ティガと春子 | ナノ



春子が死んだ。
皺だらけの手になる前に、胸に影が見つかった翌年に春子は死んでいった。薬で寿命を引き延ばしてみたけれど、見つかった時にもはや影は大きな塊で、他の臓器にまで侵食していた。お金はいくらでも払うから助けてやってくれ! という春子に親しい人間の声は空しく、春子は桜が剥落する季節に死んでいった。
遺骨になった小さい自分の嫁を抱きかかえながら、ティガは家の扉をくぐる。日本生まれの彼女の為に葬式はティガが理解できない、御経を唱えたり、白黒の鯨幕が風に揺られていた一日が終わる。
骨になった彼女の姿を見たとき、復活が出来ないじゃねぇか! と英語で訴えたくなった。棺桶に入れた彼女を土葬してやりたかったが生前、彼女が「私が死んだときのことはお父さんに任せてあるから。ティガは日本の葬式のことなんてちんぷんかんぷんなんだから、そっちに頼ってね」と言ってきて、馬鹿、そんな話するんじゃねぇよ、と頭を拳で突いたことを思い出した。
台所にたどり着き、背中から滑るように椅子に腰かける。机の上に遺骨を置き、彼女がいつも使っていた調理場へ目を向ける。ガス焜炉の前ではこげ茶色の色気がないエプロンをつけた彼女がいつだってそこに立っていた。エプロンはもっと派手なものにしろ! と忠告したティガに「普段使うんだからシンプルで良いでしょう」と言ってきたのは彼女だった。いつもの口論へ繋がり、くだらないことで二日間喧嘩した。
思い出してみれば、こんなに喧嘩した女はティガが生まれて数十年以上の年月が経過しているが、春子だけだ。出会った当初から二人は喧嘩ばかりしていた。言い掛かりにも近い科白で怒鳴り立てられ、悪態で返す。繰り返しだ。結婚してからも変わらない。
彼女は口論が下手糞で、育ちの良い環境に身を置いていたことがすぐに判る。頭は良く、制作される文章や漫画を読んでいると語彙の幅と知識がとても優れていることが判るのに、いつも上手くティガへ言い返すことが出来なかった。口の中に鬱憤を溜めて「もう!」と怒鳴り、それで終わり。良いように丸めこまれ、怒っているが、終わった後は何が悪いかじっくり考え、また一人で憤慨したり、反省を込めて、詫びに近い行動をとったりしていた。ティガはそんな彼女を囃すのが好きだったし、行動の一つ、一つに振り回された。時には彼女の言動に、心底うんざりしたし、苛立ったが、別れてやろうという気は不思議と結婚してからというもの一度もない。

「春子、なんで死んじまったんだよ。アホ、寸胴、間抜け、気がつかえねぇ女」

思いつく限りの悪口を述べていく。指で数えてみると、両手では足りない。折り返し地点にまで到達して、数え切れないほどある彼女への悪口が、すべて惚気へと変わっていく。

「春子は馬鹿だが可愛い。素直だし、行動がいちいちオーバーで煩い女だが、喋ることで場を盛り上げることだって出来る、思いやりがある女だ。ああ、あと、それと少しのことで怒鳴るけど」

声は止まない。指を閉じては開いて、閉じては開くを繰り返していく。ティガの双眸には涙が溜まっていて、声は震えていた。誰が聞いても、惚気られている内容だが、本人は愚痴のつもりで、もういつものように、小さな体を飛び跳ねさせ、拗ねた顔をして「なによティガなんか」という彼女はいない。歳を老いても言動がいつまでも幼かった。けれど、死期を知ったあとも、態度が変わらなかった彼女がいかに強い人間であったかをティガは知っていた。
家のことは彼女が担当しており「私が死んだらあんたは誰かを雇って家のことをするでしょうけど、料理だけはティガが作って」というのが生前、彼女が剥き終わった林檎をティガに渡しながら告げていた。
「ティガは逃げるのは得意だけど、私が死んだ問題には中々、逃げられないじゃん。きっとあんたは、がぁって自分の頭を掻きむしりたくなる衝動が押し寄せて周囲に怒りを向けたりして、辛くなる。もう良い、忘れるぜ! 思い出にする ってなっても、ティガは私のことを忘れられない」林檎を食べながら、ティガの前で言葉を続けた。なんでそう思うんだよ、とティガが返すと彼女は「あんたは私のことが好きだから」と平然と言ってのけた。愛しているからじゃないあたり、お前らしいな、と食べていた林檎を奪った。「忘れられなくて辛くなられるのは困るわ。だから料理を作る時だけって、決めて他は全部忘れちゃいなさいよ。あとね、家の中でぐーたら寝てるだけだったら身体に悪いんだから料理くらいしなさいよ」林檎を奪い返され、もう一度買いに行かされた。お前は俺のお母さんかよ、と小言を漏らしながら、あ――あ、そんな日なんて一生くるんじゃねぇよ、と思っていたが、どうやらきてしまったようだ。
調理場を見つめ、遺骨ごと約束事も燃やしてやりたかった。そうすれば、きっと、ずっとずっと彼女のことを思いながら辛い中に浸っていられる。けれど、彼女はそうするなというのだ。彼女のいう通りに行動するときちんと思い出へと消化出来るだろうということが、やる前から判っていた。間抜けで鈍感で阿保で色気がない女だが、自分のことを一番に考えてくれている女が、思考を練った上で述べてきた言葉だ。



それで俺がお前のこと忘れちまったらどうするんだよ。思い出にして
「別にそれでいいわよ」
はぁ、なんで
「私が死んだあとのことだもん。忘れてくれても、思い出にしてくれても、浮気しても、あんたがそれで辛くないなら良いの。」
別に良いのよ。彼女はそう言っていた。「今度会うときは、人生が楽しかったってそんな顔をしていてくれればいいの」と。
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -