「いいえ、それは僕であって僕ではないので」

病室で真顔のまま、能弁な言葉を語る黒沼帝の姿を見る日が訪れるとは、想像すらしていなかった。いつも下を俯いては他人と目線を合わせることさえ不得意なこの子が、真直ぐに自分の眼を見て「俺が喋った言葉」だというのに、否定的な物言いで入る様子がなんとも気に入らなかったのだ。




記憶が戻る契機になるからと、共に暮らす用、命じられてから一ヶ月ほど経った。勤勉な程俺の世話を焼いていた帝の姿はなく、夜分遅くに帰宅しても廊下の前で俺を待っている事も無くなった。香水を首元に付けて明らかに女とセックスを終え帰宅したのだと知らせてやると、あの俺を好きだと言う事ばかりを、しきりに繰り返していた眼差しが曇り、目線を逸らすようにして地べたを向く姿は消えていった。俺が何時帰宅しようと、心配だと過保護な眼差しは向けられない。帝は俺が家に居ても居なくても当然だというような態度を振舞い、まるで俺のことなど視界に入れなかった。
食べ終わった食器を台所の机の上に放置しておいても、誰も片付けることはない。初日に洗われなかった皿は既に黴が生えていて、捨てた。ごみ箱の中に皿を叩き割った。記憶を失う前のあの子が好んで買っていたものだ。有名な作家の貴重品なのだと何処か誇らしげに語っていた。料理の邪魔にならないデザインが気に入っていると言っていたが、当時は食べられればどの皿に乗っていようと同じだと思っていた。ただ、腹の中に納まればいいのだ。
料理など一緒だと決めつけていたのに、皿を割った途端、あの子が料理を作っている背中が写った。
そうだ、俺はあの背中が何時間もかけて鍋を煮込んだり、俺が帰ってくるであろう時間に合わせて魚を焼き始めたり、一番おいしいご飯が食べられますようにとけして冷ご飯を俺に食べさせないようにしていたことを知っていた筈だったのに。
眼を背けていた。あの子が俺に献身的な眼差しを持って尽くす姿など、見たくないと言い張って。何故かというとあの子が俺を大好きだ、大好きだという度に、そんなに俺はお前が褒め称えるような人間じゃないと少し落ち込んだし、なにより友人同士の枠にさえお前が収まっていてくれる努力をしてくれたのなら、俺はこんな愛だのなんだの下らない事でお前を傷つけることなど決してしなかった筈なのに! と、あの子が一方的に俺を愛する様子を毛嫌いしていた。大嫌いだった。俺のことを好きだというあの子が。お前がそんな妙な感情なんかを俺に抱いたせいで、俺たちの関係は歪になってしまったのだと。少しばかり恨んでもいた。

「トラさん」

敬語のあの子が俺に喋り掛ける。病室で俺を見たときとまるで同じ眼差しだった。感情の色がないあの子の眼差しは人形を見ているようで、俺はまるで違う人間と喋っているような気分を味わった。
あの子が話しかけてきた内容は、生活費は一体どうなっているのか? という事務的なことと、いい加減俺の部屋から異臭がするので片付けて欲しいという欲求だった。あの子が俺になにかを要求する様子がおかしくて「はは」と苦笑いを零すと、変なものを見る目で見られた。
お前が片付けろよ、という言葉は死んでも俺の喉から出てこないだろうに。共同生活だから自身の部屋は己で片付けるのが当然だというような眼差しをあの子から向けられる日が来るとは想像すらしていなかったのだ。馬鹿げた話だ。俺は自分が普段から使う物以外で、部屋の中に何が置かれているのかさえ知らないのだ。露店で買った安物のネックレスってどこに置いたっけ? と聞くと、あの子は「三番目の小物入れだよ」と答えていたし、五年前親父から貰ったくそ高い時計ってどこにしまった? と尋ねると「窓際の貴重品入れにあるよ」と答えていた。俺はサンキューと気軽な礼を述べていただけなので、いったい何がどこにあるのか把握さえしていなかったのだ。

無言に俺に対してあの子は少々、呆れた眼差しを俺に向けた。いや、呆れの中に恐怖さえ詰まっているかのような目線だった。アノコの眼には俺という存在は映っていない。ただ、共に生活する家具のような眼差しで俺を見つめているのだ。
一瞬、殴ってやりたかった。殴ってあの子の脚を立てなくしてやりたかった。あの子の手を動かぬようにしてやりたかった。あの子の歯をすべて抜いて喋れなくしてやりたかった。あの子の眼を潰してすべての眼差しを切断してしまいたかった。俺無しでは生きていけないあの子に戻したかった。
してしまいたかったが、そんなこと出来るはずもない。机を大きく蹴り上げると、あの子は突然、脅えだした。泣きそうな顔をしていた。
あの子が泣くのは珍しい。そうだ、あの子は良く下を向いていたが決して涙で視界を曇らせない子だった。どんなに怖くても最終的には前を向いて他者と渡り合う勇気があった。何時も何も出来ないと見せかけて、どんなことをされても気持ち悪いくらい心の芯が折れない子だったのに。
あの日は泣いていた。良く泣いていた。眼から涙をだばだばと流していた。その眼を曇らせていた。小さな眼球は涙の粒で溢れかえり、だばだばと頬っぺたまで涙を垂らした。床にもいっぱい落ちて、初めて真正面からあの子の傷ついた顔を見れて、俺は焦った。そりゃあ、焦った。凄く焦ったし、罪悪感でいっぱいになった。今までの苛立ちとかをすべて捨ててとりあえず謝罪しなければないと思った。言い訳が頭の中にいっぱい浮かんでは消え、浮かんでは消え、そして、少しだけ、嬉しかった。
傷ついて我慢できずにこぼれてしまった涙を流すあの子の姿がわずかに嬉しかったのだ。











ん?
目を覚ますとあの子が俺の横で寝息を立てていた。寝顔なんてのは久しぶりに見た。コイツはいつも俺より先に起きるから。
ナァ、帝、帝、起きろよ――と身体を揺す振ると帝は僅かに目を開けた。ん? アア、もちろん、俺のことが好きでたまらないっていう蕩けた眼差しで俺を見ていた。ナンだ? 抱きしめて欲しいのか? そういう目で帝は俺を見ていた。自分から抱きついてコイよ? と首を傾げたが、そうが、コイツの身体は俺に食われまくって動かないのか……と納得したので、帝の腕を掴んで俺の方へと引き寄せる。
あたたかい帝の体温と俺の身体が重なりあって、帝は「トラ大好き」と寝言のように呟いた。
そうだ、ずっとそういう目で俺を見ていろ。









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