林檎と美貴 | ナノ



日溜まりの中に浮かんでいるような天候だった。アパレルショップが立ち並ぶ繁華街を左に抜け、小路に入り込む。住宅地と繁華街の合間にあるような、隠れ家的な洋食屋だ。絶品であるパスタを食べようと誘ったのは、美貴の前でお箸を上手に利用してパスタを啜る林檎だった。林檎は美味しいのか頬をわずかに赤らめ、ずるずるとパスタを啜っていた。

「食べないんですか」
「いや、俺は……」

美貴は答え難そうに口の中で言葉を濁らせる。
同じタイミングで運ばれてきたというのに、美貴は一口も食べられずにいた。

「フォークとスプーンが上手に使えなくて」

こんなお洒落な洋食屋のパスタは、フォークとスプーンで食べるものだという偏見が美貴の中にはあった。外食など贅沢品で、昔、売りをやっていた時に客と共に訪れるくらいしか機会がなかった。美貴は客とセックス以外のことをするのが嫌いだったので、外食をするのは滅多にないことだった。恋人であるナリと訪れることはあるが、そのときは決まって個室であるし、上手くフォークとナイフを使えない美貴をみても、ナリは変わらぬ笑みを浮かべ「いいんですよ、美貴様がやりやすいように」と言ってくれる。それでも、本当は自分の食べ方が好きではなかった。上品に食べることなど出来ない。あまりにも流暢にナイフとフォーク、スプーンを扱うナリを見ていると身分の差をこんな所でも見せつけられるような苦い気持ちになる。
だから、ある意味、少しだけ林檎は躊躇いなくお箸を使いラーメンを食べるように啜りだした時は驚いて硬直してしまった。

「お箸を使えばいいじゃないですか」
「は、恥ずかしくない?」
「……それは遠回しに私がお箸を使うことを非難していますか? だとしたらすみません。私は自分の食べやすさを優先して、あなたに気を使うことを忘れていました」
「ち、ちがっ!」

美貴はそうではないのだと手を林檎へ差し伸べた。林檎が躊躇いなくお箸を使うことに驚いたのは、初めてお箸で食べる人と出会ったからに過ぎない。
恥ずかしくない? という問いかけは自分に向けられたものだ。スプーンとフォークを上品に利用できず、食べ滓が散らばる人間と食べていて恥ずかしくないか? というものだった。林檎は初めて出来た美貴の友達だったので、出来れば嫌われたくないし、恥ずかしい思いを自分のせいでして欲しくなかった。

「ああ、そういうことですか。美貴さん」
「は、はい!」
「貴方は私がお箸で食べるのを恥ずかしがらないで受け入れてくれた。なのに、どうして私が恥ずかしがる必要があるんですか」
「そういうものなの」
「ええ。それに、食べやすい方で食べた方が美味しいじゃないですか。せっかくの食事が冷めてしまっては台無しですよ」

ほら早く食べてください。一緒に啜りましょう! と林檎の勢いに押され、美貴はパスタを啜った。なるほど、上品に食べるより、周囲の目を気にせず味だけを追求して食べる方が美味しかった。ある意味、ナリと一緒にいるより林檎と共にいると気が抜ける。ナリに対しては自分の良い所しか見て欲しくなくて意地を張ってしまう所があるから。

「私は美貴さんと一緒にいると楽ですよ」

こちらの心を読んだように林檎は告げてくる。林檎にはこういう所がある。特に美貴が林檎に「友達でしょう」と言って「友達だったんですね、うれしいです」という返答がきてからは。

「林檎ちゃんはよく、他の人のこと見てるよね」
「そうですか。興味があるものしか見ていませんよ」
「へぇ、そ、そうなんだ」
「ええ」
「なんで、楽なんだと思う?」
「育ってきた環境が似てるからじゃないですか」

美貴はそれを言われて妙に納得した。林檎の家はひどく古びた賃貸のアパートだった。家族三人が住むには小さな、居住空間にガラクタが詰め込まれた家だった。それでも、自分の家と違うと思ったのは、愛情が溢れていて子供である林檎の居場所がしっかりとあった。自分のように幽霊みたいな場所ではなく、林檎のことを思って二人の両親が積み上げた場所だった。似ていると言っても、落差が激しいと卑屈な気持ちになってしまう。

