ジルと充葉 | ナノ




充葉は昔から自分にとってトクベツな存在だったとジルは眠っている身体を眺めた。眼鏡を外している充葉は幼い頃を彷彿させる。顔立ちが幼い頃から変わらない。目じりが釣りあがって、良く見れば繊細な睫毛が生えいて、鼻は低いのに美しく筋が通っている。充葉は自分の外見を良く下に見るが良く観察すれば全体的にバランスが取れた顔だ。もっとも、ジルにとって充葉の顔というだけで他者と一線を引いた素晴らしい顔に変化するのだけれど。
幼い頃から充葉は自分と対等しようと必死だった。身長も体重も、成績もスポーツも。皆がジルと競うことを諦め、知らない間に神様へと昇格され退屈な日々を過ごしているジルにとって、充葉だけが自分を諦めない異端の存在だった。本人はポーカーフェイスを気取りたいらしいが、充葉は表情豊かで、悔しければ悔しい顔をして、泣きたければ泣いて、笑いたければ笑っていた。人形のように表情が変わらないジルの横にいてもそれは変わらなかったし、時にして、充葉は大声をあげてジルに叱咤した。充葉だけが、ジルの生きる灰色と母親が流す真っ赤な血の世界に置いて「生きる感情」であった。

思えばジルは充葉が好きだった。始めからトクベツな存在だったのだが、なぜか気づくのが酷く遅れた。それは、自分の一番大切な存在は母親なのだという自己洗脳であったし、優先すべき存在として母親が扱われていたということもあったし、充葉が自分の傍に居るのは当たり前だと怠惰していた結果でもあった。お蔭で付き合いだしてから、充葉の母親嫌いは直らなかった。直るべきなんてことジルは微塵も思っていなかったが。想起すれば、充葉が母親を嫌うことに納得がいくし、充葉が自分の母親を嫌い感情を露わにしている時、それだけ彼は自分のことが好きなのだと満面の笑みを漏らすことが出来る。

ジルは寝息を立てる充葉の鼻を抑える。豚顔にして遊んでみるが充葉の可愛さは衰えなかった。心の中で「不細工」と笑ってみるが愛しいことに変わりない。
ふと手首に目線を寄せるとジルの手には無数の傷跡があった。リストカットした痕跡だった。何回か死にかけたし、実際に死ぬことに対して未練などなかったが、死ななかった所を見ると本当に「構って欲しい」がためにつけられた痕跡なのだろうと、頬がひきつる。ジルの手首からだらだら流れる充葉が発狂するのを見る度に、一度逃げた充葉のことを信じられた。愛されているのだと実感できた。充葉は「ジル、ジル、いや、だ、死ぬな、ジル!」と毎日、叫んでいて、最終的に充葉の方の心が歪んでいった。ジルは今でも失態だな、もっとうまくやりなよぉ当時の自分――と思ったりする。そうすれば、充葉の空いた心の隙間を付け狙うハイエナのような男、ハルに自分だけの宝物だった充葉の身体を明け渡さずに済んだのだ。ああ、思い出しただけでジルは嫌な気分になってきた。充葉も充葉で油断しすぎなのだと腹立たしくなってきたが、ここで憎むのは充葉ではなく、ハルだけにしておこうと決意した。
充葉はたまに、ふらふらするが最終的にいつもジルの所に戻ってきてくれた。根気よく接し、お前が! 愛しいからだろう! と叱ってくれた。ジルも充葉の羊水に浸る様な愛情の中へ戻ってくることが出来た。良かった、よかった、とジルは充葉の腕の中に抱かれた。
子どもも生まれた。生まれたばかりの美代は小さくて、成長するのつれ充葉に似てきた。ジルは初めて、自分が欲しかった愛情の形を知るかのように、充葉に抱きつき、美代の手を引っ張った。美代の横顔は良く充葉に似ていたし、なにより美代がジルのことを愛しく思っているところが良かった。
「お父さん、お父さん」
美代はすぐにジルの名前を呼んだ。
「ちょっと聞いてるの! 今日はお母さんが遅いから私たちが掃除するんだよ!」
美代は直ぐにジルのことを叱った。
「あのね、あのね、お母さんはお父さんのこと好きなんだからね! も、もちろん、わ、私もちょびっとはね!」
美代は直ぐにジルに愛情を伝えた。

幼い美代を腕の中に抱いて充葉の息を聞きながら眠るときは、幸せだった。ジルは充葉の子どもにずっとなりたかったのだと、泣きそうになった。きっと泣くと充葉は困るのだろう。泣くなよ、とジルにだけ見せる顔があるのだろう。充葉がポーカーフェイスを崩すのはジルの前だけの特権だった。今は充葉の世界も広がり、少しずつ増えてきたけど不満はなかった。なぜかというと、ジルは充葉にすべてになって欲しかったからだ。父親にも母親にも友達にも同級生にも恋人にも夫婦にも、すべてがすべて、充葉から与えられるものがよかった。
ジルの世界は幼い頃から充葉だけで出来ていた。








「お父さん」

名前を呼ばれる。
充葉と良く似ているが、少し高いつぐみの声が背後から聞こえてきた。
ジルは顔をあげて「なぁに?」と尋ねる。夫婦の寝室につぐみが入ってくるのが珍しいので軽く叱咤するとつぐみは可哀想な顔をした。

「ダメだよ。早くしないと、腐っちゃうよ」

呆れた顔だった。憐みの顔だった。果たして自分の息子はこんな顔を滅多なことがなければ他人に向ける勇気すらなかった筈だとジルは首を傾げ、充葉を見直すと、先ほどまで触れていた肌が随分と、萎んでいる現実をみた。あれ、充葉の肌は、充葉本人が身だしなみに最低限の興味しか持たないので自分が綺麗綺麗に整えてやっていたはずなのに、どうしてこんな形になっているのだろう。

「お母さん、燃やしてあげないと」


ジルは目を見開いた。
よく充葉を観察してみると、すっかり皺だらけになっていた。幼い頃から変わらない顔が、皺だらけになっていた。
そうだ、そうだ、とジルは思い出す。自分たちも老いた。皺だらけになった。ジルが皺だらけになるので整形でもしようか? と気軽に退職した充葉に縁側で話しかけると「お前は皺だらけくらいでいい」と意味不明な言葉を返された。嘘だ本当は知っていたけど、ちゃんと言って欲しくて甘えた声を出して強請った。「年をとっても、ジルは、ジルだ、から。お前が綺麗なことに加工する必要なんてない。素のお前が、好きだ」と充葉は耳まで赤くして述べた。嬉しくて押し倒してキスをすると、なんでお前はそんな元気なんだ! と怒られた。
充葉―――あれから何十年経ったんだっけ。
ジルは首を傾げて、充葉の手を握った。皺くちゃだった。充葉は寝ていた。ここは寝室なんかじゃない。
病院の薄暗い部屋の中だった。
そうだ、充葉は末期癌で倒れたんだった。死ぬには少し早い時期で、まぁ手術してみようか、と充葉は延命治療を受け成功したが、やっぱり限界があって、昨日の夜、死んでしまったのだということを思い出した。

「お葬式?」
「そう、お葬式だよお父さん。お母さん、お化粧して綺麗にしてあげなきゃ」

良く見ればつぐみの眼の下に隈があった。寝ずに葬式の準備をしていたのだろう。こういう時、他の兄弟たちが驚くほど役立たずになることがジルには目に見えていた。充葉が死ぬ前、慈雨ではなくつぐみに葬式参列リストをこっそり渡していた。死んだあとまで家族の(ジルの)心配をするなんて充葉らしいと思ったが、もうすぐ充葉が死ぬという現実を見たくなくて目を逸らしていた。

「そっかぁん、充葉ぁ、死んじゃったんだねぇん」

頬を撫でる。
冷たかった。死んでいた。充葉は皺だらけになって。顔色を蒼くして。充葉が固まっていた。ジルは急速に自分が生きていた世界が終わっていくのを感じた。充葉はジルの世界に生きるすべてだった。五感を司る存在だった。生きる目標であり義務だった。ジルのすべてだった。
生きている時ジルは、充葉に「死んだらどうして欲しいぃ?」と聞いたことがあった。充葉はまだ若い時「一緒に死ね」と言っていたが歳を老いるにつれて、その台詞を吐かないようにした。思えば、死期をどこかで悟り出していたのだろう。そうして充葉は「僕のぶんまで、子どもたちがどうなっていくかを見ておいてくれ」と言った。「唾液がなくても、本当はご飯、食べれるだろう」とあきれて笑っていたので「そんなことないよぉん」と寄り添った。そういわれた時、悲しくてどうして死ねないのだろうと思ったが、今は、そんな言葉を残して行った充葉が憎たらしくもある。
世界が死んだ世の中でどうやって呼吸しろと充葉はいうのであろうか。

「ねぇ、つぐみ」
「なにお父さん」
「充葉との約束破っても、充葉は怒ると思う?」
「怒ると思うよ……―――けど、許してくれると思う」
「やっぱりぃん」
「うん」
「そっか――うん、そうだよねぇ―――」

ジルは椅子から立ち上がった。
つぐみはそうか、と父親を見た。最後まで自分勝手に生きる人なんだなぁとつぐみはジルのことを眺めた。僕の方が嫌いになってしまいそうだ、と。

ジルは充葉の身体をベッドから引きはがし、抱きかかえた。そうして衰えた筋肉で病院の階段をかけあがっていった。
屋上には白いシーツが干してある。昔、洗濯物を干しながら「おかえり、ジル」と言ってくれた充葉の夢をよく見た。あれは願望だった。充葉に求めていた象徴だった。

「充葉ぁん。ごめんねぇ、謝るから許してぇん」

ひょいっとフェンスを越える。まるで散歩にでも行くかのように。充葉を抱きしめながらジルは、地面へ向かって急降下した。窓辺ですれ違ったつぐみが涙を流しているのを見て少しだけ罪悪感が湧き出した。けど大丈夫でしょうと、丸投げをした。酷い親だなぁんとジルは充葉を抱きしめる。


ぐしゃり、と脳味噌が潰れ身体が飛び散る音がした。




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