらんかったらなぁ、幸せになれたのになぁ。可哀想になぁ。スタートラインが違っただけやもんなぁ。知ってるで、あいつの親、あいつのこと大好きやもんなぁ。お前の親は初めからお前に無関心やったのになぁ。ずるいよなぁ。せやのに、あいつはいっつもジュリアのこと馬鹿にしてなぁ、ほんと、かわいそう」

頭を撫でながら耳元で囁くように言われた。

「殺してやりたい、思わんか?」

あ、心臓が揺れる音がした。気持ち悪い。頭の中覗かれたみたいな不快感。先ほどまでの激しい感情をすべて読まれてたのかもしれないという焦り。
心がこの甘言に酔ってしまう? って尋ねてくる。まるで自分の自制心が試されているみたいな気持ちにさせられる。言葉は軽いのに、ほむらが真剣に私のことを可哀想と思っているのが伝わってくる。誘惑に負けて、頷いて縋りたい気持ちにさせられる。
けど、縋ったら最後だって私の頭の中で警告音が鳴る。
家柄上、完璧に世界が違う人とは、何度も会ってきた。父や佩芳、ギーゼルベルト。他にもロシアのマフィアの幹部や、香港支部の取締役。彼はそういう類に人間。
言葉はいつだって本気だけど、その言葉がいつまで本気かは分からない。忘れちゃだめ。私のこと可哀想と思っているけど、私のこと好きとも思っていない。
こんな人生を変えるような問いかけに頷くことは許されない。変えられた人生の先を彼は見守ってはくれないのだから。
深呼吸して、と自分に問いかける。頭の中で思い出して欲しい。アナスタシアへの感情はきっといつまでだって私の胸の中で疼くだろうし、父の一番になりたいという感情だって残り続けるだろう。
けれど、それが世界のすべてじゃない。

雨が降った図書室の少し黴臭い香りが好き。世界中が静まり返って、甲高い女の声がすべて殺されてしまったように思えるから。
別に殺さなくても私が彼女の傍から離れれば、声は聞こえなくなる。
雨が開けたばかりの花壇の土が好き。少し抜かるんでいて、足を踏み入れるとそれだけで汚れてしまうから、誰も花壇には入ってこないから。
汚い場所を選ばなくても、美しすぎる光景であっても、彼らは眩しすぎて入ってこれないもの。
誰もいない朝の教室が好き。放課後と違って朝の空気は新鮮で、それだけで心が弾むから。そう、だから、朝の空気が好きなの。私はもうすぐ大人になる。私の過去は、過去として残るけど、親の保護を必要とする存在じゃなくなる。醜い争いはせいぜい、醜い人間たちだけで行えばいいのだ。
こんな、暇つぶしで一方的に私を構う男の手ではなく、もっと優しくて労りがある撫で方をしっている。ゆうやさんはもっと、優しく私を撫でる。普通の可愛い女の子に接するみたいに。

「殺してやりたいとは思うけど、ほむらには助けてもらわない」
「助ける気なんてないで」
「そう、よね」
「ジュリアちゃん俺にもポエム書かせてぇな」
「別にいいけど」

ノートを差し出す。西蓮寺ほむらは綺麗な文字をノートに綴った。こんなの異質な存在なのに、文字だけみると完璧に擬態できているので、育ちの良さが想像できる。さらさらとポエムを書きなぐり、素直に白銀と言う文字が入っているところが、なんとも彼らしくて「素敵ね」と零すと、にんまりと笑みを作り、面倒なことに朝礼が始まるまで丸山白銀について語られてしまった。





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