01




母さんがオレの存在意義である。
漆黒が眼前を支配し、毛細血管が波打つ。未だに、脳髄を支配するのは、真っ赤に染まる、横たわった母さんの真っ青な顔。死人の顔というのは、このようなものか、と病室で点滴に繋がれる母さんを見て実感する。

オレを責めているようだ。

ああ、馬鹿らしい。屑共め。お前たちはオレを何だと思っているのだと、自身に問いかけるオレが一番馬鹿らしい。陳腐で老獪な人間だ。
母さんを追いつめるのは、オレがこうして息をしているからなのか。小学生のオレを襲った悲惨なあの事件が起きたあと、退院した母さんが父さんに囁いた、脳裏に膠着した言葉。母さんが父さんと結婚した理由。喉が枯れるかと錯覚し、呪った。
子宮に勝手にオレを孕んだのはお前たちなのに、オレを責めるのか。認めてやるさ。オレが悪いということを。
愛されないまま生まれおち、愛されないまま一七年生きた。それでも健気にやってきたつもりだよ。
健気というのは償いだ。
母さんに対する。こんな、オレを必要としてくれに人間なんて、母さん以外いないだろう。母さんの血肉を分けた息子である、腹の肉を裂いて産声を上げたのが、オレだ。母さんにはオレが必要だろう。そうだろう。
だから、ねぇ、そう。
オレの時間をすべて潰して、母さんに捧げる。母さんはオレが傍に居ると手首を切らない。父さんと共にいる時のように、平然と事実を受け止めるような、平坦な幸福はオレといるときには訪れないようだが。それでも、母さんは手首を切らない。感情の起伏こそ激しく、波があり、笑っていたと安堵すれば、次の瞬間、泣いている。だが、手首は切らない。穏やかとは一概に断言することは不可能だが、手首は切らない。繋がる。存在意義へと。懺悔へと。
血の海に倒れ、息をすることを忘れた母さんを見てからは。懺悔だ。同時に、必要とされた母の為に呼吸をすると決めた瞬間から、母さんの存在がオレが生きる意義になったのだ。
思考を巡らす時間も。楽しさを共有する時間も。ああ、これは、共有したいと枯渇しながら、一度たりともないのだけれど。
不細工な完成されない、のっぺらぼうのような顔も、母さんの為に毎日、造り変える。鏡を眺めながら、化粧を施す様のなんと滑稽なことか! 化粧を幾多も重ねる度に、オレの顔は父さんへと近づく。あの、身勝手で、傲慢で、そのくせ、母さんからの献身を集めるあの男、そっくりになる。ドッペルベンガーを眺めている気分だ。オレの方が劣化版であるが。一層のこと、このまま、死んでしまえたら随分、楽になるだろう。
ああ、でも、そう、さぁ……
楽しさを感じないので、死ぬのは、無理か。一度、母さんの真似をして、手首を切ってみたけど、死ねなかったし。血が出て、痛いだけだった。死ぬにしても、あの死に方は嫌だなぁ、オレって痛みに弱いのかもねぇ。侘しい。
そういえば、手首を切った後、充葉が、焦った顔で、オレを見てきたっけ。
唯一の共有者。真っ赤に水葬された母さんを見た男。充葉。オレの幼なじみ。
オレがこんなになる前は、黒沼充葉なんて存在、どこにでもいる人間でしかなかった。オレの後ろを付いてくる、金魚のフン。捨て杯。なんとなく一緒に居てあげた、優しい聖人君子のようなオレ。一緒に居る時間が長かったから、充葉のお誘いには優先的に乗ってあげたし、充葉のお願いを通してくれた。お願いなんて昔から滅多にされたことはないけど。
真っ赤な母さんと共にある日も、充葉はオレと一緒に居て、オレが今後の人生についての構築を練っている最中、ずっと、手紙を持ってきたっけ。今思えば、会ってやれば良かったのに。余裕が無いオレ。不細工。


充葉、充葉、充葉。


あの日から、充葉の立ち位置は変貌した。
教室の椅子に腰かけ、充葉はオレの顔を膝の上に乗せる。オレの話を黙って聞く。充葉。唯一、オレの我儘を聞いてくれる人。他の奴は違う。オレを見ていない。
簡単にオレを称賛する。「ジルはなにをやっても素晴らしい人だね」くそ食らえと言いたい。お前たちがオレのなにを知っているというのだ。何事に対してもある程度、努力してきたつもりだ。実った試しはないけどね。
母さんのことだけではない。母さんに対する支誠は、オレという人間個人を造り変える強さを保持しているので、当たり前であるが、それを差し引いても、オレが積み重ねた努力というのは大したものだ。
充葉以外は、それを判らない。判ろうともしない。充葉だけが、オレの努力を認める。化粧をするオレ。帰宅時間を早めるオレ。褒めてくれる。充葉は頻りにオレと一緒に居るとき、オレが話をする時、どうでも、良い態度を醸し出しているのに、本心はそうじゃないと知っている。充葉は健気にオレの話に耳を傾けた。熱心な姿。オレと対等であろうとする充葉。オレに劣等感を抱き、同じくらい、オレと一緒に居ることで優越感を抱く充葉。オレのことを振り払いたいと懇願するときだってあるだろうに、オレと一緒に居てくれる充葉。オレと同等であろうと、努力する充葉。無駄なことなのにねぇ。ふふ。
嘘はつくけれど、他人を護る嘘をつく充葉。
オレの唯一の、味方。

だからなのか。


手首を切ったときの、充葉の焦った顔はとても良かった。表情がオレの前では一徹であろうとする充葉の、砕けた顔。醜聞を取り払い、そこら辺に居る蝿のように、慌てふためく、充葉の表情がぐしゃりと歪む。涙が、溢れてきていて、ふふふ、綺麗だねぇと言ってあげるよ。
平手打ちされた。
表情が歪んでいる。ああ、生きている、呼吸する人間の顔だ。充葉の顔は綺麗にぐしゃりと歪み、死ぬなよ、と口を動かす。口角筋が動く。確かに。オレは充葉の言葉を徴する。
死ぬなって言うんだねぇ、充葉ぁん。

結局、オレは死ななかった。橈骨動脈が嫌なくらい、波打つ。充葉の顔を眺めていると、痛みは緩和し、麻痺される。オレは血まみれのまま充葉を抱きしめた。そのせいで、充葉の記憶は薄れてしまったらしく、手首の傷跡を業とらしく見せつけないと思いだしてくれないのだけど。寂しいねぇ。
ああ、そうか、思えば、あの時からなのかも知れない。
充葉であれば、性的興奮を満たしてくれるのではないかと、僅かながらの興奮を覚えたのは。














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