トラと帝 | ナノ




今日みたいな寒い日はシチューが良い。
定番となった料理の一つで、今日みたいに寒い日はトラは美味しい、美味しいといいながらシチューを頬張ってくれた。昔、この鍋でことこと煮込んだシチューは冷凍され、何日かに小分けされ僕の胃袋へと収まることが多かった。予定されていた時刻より鳴らないチャイム。開かない扉。空っぽの台所で椅子に腰かけながらトラを待つ間抜けな僕。あのころは幸せであったのに悲しかった。僕の我儘にトラを付き合わせているだけの状態だったのに、胸の中に穴があきそうだった。
けど今は違う。定時に帰宅してくれるトラは、予定されていた時刻にチャイムを鳴らし「帰ったぞ――」と疲弊した声に交じってようやく家に帰ってこれたという気持ちが混じっていた。僕は一日の中で、これほど安堵して幸福感に包まれる瞬間を知らない。今だって、帰宅の声を聞くと心の奥底で僕はうれし涙を流すのだ。

今日は遅いな。
お鍋に入ったシチューをかき混ぜながら不穏に思った。虫の知らせという奴なのだろうか、後頭部がずきずきと痛み始めた。残業するという報告は入っていない。トラの身になにかあったんだろうか、と嫌な予感が身体全体を麻酔のように駆け巡り、体温が低下した。

「かえったぞ」

がちゃりと扉が開く音がする。僕は慌てて火を止めた。いつもなら子供たちが一斉にトラのことを迎えにくるので台所から駆けだすが「二人っきりになりたいから、暫くしてからきてね」とだけ告げた。千代が「なんで、なんで早く晩御飯が食べたい!」とはしゃいでいたが、ランくんが僕の気配を感じ取って千代の口を閉じた。
僕は真っ暗な廊下をかけていく。人が通ると自動的に感知して、明りを燈す廊下の熱はその日に限って反応を示さなかった。
限界には薄暗く亡霊のような顔をしたトラが立ちすくんでいた。

「トラ、おかえりなさい。なにかあったの?」

冷えてしまっているトラの手を掴む。トラは無言のままでぼろぼろと泣きだしていた。
僕がトラの涙を見るのは珍しいことだ。トラの孤高なプライドの高さが彼が泣くということを阻止する。もちろん、感情移入する映画などを見ると、トラはすぐに泣いてしまうのだが、精神的に彼が傷ついてエンターテイメントでもないのに、ぼろぼろと涙を流す姿は珍しかった。

「トラ」

僕は何も言わずにトラを抱きしめた。抱きしめて心臓の音を聞くと人間は落ち着くからだ。トラは深呼吸をして、僕の肩に顔を埋め、膝を下りながら泣き始めた。声にならない悲痛の音が玄関に広がりを見せ、ゆっくりとトラは玄関の外を人差し指で示した。
「開けるよ、トラ」
許可を取り、玄関の扉を開くと、トラの愛車がヘッドライトを付けたまま放置されてあった。ピーピーと異常をきたす音が聞こえる。ヘッドライトは片方だけ点灯していた。片方は、黒く染まった返り血で埋め尽くされ、ぐちゃぐちゃに割れていた。
直ぐに察することが出来た。


トラは人を殺してきたのだと。








救急車のサイレンが鳴り響く。僕は自分が所有している小型の車に乗り込み、事故現場まで駆けつけた。
外に出ると粉雪が視界を悪くさせ、アクセルを踏みぬくのが怖かった。事故現場にはいまだに遺体があった。若い女性と小さな子どもが冷たくなって寝転んでいた。僕は手袋をつけて遺体に触れた。脈はわずかにあったので、その場から離れて救急車に連絡したが、事故にあった二つの生命は助からず、母子ひき逃げ事件として新聞覧の片隅に乗った。

帰宅した僕をトラは再び抱きしめた。久しぶりに手荒く、まるで昔のように僕を道具みたいに抱いた。道具みたいに抱く癖に、壊れない用、無意識に力加減をしている所に愛しさが募った。
翌日、新聞覧を見ながらトラは小さく嗚咽を啜って泣いていた。「トラ、泣くの我慢しなくても良いよ」と問いかけると、昨晩のことについても謝罪してきた。僕はトラが僕のことを乱暴に扱うことについて何一つ不満はない。寧ろ、幸福だった。
僕は泣きながら誰に向かってか判らない謝罪を繰り返すトラを見つめながら、どうして落ち着いた幸せは直ぐに不幸の元に引き摺り落とされてしまうのだろうと茫然と思った。どうしてトラの幸せを、トラの日常を引き裂くような出来事があるのだろうと胸を痛めた。僕の主観によればトラならば例え人を轢き殺したとして、罪を課せられることはないのだが、それはあくまで、僕が構築する僕が好きなトラが生きる世界なので。この現実と当てはまらないということを理解するだけの「常識」が僕には残っていた。
あの親子には可哀想なことをしたと思うし、轢き殺されるのが僕だったら良かったのに、と心髄から思う。だが、どれだけ変わってあげたいと願っても現実は変化しないものだ。


「トラ、トラはどうしたい?」


落ち着いたトラに尋ねる。トラは僕の顔を絶望的に見つめた。僕は顔を見たら本音を言いにくくなると判っていたので、頭を胸をいっぱいつかって抱きしめるかのように視界を閉した。暗くてあったかい、心臓の音が聞こえる中でトラは小さく零した。

「なかったことにしたい」

無理なことを。けれど、彼の本音だった。トラはそれから「償いたいが、捕まりたくはない。罪を認めたくない。償いたいが、警察に行くのは、いや、だ」と述べた。ぎらぎらした歯が唾液に紛れ熱い吐息を吹きかけていく。
僕はトラがとても好きで彼のことを愛してやまない。こんな風に自分自身に素直な所とか。轢き逃げして正気でないのに、千代やエンマといった子供たちの前で平然と振舞うことが出来る強さや、脆さを僕は知っている。
トラは再び僕の中で泣き出した。もしこの事件が喧嘩のように、先にトラのことを殴ってきた人間相手ならトラは気にしていなかったのだろう。殺してしまった所で、心をグサリと僅かに傷つけられただけで済んだのだろう。彼の良心を擽っているのは死亡した親子に罪がないことだ。僕の世界でなならば、トラをこんなに傷つけただけで十分に罪なんだけど――と考えて、なんて浅ましく愚かしい人間の強欲を僕はしっかり受け継いで、人間の、なんて言いながら自分の中から排出しようとしているんだろうか、と呆れた。
自分の罪と向き合いながら生きようとしているトラはとても素敵だ。自分の欲望と葛藤しているトラはなんと魅力的だ。
僕はトラと一緒に少し泣いた。
亡くなった親子を思って。トラの傷ついた心を思って。トラと一緒に過ごす夜が終わりを告げるのだと悟って。

「トラ、僕のこと好き」
「あ、当たり前だろうが!」
「うん僕もトラのこと好き。大好き」

眼を見つめ言い放つとトラはまたぐしゃりと視界を歪めた。うん、トラ大好きだよ。
トラはどうしてお前みたいなやつが俺の傍に居るんだと、言ってくれた。昔はマイナス思考で考えていたけど、そうじゃないことくらい知っているよ。トラ。ありがとうと、久し振りに自分から僕はキスをした。






