小学校の頃に山田先生という先生がいた。山田先生は大学を卒業して社会人になったばかりの新人だったが、体育大学を卒業したというだけあって、しっかりとした堅の良い体つきと、凛々しい眉毛。人を見透かすような真直ぐとした切れ長の双眸。なにより人との距離を測るのが上手なその性格から、瞬く間に保護者の間で人気者。そして、もちろん、子どもたちの間でも人気者だった。
皆が山田先生――山田先生――と山田先生を慕う中、もうクラスは山田先生の王国になってもおかしくない状況なのに、一人だけひっそりと靡かない生徒がいるせいで、今一つ、山田先生はクラスを掌握出来なかった。なぜって、その靡かない生徒こそ、クラスの主導権を握っていたのだから。

生徒の名前はジル・トゥ・オーデルシュヴァングといった。
かの有名なオーデルシュヴァング財閥(今は財閥は解体されオフィーリアグループになっているが)の正式な後継者であり、小学校に入学するとき、公立の学校でも保護者に対する面接が行われるのだが、その時に来た父親を見て判断した学校側は「注意するように」と山田先生に厳しく言ってきかせた。
なぜかって、ただでさえ私立に入学して欲しいオーデルシュヴァング家の子どもであると同時に、面接にきた父親がこれはまた厄介なオーラをだしていたのだ。面接中にも関わらず、自分の意見をぐいぐい言ってきて、教師全員の態度とかを指摘してくるものだから、厄介の二文字以外なにものでもない。
学校側としては、こんな面倒な親、将来モンスターペアレントとなることが目に見えてきたし、できれば入学を拒否したい所であるが、公立の学校であるが故に、拒否することは敵わず受け入れるしかないのだ。
実際、入学してからというもの、学校の教育体制に暇があれば口を挟んだりして、怪我でもさせようものなら、どうなるか判ったものではないので、学校側は神経を過敏にさせていた。
だから担任である山田先生は再三、教頭と主任から「注意するように」と言われて、扱いに困っていた。

まだ良い子だったらいい。理想としてはクラスを率先していくことが出来るほど成長を遂げており、かといって自己主張をしない、典型的な操りやすい子どもであるなら好ましいがジル・トゥ・オーデルシュヴァングはそうでなかった。
居座っているだけで存在感を主張してくる華やかな容姿。一見、性別の区別が付きづらいほど、整った顔立ち。長い睫毛はうつむくと影が出来、垂れ下がった大きな目はまるで泣きだしそうだと庇護欲を誘う。ぷるんとした艶やかな唇を見て、道が逸れてしまう大人もさぞ多いだろう。現に山田も初めて見たときは、ごくりと生唾を飲み込んでしまったのだから。
そんな容姿を持っている子どもを、他の子どもたちが放っておくわけもなく、クラスはジル・トゥ・オーデルシュヴァングの天下だった。もちろん、天下だからと言って彼が独裁政治を行っているわけではない。寧ろ、逆だ。ただ居座っているだけ。居座って、じっと教室にいるだけなのだ。
昔はそうではなかった、らしい。というのは、以前、担任をしていて、今はすっかりノイローゼになって休職している先生によるものなのだが、ジル・トゥ・オーデルシュヴァングは活発で誰からも好かれクラスを率先してまとめ上げてくれていたのに、ある日、人が変わったかのようにぷっつりと別人になってしまったのだという。
別人になった後もジル・トゥ・オーデルシュヴァングを慕う熱狂的な生徒は増えるばかりで、その毒牙ともいえる魅力に前任の教師はすっかりやられてしまい、このままではジル・トゥ・オーデルシュヴァングを襲ってしまうといって病んでしまった。
だから、山田先生はジル・トゥ・オーデルシュヴァングのことを一人、裏では疫病神なんて呼び方をしていた。疫病神さえいなければ、うちのクラスは上手く回っているのに――というのは山田先生の本音であった。
だって、先生が好きな「良い子」はもう別にいるのだから。

「山田先生」

小学生にしてはしっかりとした規律ある声が響き渡ると、提出用ドリルを持って立っている、良い子の象徴、黒沼充葉が立っていた。充葉は山田先生が振り返るとにこにことした笑顔を振りまいて、少し照れたように、集めてきたドリルを差し出した。

「おつかれ、充葉」
「別に。なんてことないですよ」

おつかれさま、と言って頭を撫でてやるだけで、充葉は満足気に微笑んで気を許した態度を取る。山田先生は良い子の充葉が最も欲しいのは「褒美」であるということに気付いていた。良くやったとか、そんな言葉を投げかけるだけで充葉はもう満足なのだ。
こんなに扱いやすい子はいない。
黒沼充葉という子どもは決して目立つタイプではない。学年で一人はいるタイプの真面目で何でも卒なくこなせて、全員に愛想を振りまくのが上手な人間だ。好かれてはいるし、遊びを省かれるということもないが、特別親しい人間というのが目に見えてこない。おそらく、お友達のお誕生日会なんかには呼ばれるのに、自分から誰かを誘ったりしない、そんな子どもだ。
放っておいてもクラスをまとめ上げてくれるし、欲しいのは褒美だけなのだから、操り易いことこの上ない。良くやったぞ、と賛辞を投げかけるだけで充葉は満足するのだ。
なにより「疫病神」とも仲がいいのだ。なんでも幼馴染らしく、家も隣同士で、立派な建物が並んで建築されているさまを見たときは、どちらとも私立へ行けよと山田先生は思ったものだ。疫病神がクラスで唯一、口をきくのが、充葉なのだ。時には教師である山田先生のことも低俗なことしか言わない気持ち悪い人間だと見下すような顔で見ているというのに。
充葉が「ジル」と名前を呼べば反応を示し「充葉ぁん」と間延びした、山田先生にとってはなんとも気持ち悪い蛇の冷たい舌で舐められたような肉声で返事をするのだ。だから、疫病神に用事がある時は、充葉を通すのが一番良いし、褒められるのが好きな子なのだから、頼られるのももちろん嫌いではなく「はい」と喜んで、充葉はジルへの伝言役を買って出てくれる。まるで、この役目は僕の物だといわんばかりの勢いで。


「充葉は本当に良く出来た子だなぁ」
「え、そうですか。そんなこと、ないで、すけど」

と、言いながら照れる充葉の姿は純粋に子どもとして可愛い。調子にのって褒めていると充葉は顔を真っ赤に染めて、与えられる賛辞を喜んで受けている。まるで快楽が身体の中を巡りまわったような恍惚に頬を染めて。

「いやぁ、良い子だよ。先生は充葉のこと大好きだな」
「は、え、いや、僕も、先生のこと好きだから褒めて貰えると嬉しい、です」
「そうかそうか。先生も嬉しいぞ」
「せ、せんせい、あの、その」








「充葉ぁん」





背後から足音も立てず、暗闇の中から疫病神は現れた。名前をねっとりとした舌先で呼び、黒沼充葉のことだけを見つめている。その双眸に、山田先生はもう大人なのに、びくりと体を飛び跳ねさせた。疫病神は山田先生を殺してしまうかのような色でちらりと一瞥して、山田先生の腕の中にいた小さな充葉を奪っていった。

「なんなんだジル」

蕩けるような声を零していた充葉はいなくなり、真面目な良い子の部分を見せた規律ある声で疫病神の前に立つ。その様子に疫病神は酷く安堵し、納得したかのように笑って、腕を引っ張って山田先生の前から立ち去ってしまった。
引っ張る腕の中で充葉はもがいていたが、山田先生に頭を下げああとはもう大人しくジルに引かれるかのように、後をついていった。まるでジルが来るのを待っていたかのように。

残された山田先生は生きた心地がしなかった。良く漫画とかで、ああ、俺って生きているよなんてのを確認するシーンがいくつかあるか、山田先生が味わったのはまさしくそれで生きていることに感謝するかのように、その場にうずくまった。せっかく、ドリルを充葉が持ってきてくれたのに、ドリルは廊下にばらまかれてしまった。








「あ」

充葉が珍しく実家から持ってきたアルバムを持ってきて捲っていると懐かしい顔が見えたので、充葉の後ろにべったり張付いていたジルに指差して見せる。

「ほら見てみろよ。山田先生って言ってもお前にはわからないか」

どうせ過去の担任とかクラスメイトとかそんなものお前は覚えていないもんな、と充葉が得意げに続けるので、ジルはそれにのっかかって、うんそうだねぇ、なんて、相打ちしながら充葉の話を聞いていたが、山田先生のことは覚えていた。本当に珍しいことだ。他の人間のことを覚えて、しかも写真を見せられて人間であると個体だと認識できるのは。
まぁ原因は判っている。目の前で呑気にアルバムを広げている充葉だ。小学生のとき、充葉はそれはそれは山田先生のことが好きだった。元から教師に褒められるのが大好きな充葉だったが、教師ということを抜きにしても山田先生のことは大好きだった。
山田先生は人の好さでも人気になっていたが、問題児扱いされているジルを新任でまかされたのは、人並み外れた容姿にあった。ジルから見ればそこそこ顔が整っているんじゃない? 程度の人間であったが、他の人間にはそう映らなかったようだ。
なにより、似ている。
ハルに。
腹が立ってしょうがないが。充葉の同僚であり、思い出したくもない難い相手であるハルに似ている。顔立ちが、そっくりとは言わないが、ハルをもう少し劣化させ、髪の毛を短髪にし爽やかさを増したのが山田先生というやつだ。
充葉はそれはそれは山田先生に夢中だった。一時的ブームというのもあるだろうが、帰路で山田先生の話を散々聞かされたのは今でも覚えている。充葉が発した言葉なのだから。一句たりとも忘れたりしない。あのブーム中は本当に腹が立っていた。当時の自分に自覚はなかったが、こうして写真に映し出された山田先生と充葉を見ていると、これが苛立ちかと理解出来る。

「イケメン好き」
「ん? なにか、言ったか?」
「別にぃ。充葉だいすき――ってこと」
「はは、なんだそれ。僕もお前のこと好きだぞ」


ぼそりと呟いた言葉が聞こえていたのに、聞かなかったふりを充葉はしているとジルにはすぐわかった。思えば、昔もそうだったのかも知れない。可愛くて健気で今ほど傲慢でもなかった充葉だったし、今より昔の方がジルの気を引こうと必死だったから、あれほど帰り道に山田先生の話をしたのかもしれない。わざわざ、山田先生の前に立つ時は、ジルのことを意識していたし。そう考えると、幼い充葉も油断ならない。

「あ、そういえば、この先生って途中で辞めちゃったよな」
「えぇ、そうだったけぇん」
「うん、お前、それは覚えてないのかよ」

覚えていないのは充葉が、山田先生が辞めたとき、それほどショックも受けず、平然とまるで縁日に買ってきた金魚が死んでしまった時のように、仕方ないねと受け入れ、はじめから山田先生などいなかったかのような態度をとったからだろう。
なんて憐れな山田先生。だけど、充葉にとってはやっぱりジルの気をひく道具の一つにすぎなかったようで、それが判ってしまえば、次、写真を見せられたとき、山田先生を判別できるかなぁとジルは充葉に抱きついた。
判別できなくてもたいした問題ではないので、別にいいのだ。








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