薄汚れた溝鼠のような天井。試合が始まる前の待合室はまるで監獄のようだ。太陽の光が頭上から降り注ぎ、曇天の空模様を映し出している。
耳に押し当てたイアホンから流れるのは、コブクロのアルバム。心を落ち着かせる曲というのは常に決まっていて、俺は試合前にコブクロとゆずを聞くことが多かった。
頭の中で金平糖のようにメロディーが弾け飛び、身体を高めていく。リラックスと緊張は似ていて俺は条件付けに、曲というのを材料に集中する場面を作っていた。
瞼を閉じて、一人の世界に浸透する。指先を絡めていた隙間から、発汗している。ぐちゃぐちゃして気持ち悪い。練習の時に感じとる興奮感と違い、取り返すことが出来ないことに挑む恐怖が俺の中で増幅している。たった一人に取り残された状態だ。奈落の底にいるようで、四方を透明の壁に囲まれている。足元を覆うのは凸凹した地面で、俺はその中で必死に出口を探していた。
テンションを無理やりにでもあげていかなければいけないのに、思い出されるのは、どろっとしか感情ばかりだ。
四年前のオリンピック、俺は表彰台にさえ登れなかった。
一年前に開催された世界陸上では日本人、五回目の快挙となる記録を100メートルで叩出したのだが、次の大一番の大会で五位という屈辱的な成績で終わった。
久しぶりに味わった誰かが自分の前を通り抜けていくという感覚。昔、兄貴に負けた時以来だ。残念ながら俺は親父の才能を半分と少しくらいしか受け継いでいなかった。親父はどの試合でもプレッシャーに飲まれることなく、走るという行為を楽しんでいたが、俺は違う。
ひと試合ごとに、プレッシャーが双肩にのめり込んできて、前の成績が大きければ大きいほど駄目になる。周囲からの声に弱い。
実際、四年前のオリンピックも国を挙げる勢いで称えられ、応援されたというのに結果は五位。日本の新聞では五位入賞と書かれるが、メダルがないことで非難する声は多くあった。当時、まだ高校を出たばかりの俺は今と同じくらい弱く、暫く隠れて嘔吐を繰り返した。緊張が最大限まで高まると嘔吐する癖があるのは両親と伊吹以外知らない。「楽しめばいい、自分と戦え」と親父は良く言った。それはお前が天才だから出来る業だと俺は思ったが、下唇をぐっと噛んで、はにかんだ。勝負の場で楽しむ方法など、俺は知らないのだ。
走ることが好きだ。
好きなのに、歳をとるごとに、走ることを純粋に楽しむことが困難になっていく。スポンサーの顔とか、マスコミの眼とか、友人の声とか、全部が全部、渦になって俺を巻き込む。ただ、走っているだけで良かった時代が懐かしい。青空を見上げて走るのが好きだった。地面を踏みつける度に、筋肉が動くのが判る。誰よりも早く走り抜けたくて、泣きだしたくなる練習だって耐えることが出来た。親父は練習の時だけ人が変わったように厳しくなる。罵倒をけして吐かないが、何が重要なのか理解した上で諭すように言ってくる。一時期、この太陽が気に食わなかった時があった。
戻りたい。
幼心なら、なんの柵もなく楽しむことが出来たこの大舞台を。過去の自分に返却してやりたいのに、頑張るのは今の自分しかない。
信じられるのは、積み重なった練習の結果だけだ。
嘘をつかない。

イアホンを外し、アナウンスに従い、外に出る。
燦々と降り注ぐ太陽の光に目を顰める。一斉に襲い来る観衆の声。自分の名前を掲げた旗が見える。
倒れてしまいそうなくらい、怖い。
だが、倒れない。倒れるわけにはいかない。この試合で、俺は誰よりも早く走り抜ける、走り抜ける、走り抜ける、走り抜ける、走り抜ける。言い聞かせ、手のひらを固く握った。







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