裕樹が透の頬に触れた。

「冷たいでしょう」
「冷たい」

透は正直に答えた。裕樹は透の率直な眼差しに悲しくなり、冷え切った指先を下して透を抱きしめた。呼吸の音が重なり合うのに、二人の身体はあまりにも冷たく、この世に二人ぼっちしかいないみたいだ。現実はそうじゃない。ここは、二人が購入した海辺が見えるマンションで、磯の香が窓を開けると鼻腔を過る。フローリングの艶やかな床は、黄ばんでいて、毛布を重ね合わせて寄り添っている。物はあまりにも少なく、必要最低限のものしかいまだに用意されていない。
透の寿命が医師から宣告されたのは二週間前だった。コンクリートを打ち付けた病的なほど白い空間で、医者は「あと二週間の命です」とあまりにも無情な言葉を告げた。


見たことがない病原菌です。作家に生まれた人間の宿命でしょうか。膨大に生まれた文字量が、人体所有できる範囲を超えてしまったんですね。これから、二週間かけて、記憶が彼の身体から削られていきます。一番新しいものから、消えていき、最後に大切なものが消えてしまいます。彼の中で。今の様子を見ると、おそらく最後に消えてしまうのは、あなたの記憶ですね。そうして、記憶がすべてなくなってしまったとき、彼は息絶えてしまうでしょう。なぜかというと、彼は呼吸することすら忘れてしまうのですよ。眠りにつき、心臓を動かすことを忘れて彼は、死に絶えるのです。


裕樹は聞いたとき、呼吸が止まってしまった。抱きしめていた透の身体を握りしめていた自分の手が震えていると気づいた。透は気丈な態度をとっていたが、彼は自分が宣告された死の恐怖より、震えている裕樹のほうが心配だった。
この人は、自分がいなくなってしまったらどうするのだろうか。

いらぬ不安が胸を過る。
自惚れではなく、きっと、この人は去勢を張って大丈夫だと、いうけれど、誰にも涙を見せることなく、自殺することもできず、夜になると、一人でしくしくと自分を思い出して泣くのだ。枕を濡らして、他の人間には「大丈夫だ」と告げて、死ぬまで孤独を味わうのだ。
それは、なんて寂しいものだろう。幸せではないのだろう。一番幸せになって欲しい人間が。泣いて晩年を過ごすのかと考えるだけで、自分の身体を叩いて「病気なんて嘘だよ裕樹」と笑ってあげたいのに。二週間経過した、透にとって、もはや、裕樹から幸せとともに教えてもらった笑い方さえ分からない。頬をどうやって、動かせば。口角は上がるのか。裕樹に腕を引っ張って貰わないと、手を挙げることもできず、体温さえ分からない。透が今、覚えているのは、裕樹のことだけだ。子どもたちのことも忘れてしまった。裕樹によると、一週間くらい前に忘れてしまったので、この家に越してきたということだ。あんなに愛しかったはずなのに、顔が、思い出せない。

「透、好きだよ」
「俺も」

裕樹は泣くように呟いて透のひんやりとした唇に口づけをした。医者の話を信じるなら、彼の命は今日で尽きてしまう。そんなこと、信じたくなかったけれど、もはや、自分で何をすることもできず、口だけが動く透を見ると、現実という波が身体を押し寄せてやってくる。
どうして、死んでしまうんだ! と子供のように泣き喚きたい。約束していたものを、二人で味わっていない。幸せになろうと約束したのに、この先、君がいなくなってしまえば、俺はどうやって幸せになればいいんだい! わからないよ、透! 
なんて、言えるわけがない。きっと、もっと、口が達者に動くときの、透であるなら「言いたいことを言えよ」とぎろりと睨んでくるだろうし、言わない裕樹に不満を抱くだろう。分かっているのに。
透のことなら、分かっていたつもりなのに。こんな身体に君がなってしまうなんて、俺は知らないよ。
なんでも出来ると世間から称賛されても、大切な人を助けられない万能な人間など、とんだお笑いものだ。努力とは、現実の前に、あまりにも虚しく散っていく。寂寞とした思いが劈く。


「とおる……」
「ゆうき、ゆうき」

ちゅうっと裕樹は透にキスして、抱きしめて、これ以上ないほど、透に触った。透は「セックスして」と誘ってきたので裕樹は透を抱きしめた。無理だよ、と言いたかったが、それ以上の透の願いを叶えてやりやかった。
透はどうせ死ぬなら、裕樹と少しでも近い距離で死んでいきたかった。喋れば喋るだけ辛くなっていくからだ。抱き合って、舐めあって、棒を穴にいれて、二人の間に僅かな隙間さえなくなった。
朝、裕樹が目を覚めると、透は死んでいた。
ああ、と愛しい人の亡骸を抱きしめながら世界が黒く染まっていった。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -