二人しかいないリビング。茶色のソファーに屈強な身体のトラが凭れかかり、帝が用意したビールを啜りながらテレビを眺めている。
オリンピック開催中、孫と子は皆、春子の婚約者であるティガに誘われてロンドンまで足を延ばしていた。トラも暇であれば行こうかと思っていたが、会社の机には山積みの仕事。ここで、実兄であれば休暇を取ってくるだろうが、小心者で真面目なトラにそんなこと出来るはずもなく、リビングのソファーで四年に一回しかない夏の祭典を眺めている。
日差しを浴びながら生の空気に触れ観戦するのも悪くなかっただろうが、新婚時代のように妻である帝と冷房が程よく利いた部屋で観戦するのも良いものだ。なにより、二人きりである。
騒がしく陽気な空気はどこかにいき、老後の穏やかな時間だけがここには残っている。子どもが家を出て行かないため、家の中でだけ、空気が停止したようだったが、二人になるとそうではないのだと、酒を啜りながら実感した。若々しい時に味わった忙しなさも、幸福に浸りながら過去にしたことを悔いて、どこか、壊れるように抱きしめていた恐怖も、既にない。あるのは、ただ、穏やかで、瞼を閉じるといつでも眠ることが出来る空気だ。

「トラ、おつまみできたよ」
「オウ! サンキュー!」

台所から帝がお盆に載せたおつまみを運びながらやってきた。生ハムのサラダ、胡瓜の酢の物、軟骨のから揚げ、冷奴、鮎の塩焼き、三種のチーズ盛り合わせ、出し巻きたまご、カナッペなど様々だ。その柔腕でお盆が持ち上げられているのが不思議だ。帝によると長年培ってきた主婦の技らしい。出来上がったばかりの晩酌の抓みに興奮しながら、並べられた皿をとり、豪快に口へ運んでいく。
揚げたての軟骨のから揚げは口に含むと香ばしく、肉汁が咥内を充満する。固い骨に行き着くと、こりこりして、持ち前の歯茎で噛み砕くと中からさらに蕩けてしまう旨味が溢れだしてきた。ビールの抓みに丁度合う。
ぐっと冷えたビールを飲み干したあと、続けて、冷奴を口にする。辛く熱いものを食べ、さっぱりした冷奴を口に運ぶ。鰹節の出汁がきいた特製の汁と冷奴の喉を透き通る旨味が絡み合う。
甘さを抑えたメープルシロップとクリームチーズが和えられてあるカナッペを続けて手に取ると、また辛い物が食べたくなりしょうがなくなった。

「うめぇ」
「ほんとう、良かったぁ」

帝は膝をつきノンアルコールカクテルを飲んでいたのだが、トラの言葉を聞き、ほっと胸を撫で下ろす。昔から、帝はこの一言があれば、どんなことだって頑張ってこれた。ふにゃっと力が抜けたような笑みが思わず漏れてしまう。そんな帝を見ながら、こういう所はかわらねぇんだよ、とトラは笑う帝の頭を大きな手のひらで撫でた。

「お、レースが始まるぞ」

今日は陸上競技100メートルの決勝だ。二人の友人である柴田の孫である飯沼翼が日本代表として無事予選を潜り抜け、走ることになっている。地上デジタルの画面先に映る、子供のころから見知った翼の姿に二人は生唾を飲む。二人して四年前のことを思い出したからだ。あの時は惨敗だった。直後の翼に対してハリーや真宵も声をどうかければ良いのか迷ったほどだ。
トラは四年前の走り終わった翼の項垂れた後姿を見て背筋が寒くなった。もし、自分の子どもであったならと考えると、戸惑って、怒って、どうしようもない気持ちを抱えられなくて逃げていただろうとトラは今でも思うのだ。しょうじき、負けて醜聞を気にせず泣く翼の姿を見て自分の子どもや孫が運動に真剣に取り込んでいなくて良かったと安堵した。おそらく、目を背けていただろう。対象が近ければ近いほど感情移入してしまい、膿んだ心を突いてくる。
ちらりと帝を見る。
おそらく、帝は目を背けないのだろう。
今ならば判る。帝はこの世で一番綺麗で美しいが、誰よりも弱い存在なんかじゃないということが。昔から誰もが負わない小さな傷を自分のように抱え込んで包み込んできた帝の心は誰よりもふてぶてしい。重いのだ。本当に強い人間というのは、受け止められる人間なのだろう。傍から見れば馬鹿な役割だ。損ばかりして。受け流してしまうのも強さだと笑うやつもいるだろう。過去の自分がきっとそうだ。けれど、そうではないのだ。全部、自分が苦しむのを判りつつ全部受け止めて、気丈に背筋を張り逃げはしない。愚かで、だからこそ、トラは帝が愛しいのだ。護ってやりたくなり、死ぬまで一緒にいると決める。強いからこそ、この子が余計に傷つかないように。


「勝って欲しいね」
「そうだな」
「けど、頑張ったんだったらそれでいいと思うんだけど、翼くんはずっと頑張ってきたから」


食事を止め、テレビに二人して噛り付く。
テレビの端っこで孫たちの姿が映っていた。イギリス五大貴族の特権なのか、一番見やすい場所をあてがわれているようであり、テレビも目につきやすい。
審判のピストルが放たれた。

ぱぁん。







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