人口芝生の上に描かれた白線の上。零の角度から放たれたボールはスクリューを巻き起こし、ゴールキーパーの横を通過する。その瞬間、会場が歓声で湧き上がり、周囲は興奮のあまり起立するが、私はその中にいても、聡が用意してくれた席で腰かけながら、彼の雄姿を一秒足りとも逃したりしない。
彼が握りこぶしを天井に掲げ、仲間たちと抱き合う。普段なら、その選手が聡に触れたところを切り落としてやりたいけど、今日の私はそんなことしない。
メディアをあまり好まない聡の派手なパフォーマンス。喜びを分かち合い、笛と共に瓢箪な顔に戻る。
ピッチのいるときの聡はボールしか見ていない。五感すべてを利用して、一つのボールを追って、全体を把握している。
今、聡は21歳。23歳以上選手に対して出場権が三枠しかないオリンピックで、聡が試合場に躍り出るのは最後かも知れない。私は彼がオールドエイジで次の大会でも選ばれることを信じてまないが「スポーツの世界では何が起こるか判らない」と仕切りに話す彼は、4年後の舞台など、仮想空間に過ぎないのだろう。
一瞬、一瞬を全神経、尖らせて追っている。
外国の血が入っているといえ、彼の骨格は基本的に東洋の人間のものだ。対戦相手の190を超える堅に突進されると、簡単に吹き飛ぶ。他のチームメイトもここまで勝ち上がってくるのに、数人が怪我をして出場を見合された。
攻撃的MFという立ち位置から、彼はどうしても怪我を多く負う役割を担わされている。
今日は、怪我をした選手に変わり、ワントップを務めFWの立ち位置であるし。後ろから彼の太腿目掛けてスパイクで抉り、膝の皿を打ち付け暫く悶絶し、人工芝に倒れ込む姿を私は目撃した。
目を背けたくて堪らなかった。相手を鈍器で殴り殺してやりたかったが、苦しむ彼から私はけして目線を逸らさない。
動かない瞬間を、噛み締めるように、私は彼を凝視、続ける。喜びも、悲しみもしない。耐えるように、ずっと聡を見つめる。
コーチが手で大きく丸を描き、急冷スプレーで足を冷やされた聡は大丈夫だというように立ち上がり、飛び跳ねる。曲芸師みたいな柔軟な動きは、彼の持つ武器の一つだ。それに、音速の足が加わると、相手は血眼になっても聡を止めることなんてできない。
だから、無理な突進をして彼に突っ掛ってくるのだ。怪我でコート場を後にするよう命じるみたいに。彼はそんな相手を嘲笑うようにコート場でバク転を決め、拳を天高く振り上げる。




オリンピックが始まる前に彼がしきりに言っていた。


「汐さん、俺は体格には恵まれませんでしたスから、残念ですけど、相手に不意打ちされるとぶっ飛ばされるしかないんです。だから、パスすると見せかけて零の角度からゴールを狙ってやろうと思うんスよ!」

サッカーの話をする聡は楽しそうだ。きらきらと輝いてる。セックスをした後の呑気なピロトークの中でする会話じゃない。無邪気な少年の面影と、生死をかけた戦場に挑む戦士の姿がどちらも垣間見える。それらが瀬切り合って波紋のように反響している。どちらも黒沼聡という男の正体なのだ。楽しんでいる気持ちと、そうでないものが合わさって、彼の気持ちを高め合っていく。
コート上にいる聡は私とセックスしている時の姿に似ている。全力で、愛情をぶつけている。楽しんでいる、真剣でもある。すべてを被っていない人間の姿がある。つまり、私から聡を取っていくのはサッカーだけだ。サッカーだけが聡の中で私と同等の価値を持つ。
逆に言えば、サッカーから聡を奪えるのは私だけで、あんな最高の男に愛情を向けられるのはこの世で私だけだということになる。不満がないわけではないが、彼が、全力で向き合っているのなら私の止める権利はない。聡が幸せなら、それでいい。


スコアボードには1−1。
勝つためにもう一点取らなければいけない。ボールを保持しているのは対戦相手。対戦相手も仲間もすべて上がっているのに、ワントップの聡は中盤より少し後ろで身体を動かしながら仲間からのパスを待っている。彼がチームプレイを要求されるスポーツを好んでいなければ、もっと簡単に勝つことが出来なかっただろうが、彼は団体で行うサッカー中毒だ。
センタリングが上がり、オーバーヘッドで対戦相手がボールをゴールにぶち込むが、DFとゴールキーパーが防ぎ、ピンクのユニフォームを着たゴールキーパーがボールを借り上げ、速攻を仕掛ける。誰もいない、敵陣。ゴールキーパーと一対一。DFが後から戻ってきたが、聡の軽やかな翼が生えたような足を誰も止めることなど出来ない。ボールが足首に吸い付くように、聡はフェイトを仕掛けて、二人を交わすと、ボールを蹴った。
ゴールに入った瞬間、会場が再び湧き上がり、後半終了の笛が鳴る。残りはロスタイム4分のみ。けれど、聡たちは攻めることを止めないのだろう。試合終了のホイッスルが鳴り響くと同時に彼らの金メダルが確定した。











試合が終了してもマスコミが聡を取り囲むので私が合うのはもう暫く後だ。湧き立つ会場の中で、一人、死人のように腰かけて、センターモニターで流暢な英語で喋る聡を見つめる。どの国の選手と比べても、一番輝いている聡の滴る汗が流れている。吸い付いて、匂いを嗅ぎたい。マイクを押しのける記者たちを殴り飛ばしたいが、我慢する。震える腕を押さえつけた。


「では、黒沼選手。今の感動を誰に伝えたいですか」


お決まりの科白が飛び出す。日本のリポーターだ。
こういう時、決まって聡は家族だと曖昧な表現でぼかす。日本代表にまで登り詰めたサッカー選手が同性と恋人同士だというのは世間体が悪いからだと泣きながら説明された。滅多に使わない涙の上手な使い方を聡は知っている。私は許すしかなかったし、そんな不安を一蹴するくらい、聡は私を愛してくれているってちゃんとわかっている。

「俺の恋人に」
「こ、恋人ですか!」
「あ、はい。そうッス。俺の恋人です。今日もここに来てるんスけど」
「それは初耳ですが」
「言うの初めてスから。俺の恋人、同性っていうかトランスジェンダーなんで。心は女の人なんスけどね。慎重になってたんスよ。言われもない言葉で彼女が傷つくのは嫌ですから。だから、皆さんにご報告するのは金メダル取ってからって決めてたんス」
「なぜでしょう?」
「俺が護れるぐらいの力をつけてからってことスよ。あんた達みたいなメディアとか、その他、大勢の人間に」
「ですが、行き成りですね!」

リポーターが興奮してマイクを押し当てる。私は何が起こったのか判らず、聡の表情を、声も一瞬たりとも逃すものかと画面を見つめた。
聡はマイクを「ちょっと貸して下さい」と言って奪い取ると、今までサッカーしか見ていなかった彼が一気に私を見つめた。



「汐さん、結婚して下さい! 俺が金メダルを取れたのは勿論、チームメイト、監督、サポーターの皆さん、家族のお蔭です。けど、俺の姿を一瞬たりとも、見逃さず、震えながら、怖い思いも沢山しただろうに、ずっと俺のことを、支えてくれたのは貴方です。俺の、人生、サッカーと同じくらい貴方なしでは考えられません。金メダルが取れたのは、貴方がいたからです」


なんて、傲慢で、彼らしい、プロポーズなんだろうか。堂々と胸を張る姿の我儘に、私は何も言えなくなる。テレビを私物化して、叩かれるのも覚悟なんだろう。叩いてくる矮小な人間を吹き飛ばすくらいの力が今の彼にはある。この試合は彼抜きでは勝利出来なかった。見事、ゴールを奪い取ったのだ。日本サッカー界始まって以来の快挙を刻みつけた。歴史を一つ作った男の科白を誰が無下に出来るだろう。
私を泣かすのは聡だけの特権だ。
首を泣きながら頷くしかなかった。常人を凌ぐ視力を持つ彼には私の頷きが見えたのか、にっこりと笑って、リポーターに礼を言いながらマイクを突き返した。
リポーターはどちらの結果に反応すれば良いのか、困り果てて素っ頓狂な声を出して、軽やかな足取りで聡はマイクの群れから退散する。チームメイトは事前に報告し了承を得ていたのだろ。「良かったな」と頭を押さえられている。抜け目がない人だ。
彼が会場を後にしたことを確認して私もその場を後にする。
彼が捕ってくれたホテルに帰るとフロントに薔薇の花束が届けられていた。添えられたメッセージを見て、花束を抱え、ロンドンの街を柄にもなく走り抜ける。石畳の地面にヒールが挟まり扱けかけるが、必死に耐える。横を通る薄汚れた河には木造の家が立ち並び角を幾度か曲がる。排気ガスが充満する空間に出ると、車が真横を通り、私の前にはテムズ河が雄大な姿を見せた。タワーブリッチまで足を急がす。金貨を投げて、チケットを買う。時間的にも今からタワーに上る人なんて私以外いないのだろう。すべてを包み隠す夜が始まろうとしていた。


「聡!」
「汐さん」



階段を上り切り、肩で息をする。せっかく貰った花束が萎れていて、私は花束ごとユニフォーム姿の聡に抱きつく。

「見てくれましたよね」
「見てた」
「勝手なことしてすみません」
「謝ればよいと思ってるだろう。いいけど、別に」

聡の手のひらが私の髪の毛を掻き分け、頭を優しく撫でる。汗にまみれたこの人の匂いが溜らなく好きだ。髪の毛に芝生もついている。あの会見のあと、直ぐに電車に乗り、タワー・ブリッチまで着たのだろう。
抱きつき、息を整えると、聡が私を離す。双眸と双眸を絡ませあって、聡の唇がゆっくり動く。

「汐さん、改めていいます。結婚して下さい」
「聡……」
「貴方なしでは俺の人生、考えられません。俺と一緒に幸せになってくれませんか」

跪き、聡は指輪を取り出し、私に差し出す。これを手に取れば了承の合図。嫌なわけがない。ダイヤが輝く指輪を私は指に嵌めた。

「もちろん」
「う、汐さん!」

彼なりに緊張していたのか、今度は彼の方から私に抱きついてきた。全力で抱きつかれると、支えきれなくて、倒れ込むように尻餅をつく。地べたに腰を下ろすなんて汚い真似だが、幸福で掻き消える。

「あ、そうだ、汐さん」
「なに」

私の腹に顔を当てるように体勢に結局なった聡はポケットから徐になにか取り出した。

「はい、コレ」


臙脂色のリボンに吊るされているのは、彼が捕ってきた金メダル。
起き上がり、私の首にかける。
聡のだ。聡が持っていなくちゃダメなのに、どうして私にかけるのだろう。彼の思惑が判らず、首を傾げると、彼が笑った。

「汐さんのです。一緒に、頑張ってくれたでしょう。言ったじゃないですか、汐さんがいたから金メダルが取れたって。だから、汐さんのぶんでもあるんスよ。いつも、ありがとう、汐――」

頬を聡が撫でる。卑怯だ。かっこいい。呼び捨て。すべて、判っているのか、自然な聡なのか私には判らないが、涙が止まらなかった。


私の首には金メダルと、指にダイアの指輪が輝いていた。










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