「お金とか」
「お金?」
「そう、お金の感覚が一番、私たちは似ているんじゃないかと思います」
「そうかな?」
「ええ」

少し、昔話をしましょうか。と林檎は食べ終わった空っぽのお皿を眺めながら、ゆっくりと口を開いた。



林檎が自我を抱いた時、すでに母親はいなかった。母親と過ごした記憶は殆どない。ただ、秋嶺とも父親とも違う柔らかな自分に良く似た掌が頭を優しく撫でて、不器用な肉声が子守唄を奏でていたことは覚えていた。
父親が語るに林檎の母親と林檎は良く似ているらしい。不器用な性格も。責任感がある所も。口下手なところも。敬語で喋るところも。父親が以前「無意識に母親の記憶を真似したのか」と普段から情けない眉を更に垂らしながら林檎の頭を撫でていた。林檎は別に意識したことなどなかったが、無意識に母親の面影を追い求めていたのかというと、そうかも知れない。
母親が亡くなって、同時に工場経営が上手くいかなくなり、多額の借金を背負い込んだ父親は育児を半分、放棄していた時期があった。食事は与えてくれた、衣服も、生活に必要な最低限のことはしてくれたが、他はまるでしてくれなかった。母親が生きていた頃のように、抱き締めたりしてくれなかった。
次第に父親は賭博に溺れていった。胸の中に抱えた孤独を発散するかのように。競馬場やパチンコ屋へと足を伸ばした。林檎はいつも玄関で父親が帰ってくるのを待っていた。留守番している間は寂しかった。暗闇に浮かぶ個室が自分の居場所ではなかったはずなのに。父親が帰宅して扉をぎぃと鈍い音をたてながら開けるまで。まるで世界で独りぼっちのような気分になった。
父親が正気を取り戻し、林檎の眼差しを正面から捉えたのは母親が死んで2ヶ月後のことだった。2ヶ月という短い時間だったが、林檎の中では2年以上、独りぼっちでいたかのような感覚だった。父親が正気に戻ったのは、林檎の世界を切り裂くような叫び声だった。嗚咽を漏らし、お父さん、お父さんと帰宅した父親の足元にすがり付いたのだ。
父親はまるで人形が動いたかのように林檎を見詰め直し、動いて泣いている少女が我が子だということを思い出したかのように、抱きついた。胸のなかで抱き締められ、謝罪されるたびに、林檎は落ち着いていった。
父親はいまでも、あの空白の2ヶ月を罰の悪そうな眼差しで見詰めてくる時がある。そのたびに林檎は鼻で笑って、父親を困らせてきた。
別に林檎は父親を責めようとは思わない。あの時、父親の精神状況が異常だったことは良く知っている。他の誰よりも。間近に見てきた、林檎が。父親にとって母親はおそらく、世界の中心みたいな人で、無茶な行動ばかりとる母親を叱りながら、やれやれ、と煙草を吸う彼の姿がうっすらと記憶にある。普段から「しょうがないな、お前は」と妻のことを言って、たしなめることに慣れていた男が、許容範囲を越えた現実に脳みそを攻撃されてしまったのだ。寧ろ、本当は受け入れることしか出来ない小さな男が賭博へ逃げる程度で良かったとさえ、思っている。受け入れることしかといったが、中々これが出来る人間が少ないことも林檎は承知していたし、物事をおおらかに受け入られるからこそ、秋嶺と交際出来たのだと林檎は思っている。未だに彼が賭博行為をしていることがあると知っていたが、秋嶺と出会ってからは、賭博へ行くということを言い訳に彼が一人で鈍行を乗り継いだ先にある母親の墓にまで足を伸ばしているというのが真実だと林檎は見抜いていた。寂しさを消化するのが不得意な人なのだ。いつか賭博へ行くなどと嘘をいわず秋嶺と共に出掛けられるようになれば……と林檎は願っていた。それは、そう遠くない未来だろう。



「と、まぁ私はこんな過去を持っているわけなんですが」
「そうだったんだ」

林檎は機械のように、ぺらぺらと表情ひとつ変えないで語った。
しかし美貴には今の過去がどう繋がってくるのか判らず首を傾げる。

「ですから、私が言いたいのは、美貴さんも知っているでしょう。一人で放置される辛さを」

心臓がどくん、と音をたてた。鼓動が自棄に煩い。嫌というほど知っていた。襖越しに繰り広げられる悪夢を。窮屈な臭い部屋を。自分が悪いのだと責め立てることしか出来ない恐怖を。

「僅かでも他の人が滅多にない経験をした人間は引かれあうのだと思います」
「なるほど」
「ちなみにお金に関してですが、思いませんでした。幼い時、新しい文房具を見せびらかす子供を呪いたい、と」
「の、呪いたくはないよ」
「そうですか。とにかく、普通の人が普通に手に入るものを私たちは与えられてこなかった。まぁ、誰が悪いとかじゃなく家庭環境がそうだっただけです」

林檎はふと、裁縫がまだ苦手だった時にゼッケンをつけられないまま運動会へ行き同級生に囃されたことを思い出した。普段、さんざん苛めはいけないことだと言っている委員長もルールを守らない林檎を険悪な顔で見ていた。あれは侮蔑の眼差しだった。裕福で一般的な環境で育った人間はゼッケンがつけられない環境なんてもの想像出来ないのだ。大きくなって、想像力がついても経験でしかわからないことは山のようにある。


「美貴さんとは金銭的な感覚が似ていて助かります」
「お、俺も」
「普通は牛乳を貰いに牧場まで自転車を濃いで行こうと誘って一緒にはきてくれませんから」
「そ、そう、だよね」
「はい」


ところで、ここの代金は誰が払うと思いますか? と林檎が語ると、美貴は「え、ゆかりさんじゃないんですか」と返してきた。吹きだした林檎は、しばらく笑ったあとに「そうです、夕夏梨さんです」と平然と口を開いた。


「あ、あと」
「え、ななに」
「私が自分の過去を語ったからと言って美貴さんが喋る必要はありません」

先ほどから喋った方が良いのかなぁ、けどなぁと身体を震わせていた美貴を見据えて林檎は声をかけた。

「興味がないといえば嘘になります。けど」
「け、けど?」
「私は今の美貴さんが好きなので。過去は関係ありません」

なので過去を聞いたからと言って嫌いになるわけではありませんからご安心下さい。

「録でもない過去かも知れないよ。他の人もさ」
「私が誰を好きか嫌いかなんてのは私が決めます。他人の評価なんて気にしませんよ」

好きになったら盲目タイプなんですと、林檎は秋嶺のことを思い出し頬を染めた。
美貴はいつか喋れたら良いなと、夕夏梨が来たのをみはからって、デザートをどれにするかメニュー表を開けた。



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