夕暮れのバス停でしゃぼん球がふわふわ揺れている。七色の光が夕日に当てられる度に変化して、美しい。初は、今日の昼休みにハイネがコンビニで買って貰ったばかりのしゃぼん球を拭きながら満足そうにほほ笑んだ。今日も良い日だった。二学期になって桜と秋嶺と一緒のクラスで楽しい。 授業中は眠たいし、秋嶺と一緒に抜け出したいけど、桜が許してくれない。けど、自分達に注意しに来る桜を可愛いなぁって思う。いつか三人で一緒にサボることが出来れば良いなぁなんて思っているが、秋嶺に相談すれば「桜さんを巻き込むなよ」と既に巻き込んでいるのに見当違いな返事をよこすだろう。 それを論破する台詞を考えなくてはならないが、口で秋嶺に勝利したことが無いので、脳味噌を回転させる。初の口から出てくるのは、お間抜けさん、とかそんな幼稚な言葉ばかりだ。けれど、秋嶺との関係はそれで良いのだと初は納得して、しゃぼん玉を吹いた。 「あ、初じゃん」 「スオウ!」 「どうしたの一人で、ハイネは?」 「病院!」 定期健診の日らしい。ハイネは通うのを嫌がっていたが父親が車を運転して、母親が声をかければ、避けるわけにはいかない。先刻、初とは涙ながらに別れたばかりだ。 「ああ、もうそんな時期なんだ」 「うん、そうだぞ」 定期健診は一ヶ月に一度行われる。スオウはその時期が来る度に、もう一ヶ月経過したのか、とぼんやり思う程度だ。 「初はここで何してるの?」 「なにって、バス停でするのはバスを待つことに決まっているじゃないか」 指を指しながら次のバスの時刻を教える。 三十分ほど経過しなければバスはこない。オフィーリアにしては珍しいくらいバスの時間が空いているが、部活をする生徒はまだまだ残るし、帰宅組は既に帰ってしまっている時間なので、仕方ないことだろう。 電車を利用する生徒も多いが、どちらからでも帰れる組は共通の定期を持って、不定期にバスか電車かを変えるという、癖がある。 「隣いいかな?」 「どうぞ、どうぞ、さぁ、座れ!」 「はは、ありがとう」 スオウは初の横に腰掛ける。初はスオウが座ったのを確認するとしゃぼん玉をまた吹き始めた。 「うわぁ、綺麗だねぇ」 「だろう」 「どうしたのこれ」 「ハイネに買ってもらった!」 「へぇ、ハイネに」 意気揚々と答える初とは反対に、苦みを持った言葉をスオウは知らず知らずの間に落す。可笑しいな、こんな声久しぶりに聞いたぞ、と首を傾げながら、初はしゃぼん球をスオウに差し出した。 「お前も一緒にやる?」 「え、いいの?」 「特別にな!」 「ありがとう、初。なんだか、懐かしいなぁ」 初の唾液が付いたプラスチックにスオウの口が触れる。息をゆっくり吹きだし、表面がふわっと膨れ上がる。初がつくったしゃぼん球よりも大きな球がぷわぷわ浮いた。 「す、すごい、スオウ!」 「へへ、そうかなぁ?」 「もっと、もっと大きいの!」 煽てられて、スオウは大きなしゃぼん球を制作していく。夕日がしゃぼん球と交じり合い、大きなしゃぼん球を悪戯心で初が指先で割ると、破裂して、クスクスと笑った。 スオウは普段だったら苛立ちを感じるところであるが、この無垢で無邪気な時が止まった子どものような初に悪戯されるのは嫌いではなかった。スオウのことを勘違いしている人間であれば「お前はその程度で怒らねぇよ」と言われるだろうが、スオウだって苛立ちを抱くし、嫌悪感を抱く時は素直に抱くのだ。 今だって、初以外の人間が行えば、張り付いた笑顔の裏で、なにをするんだコイツ、空気読めよ、と脳内にぼんやりと残酷な言葉思い浮かべていただろう。 それなのに、初のする行為にはまったく苛立たない。不思議だなぁと、自分でも思う。まぁ、あの幼馴染組は大抵そうなのではないだろうかと思う。誰だって、初が可愛くて許してしまうんじゃないかなぁ。可愛くなくても、呆れてとか、うん、許してしまいそうだと、スオウは自分の中で勝手な結論をつくる。 「しゃぼん球ってスオウみたい」 「え、どうして?」 唐突な発言はいつものことだが、判らない比喩表現に心臓がどくんと鳴る。 「光にあたって、色を変えるだろう。お前もそうじゃないか。人によって、人間が変わる」 「え――そんなことないよぉ」 初のどこまでも澄んだ眼差しがスオウの双眸を捉える。初の眼球こそ、しゃぼん球のように輝いているじゃないか、なんてことをスオウはぼんやり思いながら見ていた。嘘をつくことを知らない、子どもの眸。 「我慢してるところ、人に合わせている所。本当は、無色なのにね」 「酷いなぁ、初」 「無色って素晴らしいことだぞ。何色にでも擬態出来るんだから」 「擬態……ね」 「おう! 擬態。いいなぁ、俺も擬態してみたい。お前って、そうやって、擬態するの得意。俺、いいと思う。もともと、何もない人間が擬態しているんなら、それは、ただ、ちっぽけな存在で、きっとその人間が生きている意味なんて、そいつの心を覗けばないようなものだけど。お前はあるよな。そうやって、我慢している所いい。好き」 無垢な子どもの吐く言葉っていうのはどうしてこうも、偶に、悪意の篭った人間が放つものよりも残酷性を秘めているのだろう、とスオウは初の話を聞きながら、自分の心が泣いているのを感じた。 実際、初はなにも思っていない。いや、思ってはいるが、口から出てきた言葉がすべて本心だ。初は我慢することを知らない人間なのだから。 しゃぼん球を見た、スオウみたいと思った、言った、という単純な流れ。先日、桜に似た台詞を告げたことも関係しているのだろう。その関連で、スオウに告げた言葉を思い出したのだ。 「好きとか、ありがとう」 「おう!」 「ねぇ、初の好きはどういう好きなの?」 どういう好きかと問われて初は首を傾げる。 愛されることしか知らなかった少年は、好きのあたたかな感情しか理解していなかったからである。 「あったかい、好き」 「ふぅん。そうなんだ。あったかい、んだ」 「おう。お前といるとあったかい。一番、ほかほか。あ、お父さんとお母さんは除くけどな!」 「そうなんだぁ。俺も初のこと、好きだよ」 「ふふ、ありがとう。ぷーくすくす」 「ぷーくすくすって」 嬉しいから笑ったという初は正直にスオウを見つめる。 スオウは初を見ていると、こういった、好きとかいう感情の正確なものを誰か教えてやる人間が必要ではないのだろうかと思う。一つ、好き、と言ってもこの世には色んな好きがあるのだから、勝手に完結してはいけない。 好きの数には、友愛だったり、恋愛だったり、性欲でしかなかったり、歪んでいたり、いろいろあるのだ。大まかな括りの中に、少年を投下していはいけないと、スオウは初を見つめる。 「どうした、スオウ?」 「なんでもないよ、ほら、バス着たから」 スオウの人差し指の先を見つめると、バスが臙脂色の夕日を背負って、信号を待っていた。排気ガスがまき散らされ、横断歩道を通行人の影が歩く。信号が点滅をはじめ、歩行者は焦り、バスは再び徐行してこちらに向かう。 業と錆びさせた塗装はレトロ臭さを出すという憎い演出で、スオウは夕暮れに染まるバスに乗り込む。後で、乗りこんできた、初の腕をぐいっと引っ張った。 無事、席に腰掛けると、窓の外からスオウはバス停を眺めた。 そこには、先ほどまで初が楽しそうに吹いていたハイネが購入したしゃぼん球の液が放置されていた。ぽつん、と。 あんなに楽しそうに吹いていたのに、すでに飽きてしまったのだろうか。初 は鞄の中から昆虫図鑑を出して眺めている。彼の鞄の中には昆虫図鑑と、携帯、お菓子、財布しか入っていなかった。 スオウはくすりと無意識に笑った。 |