「やっぱり豚肉って焼いて食べるんですか?」

焼肉屋へ連れて行ったとき、目を輝かせながら出てきた黒豚に対して雪がさりげなくつぶやいた言葉など崑崙の頭の片隅へと追いやられた。コイツはまた間抜けなことを言っているなと思ったし、以前なら、バカは腹が立つとしか感じなかった態度も愛情というフィルターを通してみれば、天然で可愛いとすら思ってしまう。

「豚は焼いて食べるものだよ。ほら、食べなさい」

七輪の上で焼いてやると、じゅわじゅわと肉が踊りだした。岩塩をぱらりと振りかけて食すと香ばしい食欲をそそられる味が舌を支配していった。雪がごくりと生唾を飲み込む音が聞こえたので崑崙はにこにことしながら食い意地が張っている嫁の姿を眺めていた。




異変に気付いたのは半月ほど経過してからだった。夜中にトイレへ起きると横にいた筈の雪が見当たらなかった。いつもすっぽりと小さい体を折り曲げるようにして寝ているのに同じくトイレへ行ったとしても気づかないのは可笑しい。意識がない時の彼女は人殺しなどしたことがない無垢な幼子のようで、トイレが近づくと「トイレ!」とはた迷惑に大声を上げて飛び出していくのだ。何回、その件で喧嘩になりかけたか。結局のところ「じゃあ別の部屋で寝ましょう。仕方ないけど私我慢するもん!」と泣きながら訴えられたので、しょうがなく崑崙が折れることにしたのだ。
それなのに、今日はトイレへ行ったことに気付かなかった。と、いうことは、何らかの目的で崑崙が寝静まった後、雪は部屋を抜け出したということになる。寝ている間の彼女は無垢な幼子だが、意識がある彼女は反政府組織でトップ級の殺しの腕を持つ達人である。するすると自分より弱い人間に気配を悟られず抜け出すことなど他愛無いだろう。なにしろ、幼い頃は、その腕を磨きあげて盗人ばかりしてきたと自慢げに話していたのだから。
なにが目的で? と崑崙はすっかり引っ込んだ尿意を放置してベットから起き上がるり、廊下へ出ると、間接照明の灯ではなく台所が燦々と輝いているのが判る。
アイツ、腹でも減ったのか――と沢山、食べ物は与えている筈なのにと崑崙は溜息を吐き出しながら、もう夫婦になったのだから、欲しいものがあれば言えば良いんだよ、君は頭龍会最高幹部の妻なんだからとほほ笑みを浮かべ、台所の扉を開けると、冷蔵庫がひかっていた。
やはり腹が減っていたのかと、もはや呆れながら近づいていくと、ぐちゃぐちゃと嫌な音が崑崙の耳に入り込んでくる。この音は肉を潰し噛み切る音だ。抗争や戦場へ送り込まれると良く耳にする崑崙が嫌う音だった。肉が飛び散る殺し方を好む男(まぁ開心会の佩芳なのだが)がこういった音を立てながらかつての仲間を皆殺しにした後、お情けをかけ屈辱を与える為だけに「無様にいきなよ」とにっこり笑いながら見逃された過去を思い出すからだ。

「雪」

何を食べているんだいと、ああ、なんて嫌な日なんだと鼓膜を破いてしまいたくなる音を聞きながら雪の肩を叩くと、豚肉を生のまま口に運び、血を啜っている妻の姿が見えた。
一体何をしているんだいと尋ね崑崙が蒼褪める前に、雪は悪戯が見つかったときのような、それほど大げさなことを暴かれた時の顔ではなく、朗らかな笑みで「あ、その、え――と、美味しいんです!」と大声で放った。
頬に豚の血を付着させた妻はこれでもかというほど、崑崙に対して豚肉を押し付けようとするが「止めて」と静止を促すと、大人しく止めた。

「なんで食べているんだい」
「豚肉は生で食べるものだから? 偶にどうしても食べたくなるんですよ」
「焼いて食べるものだよ?」
「はい、皆さんそういうんですけど、私の地方では焼かずに食べるのがメジャーだったんです! 甜湯血っていう名前の料理? なんでしょうか? わかりませんけど、そう呼んでました。崑崙さんも一度、味わってみれば虜になっちゃいますよ」
「遠慮しておくよ。雪、あのさ、生の豚肉っていうのはね」

生で食べると危ないんだよということを懇々と説教していく。しかし雪はまるで怒られているのが飲み込めないというように顔をきょとんと眼を見開いた。

「雪はどうしても豚肉を食べたいの」
「はい、生で食べたくて仕方ない時があります」
「その時って、理性は働くのかな?」
「う――ん、食べ物に関するものですからね! これで、ぐしゃって人を殺しちゃったことはありますけど。食べなきゃ駄目ですから」
「目が見えなくなったことは?」
「たまに白内障みたいになる時は有りますよ。視力も堕ちちゃって。医者に行けたら良かったんですけど。お金ってないじゃないですか。あ、今はありますけど。今はそんなになりませんよ。見えてます」

再び食べ始めた豚肉を奪い取る。一瞬だが、久し振りに妻から本気の殺意を向けられて、背筋が凍るが今日はもうダメだと優しく諭すと「崑崙さんが買ってくれたお肉ですから」としょうがなく諦めるように立ち上がった。お風呂に入ってきますと、口を真っ赤に染めながら言う妻の姿が、これほどまでに怖かったことは無い。
付き合う前は、たくさんの人を殺すように命令して見たり、同等かそれ以上の相手と戦わせたりしていて、雪が血だらけになった姿なんてもの見慣れていたはずなのに、今まで以上に恐ろしく、初めて世界中で自分一人になってしまったかのような孤独感に襲われた。真っ暗な中で一人だけ照明があてられ、共に腕の中にごろんと寝ころんで笑っていた妻の姿がいなくなって、追いかけようとするのに追いかけられない。崑崙が知る大切なんものを失う怖さが押し寄せてきて、尿が漏れそうだった。


翌日、病院へ連れていくと、雪の頭の中にはうじゃうじゃと寄生虫が湧いていた。なんですか、これキモチワルイ――! と雪は叫びながらもなんとも元気そうに騒いでいた。
医者は 『神経嚢虫症は、有鉤条虫に寄生されたブタの肉や血を、完全に火を通さずに摂取することで、人に感染する。これらを食べた人間の血に幼虫が入り、巡り巡って脳に達するという。早期発見の場合は投薬などで完治できるが、発見が遅れると脳組織や大脳中枢が侵され、頭痛や脱力、運動機能障害などの症状が出る。重症の場合はてんかんや失明を引き起こし、死に至る危険性もある』なんて教科書からそのまま出てきた言葉を並べていた。そんなことを崑崙は聴きたいわけではなかったし、豚肉を食べていた姿を見た時から、なんとなくそんな気がしていたので良かったのだが、わざわざ医者まで出向いたのは、どうすれば寄生虫を頭の中から追い出し、妻を死なせず健康のままにとどめておくことが出来るかということを聞くためであったのに。眼を伏せるようにして医者は「ここまで酷いケースになると」と残酷な言葉を常に吐き出すのだった。







「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -