トラ・トゥ・オーデルシュヴァングは苛立っていた。真横で泣きそうな眸をぐにゃりと押さえて震える小鹿のように立っている黒沼帝のせいだ。
今日、彼は帝に酷い暴言を吐いた。付き合っているのに、今日、お弁当を持ってきた帝を目の前にして「いらねぇ!」と怒鳴りたて、右腕を絡ませ胸を押し当てる女の子と一緒に席を立った。
お弁当なんて付き合う前から帝は持ってきてくれていたし、二人で喜んで食べたり、トラの用事がある時は弁当だけ受け取っていた。だから帝は決まって小さいお弁当箱と大きなお弁当箱を二つ持ってきていた。いつでもトラが違う人と食べられるように――という配慮だった。
教科書を毎日持ち帰る帝の鞄はただでさえ重いというのに。嵩張るお弁当を飽きずに届けてくれた。
このお弁当だって帝から「作ろうか」と持ち掛けたものではない。トラからだ。


中学生に上がったばかりの二人には給食なんて用意されていなかった。小学生までは給食が市から配給されていたが、中学生になると給食という制度は彼らの前から姿を消した。
お弁当というのは、どこの家庭でも大抵、母親の役目だ。
だが、トラの母親は精神病を患い、弁当を作る余裕などなかった。普段の夕食から家を出た筈の姉のノルが戻ってきて作ってくれるのだ。さすがに弁当までというお願いをトラは出来なかった。
父親にだけ軽く事情を説明して、毎月、昼食費を貰った。買うのはコンビニのパンかお握りだが、毎日食べ続けると飽きてしまう。
進学したばかりの二人は昼食を一緒にとっていたものだから、帝はトラの真横で「美味しくねぇ」と呟き続けるトラの姿を見てきた。
ある日、自分のお弁当箱から震えながら帝がおかずを差し出した。黄金色の艶やかさと表面を焦がした卵焼きだった。
トラは「サンキュ」と言って受け取り、卵焼きがあまりにも美味しかったことから「毎日こんな弁当が食いテェ」と漏らし「僕が、あの、つ、つくってるから、だからトラが」と帝が、必死に言葉を手繰り寄せている時に「じゃあ作ってきてくれよ」と頼んだのだ。
トラは馬鹿だが長年一緒にいた帝がどう返せば望んだことを言えば良いのか分かっていてあの台詞はトラが帝に策略的に言わせたものだった。もっと正確にいうとトラが欲しい答えを帝はそっと察し「言って良いんだ」と判断して言いたかった言葉を口にするのだ。
そんな何気ない、なんの義務感もない約束を帝はずっと守り抜いた。


それなのに俺はなんてセリフを言っちまったんだ!!
というのが、トラの目下の悩みだった。
別に今日は女子と食べる約束をしていたし、断るつもりでいた。トラの中で付き合ってはいるが所詮、形だけの関係と言っても遜色ものだ。女と食べても問題はない。上手くいけば、行き過ぎた愛情が勘違いだった「トラはやっぱり僕の幼馴染みだったし一番の親友だよ」と目を覚ましてくれた。
上手く言えなかったのは、帝が直前に木野紀一と喋っていたからだ。寝るかお菓子を食べるか音楽を聞いているかくらいしか学校に来てしない男だった。木野は。不思議で虐めの対象になっても可笑しくない人間なのに、嫌われていなかった。顔がとても美しかった。垂れた目じりに長い睫、蕩ける双眸の動き、厚い唇。飴ばかり舐める舌。トラからしてみればどこが良いのかまったく理解できなかったが、彼を見ていると自分の実兄を見ているような気分になり、嫌気がさす。自分が持っていない圧倒的な力で他者を平伏させる力がある。
更に、何故か、木野紀一は帝と仲が良い。今まで自分の後を追ってくるか教室の隅っこで本を静かに読んでいるか、兎に角、自分以外と積極的に関わってこなかった子なのに。木野紀一とは自分と話さない相談も持ちかけているようだ。だから、つい、苛立った、怒鳴りたてた。帝は「ごめんね」と朝早くから用意してくれたであろう弁当を両腕に抱え込んで、泣きそうな声で、廊下を掛けていった。
ああ、そう、考えると、自分は上手に言えなかったが、言いたいことはちゃんと帝に伝えることが出来たと納得することが出来る。

「トラ、じゃあ、またね。今日はごめんね」
「ああ」

別に帝が謝る理由なんて何一つないのに、帝は扉に吸収されるように消えていった。
トラは最後まで自分が怒鳴りたてた理由を認めることが出来ず、どうせ明日になれば帝は何一つ変わらぬ顔で自分の家の扉を叩くのだと自身を納得させる。

トラはゆっくりと自分の家の扉を開く。相変わらず薄暗い部屋で、リビングからは母親が狂ったようにクレヨンを動かす音が聞こえて吐き気がする。扉を大げさにあけると、無気力で人形のような母親がぎょろりとこちらを見た。

「帰ったのか」
「ア――まぁな」
「ふぅん。不機嫌そう」
「ハァ!」

トラはそう言われついつい頭に血が上り扉を大きく叩いてしまった。母親はびっくりして威嚇するようにクレヨンをトラの服に投げつける。コテンとフローリングの床に落ちて、トラは息を正しく取り戻す。

「不機嫌じゃねぇよ」
「そう」
「俺は言いたいことを言っただけだ!」

そりゃぁ、言い方は悪かったけど、とトラは傷ついた顔をした帝の顔をうっすら脳裏に思い浮かべた。
母親と関わるだけ時間の無駄だと、じとっとこちらを見る母親から視線を逸らしたが、母親の干からびた小さな唇が言葉を紡ぐ。

「言いたいことを言えるのは、受け止めてくれる人間がいるからだ。言いたいことが言えるのは幸せなことだ。言いたいことが言えるのは、言った本人がいるからじゃない。言いたいことを言って、受け止めてくれる人がいるから。受け止めて、笑って、くれる人がいないと、こちらは言いたいことすら、言えず、意見を抹消され、静かに死ぬしかない。言いたいことをいっても、受け手がいなければ、そんなの、意味のない言葉だからだ。お前の独り言に過ぎない。それは、なかったのと一緒だ。言いたいことが言えるのがすごい、んじゃ、ない。言いたいことを受け止めてくれる人間がいるから、言えるだけだ」

流暢な言葉を母親が喋る。振り返り部屋に突進しようとしていたトラは足が縫い合わされたみたいに動けなくなった。稀にこうして心髄をえぐるような言葉を告げてくる。けれど、素直な母親からの忠告でもあるのだろう。
トラが振り返らないことを知ると母親はまたクレヨンで画用紙に絵を描き始めた。気が狂いそうに細かい絵を。
クレヨンを動かす音が鼓膜に届くと同時にトラは動くことをようやく許され、静かにリビングを退出して自分の部屋へ向かう。軋む廊下をあがっていき、自室で一息つくと、隣家へと通ずる窓を眺める。
影が揺れ動き、帝がいることがわかる。帝は今、泣いているのだろうか。自分が身勝手に彼を追いつめてしまったせいで。本当は自分が悪いことも、そもそも、付き合っているのに他の女のところへ行くこと自体が間違っているが、それはしょうがないことだと諦めてもらうしかない。帝のことは、好きだ。好きだが、幼馴染以上に見ることが出来ない。けれど、帝の良さに自分以外が侵略していく所など見たくはなかった。
言いたいことを言えるのは受け止めてくれる人間がいるからだ。
母親にしては的を得た言葉だ、とトラは思う。ならば、お綺麗事が大好きでこの世の穢れを全部背負って生まれてきたような少年は、幼馴染の台詞くらい簡単に受け止めてしまうだろう。今も。
そうして、一人で泣くのだ。泣かせたくは、なかったのに。
窓から帝の影が消えた。母親に呼ばれ、夕飯の手伝いをしに行ったのだろう。
きっと、明日も帝は弁当を作ってくる。昨日のことなんか、気にせず、弁当を差し出す。拒絶されても大丈夫なふりをする。受け止めすぎるのに、慣れているから。痛くても叫んだりしない。嘘つきでもない。生まれたままの笑みを浮かべたまま、トラの幸せが僕の幸せだというのだろう。
トラは自分の小ささを実感して、だから帝と一緒にいれないのだ、と思ったり、そんなんだから、お前のことを嫌いになれないのだ、と思ったり、だから、ずっとずっと一緒にいたいから、恋なんて関係で片付けないで欲しいと願った。
恋はいつか、終わってしまうものだろう。



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