兄の幸福な顔を見ているとぐちゃぐちゃに潰して、脳味噌を噴出させてしまいたいという衝動に黒沼ハイネは襲われる。 最近、機嫌が良いのか、登下校では鼻歌を奏で、舌打ちをしても、聞こえないのか、無視しているのか、軽快にスキップをして先へ先へと進んでいってしまう。ただでさえ、鬱陶しい雨の日の帰路は、兄のにやけた顔を、皮膚から破いて脳味噌を傘で突く妄想をしながら、彼が進む先を見ていた。 黒沼ハイネは兄、黒沼スオウのことが嫌いだった。 嫌いで嫌いで仕方なかった。世界上に住まう初以外の人間がどうでも良い背景のように圧迫されたものだが、スオウだけは特殊で、殺しても殺し足りないくらいだった。 自分に持たないものをなんでも、持っているスオウ。自分が憧れるものを、横から掠め取っていくスオウ。 先日、初と話していたら、彼の口から両耳を封鎖してしまいたいほど衝撃を帯びた言葉を放たれた。 「スオウが幸せそうで俺は嬉しい。けど、ちょっと、もやもや。このもやもやってなんだろうな。ハイネ、知ってるか?」 純粋に。平等な愛を教え込まれた肉体から放たれた言葉にハイネは旋律を覚える。どこかで理解していた筈だ。 初がスオウのことを、好きでいるということくらい。初はまだ精神的に幼く、誰かに情熱を注げる程の愛というのを理解していないが。それでも、彼の中で、無自覚な気持ちが漂っているということを。 ゆっくりと、自分の前で、芽を出している。 憎たらしくて堪らない。 ハイネは初の言葉に答えることを拒絶した。にっこりと、初には直ぐに見破られてしまいそうな笑みで。 「さぁ、今日が曇っているからじゃない」 なんて台詞を軽やかに告げた。 初はこれ以上ハイネに尋ねても無駄だと悟ったのか、眉毛を寄せ、不機嫌そうな顔をしたあと、蝸牛を咥内に殻ごと食べた。人間とは違う色をした液体が溢れる。 どうして、スオウなのだろう。 よりによって。 他の誰でも良かったなんて、お気軽な台詞を吐くわけにはいかない。自分が良かったと心髄から手が伸びるくらい初をハイネは求めていた。 唯一、安心できるのは黒沼スオウという男がとても良い男で、弟の想い人を横から攫っていきはしないという点のみだった。 ハイネは暗澹を抱えながらも、スオウのそういう所だけは、律義に信じていた。少なくとも、自分が知っている黒沼スオウはそんな男ではない。だから、取られるという心配はしなくても良いが。初がスオウのことを好きだという時点でハイネにとって、許せることではなかった。 「スオウ」 雨の中、スオウの名前を呼ぶ。 スオウは名前に反応して、耳朶をぴくぴく動かした後、くるりと振り返った。 「なにハイネ?」 「スオウの好きな奴って小梅って女?」 弟からの言葉は珍しい。基本的に他者を拒絶する勢いで歩いてきたハイネは実の兄とて、基本的に会話へ入って来ない。話しかけられて無視されたことなど、幾度にも及ぶ。 だから、スオウはつい嬉しくなって、満面の笑みを持って、回答した。 「うん!」 「へぇ」 「あ、けど……う――ん、言ってもいいのかな?」 「なに、言ってよ、オニイチャン」 追求されることも珍しい。 それに、小梅が桜であり、桜がインターセックスだったという問題は家族で抱えるべき問題だ。桜は、自分がそうであると、伝える権利がないと思い込みがちなので、自分が話しておいてやって、損はないだろう。そうでないと、一生、桜は胸の中に重石を蓄えて生きていくことになる。 「小梅さんは、桜だったんだ」 さらりと、述べるスオウはその後も、桜がインターセックスであったことなどを含めて、ぺらぺら喋る。 「じゃあ、桜が好きなのか、スオウ」 「まぁね」 恥かしいから言わせないでよ、という声がスオウから放たれたがハイネの脳内にそんなもの、少しも入ってはこなかった。 ハイネは笑い転げてしまいたかった。 桜が好きなのは、自分であると言う自覚があった。 桜はどう足掻いても、自分のことを愛しているのだろう。煩わしくて面倒な愛でしかないが。それなのに! 眼前の兄は! 桜のことを好きだと言う! なんて上手く書かれた悲劇なのだろうか。シェイクスピアも真っ青だ! ハイネは等々、抑えきれなくなった笑い声を外に漏らした。 スオウはそんなハイネに気を配ることなく、純粋に弟の笑い声を堪能した。 好きな人が出来たのが面白いのかなぁ、という落ち込みは一人で見せたがそんなもの明日、翼に話してしまえば、笑い話になる。 ハイネは面白くて、面白くて、面白くて、苛立っていた。 スオウにも。桜にも。 初めに抱いた愉快さが消えうせれば、後に残るのはどうして自分だけ……――という、行き場のない気持ち。 色覚異常で、親から差別され、自分だけ自由を奪われた。桜は、同じようなものを隠しとおし、人並みの自由を手に入れた。 他と違うというのなら、自分と桜と何が違ったのは。 自分と、スオウとなにが違ったのか。 自分は他の兄弟といったい、なにが違って、ここまで、自由を制限された生活を強いられているのだろう。 世界が憎くなるほどの。 |