帝は両手をいつもぐちゃぐちゃにして帰ってくる。この子の力は自分には通用しないからだ。幾人もの人間を癒してきた代償に、手は泥だらけになり、力の反動が押し寄せ傷だらけになる。世界で一番優しい帝の手はこの世の誰よりもぐちゃぐちゃで、それなのに、美しかった。
移動ゲートを通ってきた帝を目の前にして、トラはいつも駆けだして抱きしめる。ようやく帰ってきてくれた愛しさの塊を愛してやまないのだ。トラは泥だらけの帝を気にせず抱擁して、控える侍女を押しのけて浴槽まで連れて行く。服を乱雑に脱がし、戦場で負った怪我を見ると、撫でる。

風呂に入って大丈夫なのかよ
大丈夫だよ、トラ! お風呂に入っても平気だから
怪我してるじゃねぇか
治りかけだよ

傷が沁みないことを確認して、トラは帝を湯船に浮かす。王宮にしか使用されていない石を削りだした宝石のような浴場の利用者はトラと帝しかいない。普段、侍女がこぞって身体を洗いに来るが人払いを済ませてあり、静かだ。帝は傷が沁みないことを確認して、ほらね、と笑っているが、その笑みがトラの胸を抉った。


どうして関係ねぇのに、お前は行くんだよ
関係なくないよ
関係ねェ、じゃねぇか! お前の国で起こった戦争でもねぇ、こんな傷だらけになって!


トラは帝の古傷を摩りながら、涙が掠れそうな肉声で告げた。帝が帰郷するといつも交わされる呟きだ。帝はこの言葉を聞く度に、僕はどうしてこの人の傍にずっといてあげられないんだろうか、という気持ちになる。出来ることなら、自分だってトラの傍にいて、平穏に囲まれた世界で過ごしていたいのに体験した戦火の声がそうすることを拒ます。帝にしてみれば、持っている力を使わず平穏を謳歌するなど、それだけで罪なのだ。
帝は常日頃思っていた。自分ができることのなんて少ないことか。指で数えられる。ならば、この役立たずの身を焦がして、誰か人様のお役に立つことがしたい。それは、ほんの些細なことに過ぎない。
最近になり、オフィーリア王国の正妃というのも関係して、帝の活動を称賛する声を帝自身も耳にしていたが、それは違う。帝は怪我や病気を治しているに過ぎない。本当の意味で戦争復興を果たしていない。
人々が戦争復興するためには、抗う強い心を手に入れるのが必要だ。誰もが自身の王なのだ。屈することを好まず、脅えず、人生という道を戦っていく。その心を取り戻すのが、戦争復興だ。
傷を治したところで、怪我を治した所で、解放する自我というのは生まれない。一番ひどいのは、植民地支配を受けている国で、皆が虚ろな眼差しをしている。支配されるというのに慣れきった、考えることを放棄した眼差しだ。そんな人間の傷を助けたところで、再び、死んでしまう。身体が、ではない、心が、だ。
そんなとき、帝は自分の無力さを噛み締める。もっと、強い言葉を自分が持っていれば。傷を癒すだけではなく、心を癒してあげることが出来たのに――と。だから、別に帝は称賛されるようなことはしていない。彼からしてみれば、散らかった洗濯物を畳むのと同じくらい当たり前のことである。
だから、その、当たり前で一番大切にしなければいけない人を傷つけるのは辛い。
昔はこういうやり取りが起こる度に、帝はトラに別れてもらっても大丈夫だという気持ちを告げてきた。別れたくないが、自分の我儘にトラを付き合わすのは申し訳ないし、自分なんて存在、忘れ去って新しい人と恋を育んでくれて構わないと思っていた。
平然とそんなことを言い放つ帝に、トラはまた涙を流し、帝は戸惑った。肩に食い込んだ手、嗚咽をこみ上げる音、トラの熱い音が、自分がいなくなれば、この人は悲しいんだということを言葉にせずとも、伝えてきて、ただ、ごめんなさい、と小さな謝罪を述べた。
本当は止めるべきなのだ。
トラを見る度にそう思う。自分が世界一、愛しくて、他の誰が誰かを射抜いて殺してしまっても、許して相手側の事情を聞き、受け入れるのが当たり前だが、帝はトラが殺されてしまったら、その人物をきっと一生許せないだろう。下手すれば憎んでしまうかも知れない。少なくとも、帝はそれくらいトラのことを愛してやまなかったし、出来ることなら片時も離れることなく、くっついて、他愛無い会話をして、セックスをして、一緒に眠って、おはようという日々を過ごしたかった。


ごめんね、トラ
帝……――いや、俺こそまた言っちまって悪かったよ


癇癪が一通り済んだトラは帝を抱き寄せ、背中に浮かび上がる傷跡に舌を這わせていく。
こうやって、トラと二人でいる時が帝にとって一番幸せだ。
優しい人だと帝は思う。こうやって帰郷するたびに、咆哮をあげ、寂寞とした行き場のない感情を訴えてきてくれるのに、最終的には笑顔で送り出してくれる。理解はしてくれないが、トラは受け止めてくれている。それは、確かなことで、本音はお風呂場で語られる僅かなものだけ。
ぎゅうっと絡め取られた手を握る。這う舌が熱い。鼓動がどくん、どくんと、爆発しそうに叩いている。
駄目だ。
帝は瞼を握る。
この幸福に溺れてしまう。ゆっくりと、抜け出せなくなってしまう。自分の欲望が勝ってしまいそうになる。
トラと一緒にいたい、という。
そのためには、出来るだけ早く王宮を出て行かなければ。自分が出来る最低限のことすら出来ない生きている価値が本当に塵クズ以下の人間へと変わってしまう。


トラ
なんだよ、帝
今度は一週間後に行くことにするね


トラは握り返されたこの世で一番美しい手を見た。震えていて、何を望んでいるのか、心髄を理解することは出来ないが、けして、この子が自分の為に動いている子じゃないことはしっかりと判っていた。たとえ、本人がどう言おうとも。自信がないだけの自分本位な人間というのは安全地帯に居たがるということを、この美しい生き物は知らないのだ。




早く帰ってこいよ
うん
怪我するなよ
約束は出来ないけど。あ、この怪我は壱夏ちゃんに治してもらうから大丈夫だよ
壱夏がその力を受け継いでて良かったぜ
そうだね、昔は、怪我を治すのに随分時間がかかっちゃったから
おお、そうだな



そのせいで、お前は死にかけたな、とトラは喉元まで出かかった言葉を押し込んで、帝を湯船の中に押し倒し、水中で唇を絡ませた。
世界で一番美しい生き物がトラの腕の中に居るのは時間は残り僅か。過ぎ去るとこの子は旅立ってしまう。今度、帰郷するときは、また、理不尽な怪我を背負って。
旅立つまでのわずかな時間を独占するために、二人は絡み合った。





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