電車の座席に腰掛けるのが綾子は好きではない。背中に絡み付くべちゃっとした汗や、他人の体温はまるでモンスターのように跋扈する。
見ず知らずの人間が真横に至近距離で座っているのに、まるで個人の空間があるかというような錯覚に目が眩んだ。
だから電車に乗ると混んでいようと空いていようと、綾子は立っていた。吊革や鉄パイプだって、指紋がべたべたついて他人の鼻くそやトイレにいって手を洗っていない穢いものが付着しているかも知れない。触りたくない。
かと言って潔癖症ではない。好きな人が触れたものは、どんなに穢くても大丈夫。好きな人なら密着していても大丈夫。他人でないというだけでなにをしても大丈夫になる。歯磨きだって共有できる。だから、本当に嫌なのは、他人と無意識に繋がることなのだと、綾子はうっすら自覚していたが、彼女にとってそれ等は重視する内容でもなかった。どうでもよい。
綾子は携帯を手にとり、弄くる。耳にはイヤホンを嵌めており、プラスチックの大きな三角形がくるくる輪を描いていた。自分で唸らせたコードが脳内を呪縛する。指先で膝を利用しリズムをとっていると、眼前が音の世界に染まっていく。音楽は好きだ。いつでも他人との繋がりを断絶できる。
以前、これを母親に告げたら「あなたはお父さんに似たのね。生きにくいけど、繊細で独特な雰囲気、けして悪いことじゃないわ」と言っていた。なるほど、父がコントローラを握り、ゲーム画面を眺めている姿を見て遺伝だと納得した。別に悪いことじゃないと言ってくれた母親の言葉が嬉しかった。
綾子はつまらないことで自分の時間を裂かれるのが嫌だ。他者と群れ会うのはこれと同じだ。時間を買う。一緒にいた時間が長ければ長いほど私たちの結束は硬い。時間を裂かない人間の悪口はいわれて当然。
つまらない。つまらなくて仕方ない。音楽だって他者と馴れ合ってばかりで良いものが生まれるわけがない。そんなもので自分の世界は奪えない。
正直に告げるのはある意味普通。けど、少数者や有能な人間を削除するのも、また、仕方ないものだと彼女は思った。へこたれたわけではない。くだらない、を再認識しただけだ。
人間特有の厭らしさが、電車や教室といった共有空間には詰まっていると理解させられた。
嘔吐。





一人で音楽を掻き毟っても上手くいった。別に好きなコードを好きなだけ暴れさせ、整えてやるだけだ。一人は楽。けど寂しい。群れなければ潰れてしまいそうな瞬間はある。
きっとそれが、父親と似ていることで、だから、稀に誘われるがままにバンドを組んでみたりする。
世界が無条件で好きになれる存在で溢れていれば良かったのにと綾子はよく思った。


ある日、腐臭の箱を乗り継いで、街中へと出ると、義兄に出会った。茶色の実兄には勿体ない容姿の人物だが同じ音楽を操作する人間で、綾子はどちらの兄も好きだった。彼女の好きか嫌いかは第一印象で決まる。第一印象で嫌いな人間は一生嫌いだし、逆に言えば第一印象で好きな人間は一生好きだ。両極端。
綾子は声をかけ、義兄が創生するバンドの倉庫に連れてきてもらった。そこで、目にした光景は、遠慮なんか下らないものを捨てて、語り合う音楽の姿。一時間くらい様子を眺めていると、自分が作り出したかったバンドはきっと、こんな形をしているのだと理解した。綾子は、バンドのメンバーが全員好きになった。
特に好きになったのは、ドラムの山口 海だった。海の弾きだす音が好きだった。自分が操ることが出来ない音楽の術を彼は知っていて、独自性豊かな音楽を叩いている。妹のように扱ってくれたので、綾子も兄のように慕った。それが、崩れる瞬間は意外にも呆気ない。





「お前ってどうしてそんな喋り方してるの? 甘えてる、媚売るような喋り方」


背後から抱き付いていると、思いだしたように彼は言った。
俺も年上にそういうニュアンスの声出すから判るんだよね。馬鹿じゃ喋れないし、まぁ、どっちで良いけど。
彼は続けてそう述べて、ドラムを両腕で叩き始めた。ドラムを叩くごとに、リズムが肩に振動する。綾子は瞼をうっすら閉じて、気付いて貰えた嬉しさと気付かれた恥ずかしさに顔を埋めた。兄妹が終わったのはこの時。惚れるしかない。
馬鹿な喋り方。語尾を伸ばし発音する。舌足らずな、煩わしい肉声。
業とだ。図星だった。
これは綾子なりのコミュニケーションの取り方だ。初め、もっと幼い頃は母親のような賢い存在になりたかった。賢くて強い存在に憧れた。孤独でも、自立していられて、芯がまっすぐ通った群れない存在。けれど、無理だった。賢さを装うほど、プライドの高さで包み隠した殻が剥がれていく。憧れのようにはなれない。人間を煩わしいと馬鹿にしていても、どこかで群れずにはいられなかった。だから、馬鹿になった。立場上、馬鹿になる方が楽だった。周りは大人だらけで、どうやったって勝てないものが多い。その点、舌足らずな喋り方で、関係を続けたい人間だけ、スキンシップを過激にすれば、誤魔化せる。
馬鹿になる方が楽。いや、自分は馬鹿にしかなれないのだろうと、綾子は心のどこかで悟った。
それから続く、白痴な喋り方。
今まで気付いた人なんていなくて。ふとしたさり気ない、他者にとってどうでも良い言葉が確信をついて、抉ってくる。
だから、他者は苦手だ。自分の心を無条件で犯していく。関わり合いとは恥の上塗り。電車の横に座った人間だって自分の延長線上にあるのだ。


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