ハイネと桜 | ナノ



雨音が硝子に響いている。結露が染みをつくり、大きな窓硝子の先から覗く景色は白く透明の雫が反射しているように映った。
大きな窓硝子の前に置かれたのはお茶を飲む専用の丸い机と椅子だった。桜がお茶用にアンティークショップを捜し歩いた物で、猫脚が特徴的な椅子と机だった。値を張るものだと腰かけるだけで判るクッションに桜は毎日好んで腰かけている。ハイネが留守中は良くここに腰かけて読書をするのだと言っていた。
おもえば、この女が自分の為に豪華な椅子や机を購入するのは生まれて初めてのことではないだろうか。何時も購入前に「誰かの為」という前置きが入っていたのだから。桜はこの椅子と机を買って、設置する時「とても素敵な椅子と机を見つけたんだけど、あの窓辺に置いても良いかな」としか尋ねなかった。購入することは彼女の中で決定していたようだ。以前の桜なら豪華なものを自分の為に買うなんて考えすら持たなかっただろう。

「美味しい? ハイネくん」

首を傾げて斜め下から覗き込んでくる。薄くなった化粧だが、素でも透き通るように白い肌と、潤んでいる双眸、伸びた睫毛がハイネの視界に入ってくる。唇を僅かに尖らせ、眉を八の字に曲げ、控えめに笑った。
あ、あざとい――とハイネは息が詰まる。
アンティーク調の円卓の上には、桜が淹れた甘いホットチョコレートが乗っている。口につけると程よい甘味が広がり、濃厚なミルクがチョコと溶け合い、身体に浸透してくる。

「美味しいよ桜」
「なら良かった。ふふ、今日は雨だね」
「そうだね」

少しだけ外に行きたい気持ちを抑える。以前の自分であれば、数時間後、傘も持たず飛び出して雨に濡れ、森林や公園で横たわり、昼間はあれほど騒がしかった群衆が引いていく様子を堪能して、あの、永遠に続くのかもしれないと錯覚する暗闇と孤独を噛み締めていただろう。
だが我慢する。出ていくことは桜を悲しませるだけに済まない。あの必死に自分を探しに来て、どこにいるのハイネくん――と叫んでくれている姿を拝むことで充足感と愛情を得ていたが、あんなこと続かないのだと強引に離別を言い渡され気づいた。
逃げ出したハイネを見つけるのは桜の役目だった。スオウは途中で放棄したし、父親は母親に頼まれなければ探しに来ない。母親と妹のマリーは深夜外出を禁止されており、皆が諦めた中を、一人泥水を蹴りながら探し当てるのが桜の役目。必死そうに、泣きそうな顔をして「ハイネくん」と叫ぶ。大丈夫? と触れようとして、触れては良いものか一瞬躊躇うのは、もはや癖のようで、ゆっくりと触れる。
桜のその、わざとらしい遠慮に苛立って堪らない時期もあったが、よくよく考えれば、昔から離別前に至るまで、あのおどおどとした手が愛情を持って触れ、ああよかったハイネくんが生きていると訴えているその態度を見たかっただけだ。

けど、強引に離別を言い渡され理解した。あんなこと続けていたら、桜の心が先にダメになるのだということを。この女は他の人間を相手にした方が、幸せになれるのだという事を。理解して、自分の前からいなくなる桜が(記憶喪失の時みたく、ハイネが選んだ選択肢ではなく、桜が自分の意思でハイネからいなくなる)こんなことを続けていたらあるのだと判り、止めた。目の前にいるこの女が、他に寄り添って幸福そうにして自分のことなど忘れてしまうことなど、絶望以外見えてこなかった。

「雨だから外に出られないね」
「そうだね」
「けど、傘をさしたらどこにでも行けるから一緒に行く?」
「う――ん桜は?」
「私はどっちでも良いから聞いてるの」
「そうか。う――ん。俺も、家の中でもどっちでも良いよ」
「そっか。じゃあ、夕飯の買い出しにだけにしようか。外に行くの」
「うん」


昔から桜は優しかった。優しく出来ていた。俺にも周囲の人間にも。桜は良く「僕は自分に優しいだけだよ」とつぶやくし、本当にこの女は自分に甘いと苛立ったり、いい加減にしろよ! と怒鳴りつけてやりたくなる時もあるが、自分以外の人間の為に全力で泣いたり、心配したり、笑ったり怒ったりしたりできる人のことを、自分だけに優しいとは、誰も言わないんじゃないのかな、とハイネは思う。
今の外に出ようよという発言だって、本当は外に出たいハイネの意思をくみ取ったものだろう。別に好かれようと思っているわけじゃない。言うならば常に習慣で、身体に蔓延るほど染みついたものを偽物とは言わないだろう。
断言しても良い。今でもこの女は自分が外へ駆けだしていき、夜の公園に独りぼっちでいると、迎えに来て、傘を差し出し、少し脅えた手つきで触れて抱きしめて、泣きながら、良かった、良かったと言ってくれるだろう。ぼろぼろに泣いて。
けど、泣かせたいわけじゃない。泣き顔がみたいわけじゃない。ずっと胸の中で擽っていたのは、泣き顔より笑って幸福そうな顔がみたかったという本音の表れで、お茶を飲んで、自分の容姿を眺めているだけでここまで幸せそうな顔が出来る女なのだから、きっと自分自身が考えていたことより、黒沼桜を幸せにするのは簡単なことだったのだ。

「飲めた? じゃあ、コップ洗って行こうか」
「うん、俺も洗う」
「本当? ありがとう」

桜が、ああとても幸せそうに笑う。
ハイネは胸元を掴んで気づくのが遅れてごめんね、と思う。
だって、こんなあたりまえの日常を過ごせるだけで幸せになる女だったのだ。欲しいものなんて、僅かで良かったのに。昔からずっと、朝起きてご飯を食べて、おはようって言って会話をして、夕ご飯は一緒にいるだけで、良い女だったのに。振り回して、結局、桜に「僕は無いもの強請りなんだ」なんて言葉を吐かせてみたりして、そうやって言っている桜を見て悦に浸っていたりして、ごめんなさいと、胸の中で謝る。謝罪してもなにも言わないだろうから。

背後から抱きしめて頬を寄せると、なにするの、といいながらも桜はとても幸福そうだった。
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