翌日。
僕は自主した。
警察まで足を運んだ。横には佐治くんが付き添ってくれた。トラはまだベッドの上で寝ていた。
状況証拠も僕が犯人だと物語っている。アリバイは家族内では成立しない。トラを会社へと迎えに行く最中の事故だということにした。
昨晩、佐治くんに話したとき、彼は剣幕に僕を怒鳴りつけた。「そんなの帝ちゃんが背負うことじゃない! トラだって忘れればいい!」と彼は言った。僕も、もし、トラが完璧に忘れられるくらい強くて残酷な人であるなら、無視を決め込んでいただろう。僕の世界でもっとも優先されるのはトラの幸せだから。けどトラは忘れられない。それは彼にとってとてもつらいことだろう。

「だから変わりに引き受けようっていうの」
「うん。だってね、トラ僕のこと好きって言ってくれたんだ」
「今までだって散々、言われているだろ!」
「言ってくれていた。けど確認が取れたから大丈夫。僕のことが好きならトラは自分が罪を受けるより、辛い思いをしてくれる。事故にあった親子を憎むほどに。自分が捕まってもトラは罪悪感で生きていくことになる。彼は優しいから自分の罪を許せない生殺し状態になる。けど、僕が代わりに罪を償えば、トラはきっと自分が許せなくて、どうしてなんだよ! と憎んで、最終的にあの親子を憎んでくれると思う。そのタイミングで僕が戻ってきたら、トラは今後も幸せに生きることが出来る。今後を考えればトラの精神上、これが正解だよ」

にっこりと笑う。
佐治くんはなにも言えずに膝を折った。どうしてアンタはそんなに自己犠牲なの、どうしてそんなにきれいで、バカで、どうしようもないんだよ! と佐治くんは喚いてくれた。ごめんね、って思いながら僕を犯人に仕立て上げるにはどうしても佐治くんの力が必要で、佐治くんと紀一くらいしかこんなこと頼れないからついお願いしちゃった。死人が出ていなかったら紀一に頼んでいたんだけど、死人が出た以上、紀一は動くことすら出来ないと思う。

警察に出頭する前、佐治くんは僕の手を掴んだ。

「トラが死んだ親子のことで傷つかない変わり、帝ちゃんが傷つくんだろう。トラの変わりに、あの親子を思って傷ついて、泣くんだろう! そんなの、そんな――」
「……佐治くん―――そうだよ、僕は一生をかけてあの親子に償おうと思う。それが僕のエゴともいえる行為で正当な法の裁きを受けることが出来なかったあの親子に対する償いで、捨てちゃダメなものだと思うから」
「じゃあ」
「うん、大丈夫だよ。僕はちゃんと背負えるから」

僕の世界はトラさえ幸せであるなら美しく回ることが出来る世界だから――そういうと、佐治くんは手を離してくれた。









法廷で罪は裁かれた。
親子の父親である加害者代表の男の人が怒鳴りたてる。その声が法廷で響き渡る。僕は無言でそれを聞いていた。
罪は軽かった。どう考えてもネルエルさんと僕のお父さん(お母さん)が手を回してくれたんだろうという軽さだった。罰金の金額は両手じゃたりない数だった。僕は懲役3年という裁きを受けた。異例の軽さなので、外に流れる情報はもう少し長い。
刑務所の中に入って、千代が面会に毎日訪れてくれた。トラは一度、顔を見せただけだった。
千代はぼろぼろ泣きながら「どうしてお母さんがあんなこと言われなきゃいけないの」と言った。法廷で僕が攻め立てられる様子を千代は見ていたからだ。良くあの場所で我慢したものだと、成長したなと遠い目をすると「お母さん!」と癇癪を起した子どもみたいに怒鳴りつけた。
いつもだったら手を伸ばして、ぼろぼろ泣いている顔を拭いてやるのだけど、薄いプラスチックで覆われた先にある我が子に触れることなど出来なかった。

