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 カーテンを開ける。
 空は鮮やかな朝焼けの色に染まり、ひんやり冷たい空気が包んでいる。
昨晩、早く寝たのが良かったのか、発熱は引き、身体の重さは残るが、学校へ行くという点に関して言えば、問題ない体調になっていた。目尻に篭る熱が引いていて良かったというのが、朝一番の感想だった。
 いくら母が休んでもいいと厚情を投げかけてくれていても、僕自身は休むということに抵抗心があったから。
 窓辺から、扉の前にまで脚を進ませる。母が用意してくれた新品の制服が綺麗に畳んだ状態でそこに置かれてあり、手に取ると、今、着ている衣服を脱ぎ取り、着替える。きゅっと胸元で結んだネクタイは、大丈夫だと、自分自身に呪いをかけるような気持ちになった。



「おはよう」

 朝食の香ばしい匂いが鼻腔を掠る。味噌汁に白米、目玉焼き、ほうれん草のおしたし、という朝のメニューが顔を揃えている。余談だけど、僕の家は兄弟で、母の家事を手伝うことが義務とされていて、ただ、決まった日付の当番制というわけではなく、手が空いた人から、手伝うという方式になっていた。僕も、委員会もなくジルに付き合わされることがない放課後だったら、帰宅して母の調理を手伝ったり、洗濯物を干したりする。
 だから、朝ごはんも、早く起きてきた人から手伝うことになっているのだけど、今日、手伝ったのは、次男の竜らしい。卵焼きが甘かったから。この家で、甘く味付けするのは竜だけだ。あの精悍な顔つきで砂糖を振りかけている姿を想像すると少し面白い。

「おはよう、兄さん。体調はもういいの?」
「うん、ありがとう、竜」

 はにかみながら卵焼きを食べている所を目撃されたから、だろう。機嫌が良い声色で竜は僕に声をかける。本当に、父さんに似て綺麗な顔つきだなぁと、自分の弟の顔を眺めていると、凸ピンを喰らわされて少し痛い。まだ小学生のくせに下手すると僕より大人っぽい空気を纏っているから、妙に子ども臭い所を発見するとそれだけで和む。
その後、母や帝、そして妹の藍と雑談を交えながら朝食を終えた(父は既に出社するため、家を出ていた)
 顔を洗い、歯磨きをすると、鞄を持って、家を出る。いつもの癖で自転車庫を覗くが、昨夜、置いてきたことを思い出し、家を出た。
 
 隣家に目を向けると、薔薇に囲まれた威圧感ある赴きが見える。
 ジル……――
 昨夜の映像が頭の中に舞い戻り、身体を震わす。気にしては負けだ、と首を横に振りながら、駅へと向かおうとしたが、隣家の窓辺から、一人の女性の姿が見えた。
 ジルの母親だ。
 眼帯をして、髪の毛の隙間から見える瞳に神経が冷え去る。ほっそりとしていて、食を身体に受け付けていないのが判る。骨が浮き出ていて生きる屍のようであった。着飾った人形のような服装。色地が黒なので背景に溶け込むが、異彩を放っている。
 恐ろしい。
 次第に僕の中で彼女の顔は鬼の面を被った化け物へと柔軟な変化を遂げる。明らかに、可笑しいことなのに、まるで、それが自然な光景として受容され、僕の中で解きほぐされる。
 ジルの一番。
 あのジルが世界で一番大切にしている人。
 けど、お前はジルの性的な対象にならなかったんだ、と心の中で悪態をつく。僕が今まで得てきた優越感の中で唯一勝てなかった存在に対して、僅かながらも勝てたような錯覚を起こす。勝てた、とか、勝てなかった、とか、そういう問題ではないのに。そもそも、あれだけ恐ろしかった昨夜の蛮行に浸る自分自身が信じられず、生唾を飲み込む。
 窓から視線を逸らし、歩き始める。逸らす直前に、僕が見慣れた美しい手が、ジルの母親の手を掴んだという現実は見なかったふりをして、蓋を締める。
 
 残飯に群がる蝿より始末が悪い。ジルへのこの気持ちも。ジルの母親へ抱くこの気持ちも。蝿は駆除すれば住むけれど、自分の心に纏いつく悩みは殺すことは出来ないのだから。







「おはよう」

 がらり。教室の扉を開ける。喧騒とした雰囲気の中で僕の友達が返事をする。席に腰掛けると、群がってきて、会話を始める。僕もそれに合わせるように、言葉を吐く。
昨日。
 ジルと交わった場所とは思えない。一応、後始末(飛び散った精液)とかは、ジルによって拭きとられていたみたいだけど。腰掛けることによって、熱が伝わってきたみたいだ。恥かしい。顔がそっと赤くなり、心配を孕んだ肉声で喋りかけられて、大丈夫だよ、と返事をする。携帯をちら見して、早くホームルームが始まらないかと祈っていたら、教室の扉を轟音と共に開けられる。こんな、音をたてる奴は一人しかいないので、誰が登校してきたかは一目瞭然で、騒がしかった教室が一瞬、静まり、爆発するように煩くなる。
 言動、一つ一つが、人の目を集める人間なんて、僕は一人しか知らない。

「おはよぉん、充葉ぁん」

 軽く手を上げ、ジルはこちらへと向かってくる。普段と、変わらない態度。友達であるはずの坂本を無視して、僕へ喋りかけるところとか。それが、僕の優越感を刺激して、満たしているところとか。蔑ろにされない自分という人間の存在意義が美しいこととか。変わらない。醜い僕の心も。ジルの何を考えているか判らない所も。

「おはよう、ジル」
「今朝、迎えに行ったのにもう充葉ぁいないんだもん。一人で来るの寂しかったんだからぁん」
「そう」
「そうじゃないよぉ。明日は待っていてねぇ」
「迎えに来る日と、来ない日がある奴を待っていたら遅刻するだろうが」
「あぁん、充葉のいけずぅ」

 顔をうつ伏せたままの僕にジルは近寄り、顎を掴む。キスされるのか、と一瞬、焦ったけど、ジルは動揺する僕の双眸を見て満足気に笑うと、口を優雅に開く。神様がお告げするみたいに、滑らかで絶対的な空気が漂う。

「昨日は良かったよぉ。あんなの初めてだったぁ。一番だったよぉ。また、しようねぇ充葉ぁ」

 一番、という言葉が僕に毒を与え、麻痺させる。なに言っているんだ、ふざけるのも好い加減にしろよ、二度とするわけないだろ、気持ち悪い。
 暴言が脳内で跋扈するのに、言葉に直らない。
 何も言えない僕のことを無言の了承として受け取ったのか、ジルはとても機嫌がよい顔を見せる。今まで見たどの顔よりも、人間らしい顔だと、僕は思った。








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