思考回路が停止すると言う感覚はこのようなものなのだろうか。趣味で読む漫画の中の主人公が、固まっている場面を頭の中で想像した。今の自分はきっとそんな感じだ。スオウはごくんと、唾を飲む。
眼前にいるのは、見間違える筈がない、長年見慣れた弟の姿。昨日の夜も会ってきた。食卓を囲み、母さんが食器の洗い物を面倒だという眼差しで食べ終わった状態から動かなかったので、桜と二人で食器を洗った。今日はアルバイトだと言って朝早くから出ていった。言われてみれば、自分と会う前は、汐の家に泊りに行くかアルバイトだと言って早く出て行くか、どちらかだったような気がしてくる。
どんな反応を取れば正解なのか判らなくてスオウは黙る。
気付かなかった自分を率直に恥かしいと感じた。長年共に暮らした弟が女装した姿になぜ兄である自分が気付いてやることが出来なかったのだろう。恐らく、困ったことがある筈だ。兄から誘われて。女装していることがバレなくて。


「桜、なんだね」
「うん」


乾いた喉からようやく出た言葉だった。



「そっか。桜だったんだ。あ、ごめんね。気付けなくて」


謝らなければいけないという意思が表に出てきて、口が軽く動く。知っている。翼なんかは「良くお前は簡単に謝られるなぁ」と言ってくるが、それはスオウが謝る楽を見に沁みて理解している人間だからである。
良く言えば、立派な大人という奴で、平穏を好む性格だ。悪く言えば、個人と向き合う事をしない。だからこそ、彼は告白され、理想と違いと勝手に癇癪を起こし喚かれた所で、謝罪をするという事に徹した。
喧嘩すると言うことは、それだけエネルギーを消費することだ。面倒じゃないか、そんなこと、と。ずっと思っていた。
けれど、目の前で毅然とした顔で背筋をぴんと伸ばして自分を見つめる桜に面倒だから、なんて理由は通用しない。スオウ自身、通用させようなどと、考え着かなかった。


「僕が悪いから。言わなかったっていう」
「そんなことないよ。けど、桜に女装の趣味があるなんて知らなかったよ」
「正式には……女装じゃないんだけどね」



どういう意味なのだろう。
スオウは首を傾げる。弟が女の格好をしているのだから、女装であることに間違いない。


「それって、どういう」


こと? と尋ねようとしたとき「お疲れ様でした――」という声が外部から聞こえてきた。観覧車が一周したのだ。列を作るほど人気の観覧車なので、当然、出なければならない、二人はぎこちない雰囲気のまま、外の風に当たる。


「スオウくん……ちょっと、こっちに来て」
「え?」


腕を引っ張っていかれる。
雑踏の中を上手く抜けて、誰も入って来ない様な公衆トイレの個室に桜はスオウを連れてきた。
今さっき弟だと分かったが、自分が好きになった人が目の前に居るというシチュエーションにスオウは興奮して、自分を律するように心の中で十字を切りアーメンと唱えた。彼はクリスチャンではない。


「え、ちょ、なにしてるの桜!」


トイレの便座の蓋に鞄を置き、隙間から脱いだブラジャーをその鞄の上に置く。シャツのボタンを脱ぎ始める桜を止める。弟なのだから止める必要もないが、生のブラジャーを久しぶりに見て(妹のマリアもブラジャーを利用しているが、さすがに三つ離れた妹の洗濯物としてのブラジャーで欲情するほどスオウは廃れていなかった)小梅の格好で、そんなことをすると、脳内に思春期特有の妄想が沸きだす。


「多分、口で言っても信じて貰えないと、思ったから」


切なそうな声を絞り出す様に桜は真っ赤になった顔をスオウに向け、目を瞑りながら、胸を見せる。ブラジャーを外した胸は思っていた以上に小ぶりであったが、男にはない筈の二つの小さなふくらみがそこには存在していた。


「これって」
「うん、僕……男、だけど、半分は女なんだ。そういう性別の人みたい。どっちにも入れなくて。はは。けど、陰茎、あ、ペニスがね生まれた時目立っていたから男として届け出を出されちゃったみたいで……お母さんたちも、知らない、と思うけど、ごめんね、いろいろ、突然過ぎるよね」



スオウは一瞬、胸に触った興奮を沈ませ、桜の話に耳を傾けた。
そう言って笑う桜の姿は今まで見てきたどんな人間の笑顔より切なかった。ほら、今だって、一人で立つことが精一杯なくせして、自分を保とうとしている。自分の弟が強い人間でないことをスオウはよく判っていた。
強いふりをするのが得意なだけだ。
本当に強い人間と言うのは多少の傲慢さを兼ね備えていて、意見を素直に言う事が出来る。例えるなら初のような。人間を上げることが出来るだろう。
桜はそうではない。必死に、堪える特訓をこの子はしてきたのだ。幼い頃から。女装のことと言い、今ばかりは自分の呑気さが憎たらしく思えてくる。



「桜、無理しなくていい」
「無理なんか、そんな」
「ごめんね、気付いてあげられなくて。ねぇ、泣いてもいいんだよ。桜」



泣いてもいいなんて、とても優しくて残酷な言葉。






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