「お母さんが罪を犯したからだよ」
「おかあさんしてないもん! 違うよ! 僕、知ってるもん! おか、おかあさんはしてない、して、ない、」

千代はあの時間、僕が家にいたことを知っているし、僕が迎えに行かなかったことを知っているから、溜飲が降りないんだろう。泣き喚いて、僕はごめんね、ごめんねと、心臓を抉られる。千代は鈍感だけどどこか敏い子だから真相を暴いているのだろう。家ではこんな風に喚けないのだろう。千代はトラのことも愛してやまないから、彼の本音をいうと、自分がこの監獄の中に入りたいのだろう。なんて、優しい子に育ってくれたんだろうか。

「うん、千代。ごめんね。けど、これがお母さんの愛だから」
「愛?」
「そう、愛なの。だから許してとはいわないけど、千代はだれも憎んじゃダメだよ。もし憎むんだったらお母さんを憎んでね」
「ぼ、僕、お母さんを憎まないよ! 僕、大好きだもん、おか、おかあさんが。だがら、は、はや、く、お母さんのごはんたべだい、よぉぉぉっ―――」


三歳児みたいに泣き出した千代は面会時間ぎりぎりまで泣いていた。僕はごめんね、ごめんね、と謝った。どうか千代が泣いて刑務所から出た先に友夏里くんがいて彼を抱きしめてくれますように、と願った。



翌日、千代は再びやってきた。友夏里くんと一緒だった。昨日と違ってけろり、とした顔で「ご飯は壱夏ちゃんが作ってくれているんだよ」といった。千代は楽しい話ばかりした。悲しい時、楽しい話をしてごまかしたり、僕を励ましたりしてくれるところは本当にトラ似だと思った。トラも小学生の時、こんな風に良く、僕を励ましてくれていた。

「あ、千代。あの日のシチューは捨ててね。出てきたら美味しいの作ってあげるから」

そういうと、友夏里くんに抱きついて千代は泣き顔を隠した。





刑務所の中は一言でいえば最悪だった。四人部屋に押し込まれた僕は鼻が螺旋曲がるかのような匂いを嗅ぎながら過ごした。時にはストレス発散の為、肌の見えない所を殴られて犯された。性病を移されていないか出所したら検査しないといけないと思った。犯されて、殴られている間は嫌だったけど、僕が受けるべき罪なのだと思って、耐えた。他の人の手はトラと違ったけど、僕如きが彼らの役に立つのなら、喜んで引き受けるべきなのだろうと思った。




■■□



出所日にトラは姿を表してくれた。
頭を坊主にした僕を見てトラは少し笑って髪の毛を撫でた。トラは死んだように顔色が悪く、あんなに食べるのが好きだったトラは痩せていた。僕を壊れそうなくらい強く抱きしめた。汚いよ、といっても止まる気配はなかった。トラはきつく、強く、きつく、これでもかというほど、僕を抱きしめ、骨が折れそうだった。

「お前がいないと、だめだ」
「ありがとうトラ」
「お前がこんな目にあう必要なんてなかった」
「トラがこんな目にあう必要もなかったんだよ」
「っ―――お前がこんあ目に合う世界なんて間違ってる!」
「トラがこんな目に合う世界も間違ってるよ」


良かった。僕が予想したとおり、トラは罪を背負わず憎しみに変えておいてくれた。ありがとうトラ。憎しみは愛情で埋められるから。僕、トラに対する愛情だけは自信があるんだ。
セックスがしたいとトラが耳元で囁いた。ダメだよ、病気になるかもしれないというと、構わねぇよ、とトラはいった。僕はそれがとても嬉しくて、久し振りにトラの前で泣いてしまいたくなった。僕はどんなつらいことでもトラから愛されているということだけが満たされれば幸せなんだと実感した。
トラの唇が僕に触れる。ずっとこれに触れたかった。幸せだった。ずっとトラとくっついて過ごしたいとトラのことを見た。トラを愛してやまなかった。それだけが、僕の生きる意味なのだ。


「トラ、今日はシチューでいいかな?」
「お前の飯だったらなんでもいい」

そう言ってトラは僕の手を掴んだ。
今日みたいな寒い日はシチューがいい。
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