ハリーと真宵 | ナノ



「同じ経験をした人間にしか判らないことがある」

真宵は自分の夫であるハリーに淡々と告げた。煎餅をかじり煎茶を飲みながら、片方だけ披露された双眸は虚空を凝視する。
娘のエンマがどうすれば自分に懐くのだろうと、三時の休憩中に喋っていた、云わば雑談の延長だ。ハリーは組んでいた腕をほどいて、真宵と同じ目線に腰を掛ける。それでも真宵の眼差しはハリーを見ない。覇気を宿さない眸に自分がどれだけ心を痛められたのかと、真宵は知りはしない。リスみたいに飛び出た前歯で煎餅をばりばり食べる。

「人と喋れない、とか、すべての人間が敵に見える、とか、人間が穢い生き物でしかない、とか、そういう、絶望をお前は知らないだろう」

奥歯で煎餅を噛み締めながら真宵は告げた。
今の科白がどれだけハリーの胸を抉ったか彼は考えない。
ハリーからしてみれば、真宵が小さく踞って泣いてしまう経験を与えたのは他でもない自分自身だ。故意か他意かは関係ない。故意の緻密な計算が練られたものもあるし、計算の枠内を外れてしまったものもある。責め立てられる文句を言われたも当然であるが、真宵は無頓着に残酷に自身の脣が刃と知らず、喋ることを止めない。

「俺は、そういう、どうしょうもない、時の、自分っていうのを良く判っている。お前の、理解がない、とは、言わない、けど、経験した人間じゃないとわからないものはある。お前はさぁ、搾取する側と搾取される側だったら、どっちの経験が多いなんて、尋ねるまでもなく、わかる、だろう。俺も、エンマも搾取され淘汰される人間だ、だから、人間が嫌いで人間が怖くなる。その、怖いや嫌いは監視や抑圧で凪ぎ払えるものじゃない、んだ。」

知らないことを前提に喋られる会話。人間の心髄とは不透明で、表面的にどれだけ婉然としても測れないものだ。
喉仏が上下する。真宵の薄い痩せ細った身体から突き出る喉仏をハリーは前歯で噛み殺してやりたくなった。気泡が咥内からぷくぷくと湧き出している。真宵が喋る度に浮かび上がる。

「お前には、エンマを理解する、のは難しいと思う。親子、でも。だからって諦めろっていいたいわけじゃない。俺は、応援しているよ。ハリー……――あの、それで、俺は言いたいんだ。人を信じられない時に現れたあたたかい存在は光だって。だ、だ、だから、エンマからベニスを無理矢理取り上げるのは、とりあえず、止めろよ」


真宵が喋りたかった結末に強引、話を方向転換させると満足したように怯えながら、お茶に舌を伸ばした。あたたかさを確認して脣につける。
ハリーは表面上「真宵がそういうなら」と理解ある夫のふりをして諦めるに似た溜め息を吐き出した。本当は告げてやりたかった。「それは君にとってのスオウかい?」と。真宵が自分のことを愛してくれているのは既に理解している。兄弟愛なのか友愛なのか、形になど拘りなく、真宵が愛しているのは間違いなく自分自身だ。しかし、一味違った形で真宵が黒沼スオウのことを敬愛して止まないことも知っていた。
光。光だと真宵はスオウを表現する。
きらきら光って止まないものだと。ぱちぱち弾けて飽きないものだと。絶望しかなかった自分に現れた一条の光だと恍惚に喋る。腕を引っ張ってこっちにおいでと言ってやりたい。君が向ける愛情は全部、俺に向けてのものだろう。言ってやりたい気持ちを喉元で抑える。
ハリーは知っていた。真宵がスオウに向ける感情は、ハリーがどう足掻いても手に入らないものだ。人間が生きる中で一人にしか捧げられないものである。真宵はそれ光と表す。違う。真宵がスオウに抱いている気持ちは初恋の思い出だ。大人になってもきらきら輝いていて色褪せないもの。捨てきれない時の処女の思い出と同じように。憎たらしいほど真宵は無自覚のまま、大事に、大事に抱えている。ハリーはそれを痛いほど知っていた。真宵が自分に向けるのは恋ではない。そんなものをすっ飛ばした愛だ。けれど、すべての感情を支配してしまいたいのに、真宵はハリーの意思など関係ないのだと、平然と喋りつづけるのだ。


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