九条と怜子 | ナノ




九条萬斎が知っている九条怜子は他人を陥れる為に、自分の品性に背く言動をけして取らない女であった。
萬斎が生きてきた世界からすれば、怜子は少々、潔癖過ぎる。背筋を伸ばして立ちすくみ悠遠を見て、口角をあげる姿など、穢れのない聖女のように映り生唾を飲み込まされた。

悠遠を見て、全体の視野を冷静に見渡すことが可能なあの双眸が、ゆっくりとこちらを向き、自分を覗き込むようにして、見ると冷や汗がたらりと落下した。身体全体が、怜子の手のひらにすっぽりと収まっているのに、不思議と不快感が湧かない。萬斎にとっては今まで味わったことのない感触で、おそらく、これから先も怜子以外でこのような、身体をすべて預けても許される間柄の存在は現れないのだろうと確信を持っていた。
この女に発情しないことに、萬斎は密やかに感謝していた。性欲を間に挟んでしまえば、怜子とここまで清い関係性を築くことは出来なかっただろう。
そのことに対して「良かったよ」とさりげなく述べると、蛆虫を見るような双眸で睨まれ、生唾をかけられてしまう。
萬斎は、今まで告げたことはなかったが、初めて会った時の怜子がうっすらと自分に初恋を抱いていたことを重々、承知していた。鳥籠の中に押し込められた世界で、怜子が外部からやってくる、新鮮味のある男へ恋をするのは不思議なことではなかったし、自分と恋人同士にはなれないと知った時、彼女が一人の女並みには衝撃を受けたことも。その衝撃など、痛くもかゆくもありませんわ、という顔をして、気丈に振舞っている所などを見ていると、自分と良く似て、一層、彼女のことが可愛く、愛おしかった。一人で本気になって、一人でから回って、それを、外部へ漏らさぬように閉じ込め、何事もなかったかのように振舞うなんてことは、萬斎が幾度もなく経験してきたことだからだ。
自分と怜子の似ている部分なんてものは、おそらく、この一点のみだろうが。一点でも、自分と怜子を同じ天平にかけるなど、それだけで彼女へ対して失礼なような気がした。

「萬斎」
「なんだい、怜子」

朝食の席で、怜子が口を開く。
下品ではない程度に口元に塗られた口紅が、障子の隙間から入り込んだ太陽の光に照らされて光っていた。隙のない女は、少し恥ずかしそうに俯きながら語る。

「私、好きな方が出来ましたの」
「そうか」
「あら、あまり驚かないのね」

確かに怜子の恋愛話を聞いたのは、萬斎にとって初めてのことだった。
彼女と自分が違う所は、同じ過ちを繰り返さない所だ。一度、経験したことを、彼女は知識として蓄え、馬鹿をすることはない。

「上手くいきそうなのか」
「話題に上るくらいですから」

怜子は頬を染めた。
萬斎にとって彼女がまだ十代の瑞々しい若葉だった一時だげ、自分へ向けられていた表情だった。彼女の氷のように恋愛に対して張り詰めていた、恋心を解かした人物へ素直に祝杯を挙げる。
怜子が認めた人物なのだから、努力家で怜子に見合うだけの能力を持っている人間であり、彼女へ愛情を注ぎこめる人間なのだろう。
九条萬斎という人間と九条怜子という人間は確かに愛し合ってはいた。萬斎へ愛情の形は一つではないと教えたのは、まぎれもなく、怜子であった。しかし、その愛情の比率は、怜子から与えられるもので偏りすぎている。当たり前だ。一番初めに、怜子が最も欲したものを萬斎は拒んだのだから。
そうであるから、怜子という高潔な人間へ愛情を注ぎ困る相手が表れたことに、祝杯を送るのだ。

「おめでとう、怜子」
「ありがとうございます、萬斎」

だから貴方も早く良い人を見つけなさいと怜子はご飯を口元へ運びながら告げた。余計なお世話だよと、萬斎が微笑むと、怜子は睨むように目線を飛ばした。

「貴方が幸せでないと私が幸せでないでしょう」
「そうなのか」
「ええ、そうなのよ萬斎。阿呆の貴方にも判るように二回、述べてさしあげましょうか?」
「遠慮させてもらうよ、怜子」


貴方はいつも自分の気持ちに鈍感なのだから、と怜子は述べた。
大抵、怜子の告げることはあたっていた。
今、後悔していることがおありでしょう、瞼を閉じて思い出してごらんなさい、情けないお人ねぇと、怜子に言われるがままに萬斎は瞼を閉じて、空想の世界へと落下する。
瞼の中には、艶やかな黒髪が広がっていた。自分が良く抱く男の髪質だった。振り返ると、腕の中にあるのは、自分が唯一、自覚を持って恋愛感情を年老いてから抱いた相手に違いなかった筈なのに抱き締めた感触がわずかに違った。
はっきりと浮かび上がる姿は、先日、頬を殴って泣き叫び喚くように自分への愛情を乞うていた相手だった。
予想外の人物に萬斎は、目を見開き、怜子を見つめ返す。

「動揺していらっしゃるのね」
「なんのことかな?」
「貴方が動揺するなんて、心を揺す振られている証拠なのよ」

だって、貴方が私の心を埋められなかったように、私も貴方の心を埋められなかったのですから。互いの愛には隙間があって、それはもう、私たちの中にあるものから別離を量るようにして、特定の誰かを求めに行ってしまうんですよ。

「過去ではなく現代を括目しなさい」

怜子が艶やかにそう告げた。
高潔な女の口元は、少しさびしそうに笑っていた。


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