飯沼初は愛されて育った子だった。
初は五人兄弟の末っ子として生まれた。今の時代、五人も兄弟がいることは珍しいが、両親の周りも兄弟を大勢持っている人間が多かったので重視したことはない。
一番上の兄は穂積といい、誰からも好かれる才能を持っていて頭も良かった。顔の造形は一番、父に似ているが、父より幾分も狡賢い性格をしていた。
兄の下に、一番目の姉がいる。名前を貴子といい、正義感に溢れる少女だった。上の兄に負けず劣らず才能の塊のような人間だが、上の兄のような狡賢さはもっていない。自分の信念を貫く立派な女性だった。
二番目の兄は翼といって、本当は父親譲りの綺麗な金髪を真っ赤に染めていた。顔は父よりだが、母親の遺伝子を確かに感じさせた。なんでもできる兄に比べ、弟として劣っている部分はあったが、捻くれるわけもなく、父と同じように陸上に励む青年だった。
三番目の兄は汐という。汐と翼は双子であったが、二人はまったく似ていない。汐は母を美少女にしたような容姿であった。汐は兄であるが、女の子になりたいらしく、昔から女の子の恰好しかしなかった。だから、初も兄としてみたことはなく、汐のことはずっと姉として慕っていた。初はそんな、五人兄弟の末っ子だ。両親の愛を富めどなく貰い育ってきた。
初の雰囲気は母に似ていて、双眸は父にそっくりだった。世界一の美青年だと母が豪語する父に似た双眸は誰の心をも透き通してしまうかと錯覚させるくらい、美しかった。眼鏡をかけているため、レンズに拒まれてしまう時があるが、森林のような深い緑の双眸は見るものを魅了させる力を持っていた。雰囲気がそれに加算される。母親譲りのどこか、幻想的な雰囲気は、この世と存在を隔てている。両親二人の似ている所を貰ったというのも、良かったのだろう。末っ子という武器が合わさって、初は飯沼家のアイドル的存在だった。そのため、家族から甘やかされて育ってきた。


「お母さん、お菓子」
「もう、これだけだよ」
「お父さん、お菓子」
「しょうがないなぁ、初は。はい、お父さんからのお菓子だよ」
「こら、もう上げないでって言ったでしょう」
「けど、ね、お願い。お母さん、今日、初にあげるの最後だから」
「もう!」


なんて科白は良く行き交う。初は我慢することを知らない子どもだった。欲しいものはいつだって手に入った。時には貪欲に。自分が欲しいものが手に入らないと、喚いて見せた。得に初は虫が狂ったように好きだった。幼い頃、母に見せられた図鑑のせいだ。図鑑を見ると、様々な虫が載っていた。彼のお気に入りは、紋白蝶で、家の裏庭でよく虫を捕まえて、遊んでいた。
そんな彼が初めて虫を食べたのは幼稚園の時だった。手に掴んでみると、あまりにも綺麗で、可愛くて、自分の中に生きた虫がいると、心音が鳴り響いた。すると、知らず、知らずの間に虫を咥内へと運んでいた。虫をもぐもぐと食べる。生きている虫は初の中で反抗するが容赦なく止めを刺す。


「美味しかった」


涎を垂らして貪欲な初が、虫を食べ続けたのは言うまでもない。
初にとって虫は好奇心を擽るもので、他の事の知識の遅れを払拭するくらい、熱心に虫の知識だけを膨大に溜めこんでいった。


「桜――」


初には、友達がいた。黒沼桜と黒沼秋嶺という。桜と秋嶺はハトコにあたる親戚だったが、どちらの親とも初の両親と友達で、幼い頃から彼らは一緒に遊んでいた。特に桜と遊ぶ機会が増えたのは小学校五年生のときで、初はたいそう、ご満悦だった。


「初くん。どうしたの?」
「学校」
「行かなきゃ駄目だよ」
「だよな」
「そうだよ」


桜はにっこりと柔和に笑って初の背中を押す。その後ろで、秋嶺が「空は憂鬱が多い」とわけがわからない科白を言っているのを、桜が聞き取ると、秋嶺のことも説得して、学校に通った。初は、秋嶺と桜がいる学校が大好きだった。二人は自分をわかってくれるし、桜に言われれば面倒な授業とやらも受けてやろうという気にならなくもない。二人は他と時間の流れが違う自分の面倒も見てくれる。いや、秋嶺も桜に迷惑をかけているので、正確には桜に面倒を見てもらっている状態なのだが。


「二人、一緒なの楽しい」
「一緒じゃなかったら? 俺は屋上に行くね」


秋嶺がさらりと述べる。


「俺はグランドで虫を探す」


初は悪びれもなく、告げる。


「僕は普通に授業を受けるけど。二人も受けなきゃ駄目だよ」
「受けないと嫌いになるか?」
「嫌いにはならないけど、受けてもらえると僕は嬉しいかな」
「そ、そうか! 桜が喜ぶなら俺は受けるぞ!」
「俺も」
「秋嶺、恥ずかしそうに言うな」
「まぁね」



なんて軽口を三人は良くかわした。中学生になり、クラス替えが行われるまで。初と秋嶺は桜がいるときにだけ、気紛れに授業を受けた。
初が小学五年生になって変わったことは他にもある。
桜の兄である黒沼ハイネがやたら初に声をかけるようになったのである。初は初めからハイネのことが苦手であった。甘やかされて世界の美しい所しか覗いてこなかった初にとって、ハイネは真っ黒な空洞を心の中に抱えていたから、見ていると、怖くて、可哀想で、声をかけたくなかった。
けれど、自分を熱心に甘やかしてくれるハイネのことが、徐々に怖くなくなっていった。初はハイネを見ながらこいつは不器用な奴なのだと気付いた。不器用で、一直線で、多分、他より自分自身というのを持て余している人間なのだろうと思った。ハイネはずっと初の横にいたので感じた。寂しい、寂しいと、言っていることに。殺したい、殺したい、と世界を恨んでいることに。お前の視界の中に一体、何が見えるんだと、初は静かにハイネを眺めた。
それに、こいつは勘違いしている。俺はそこまで美しくない。俺は俺。お前がそう言うのなら、良いけど。お前は簡単に自分がされて嫌なことをするな、と言ってやりたかったが言わなかった。
だって、それは、無自覚だし、無自覚というのは覚悟がないという意味だ。覚悟がない人間はあまり好きじゃない。
好きじゃないけど、不器用な所を、初はひっそりと可愛いなぁっという感じには思っていた。けど、初はハイネ以上に不器用な所を可愛いなぁと思っている人間がいた。


黒沼スオウ。桜とハイネの兄にあたる人物だ。


スオウは不器用で、優しくて、けど、自分を律することが出来る人間だった。初にとって。スオウは幼い頃から初によく話しかけてきてくれた。初の兄である翼とスオウが親友であるということが関係しているのだが、スオウは頻繁に飯沼家に足を運んだ。初はそこで、スオウの背中にべったりだった。小さな初がよちよち歩く。廊下に転ぶ。スオウがいたいの、いたいの、飛んでいけ――と合図をして、初は笑う。
他にも、あれは初が中学二年生の時だった。初が一人で電車の切符を買っておじいちゃんの家まで遊びに行こうと決意した時のことだ。初は切符なんてものがなくても改札を潜れると勘違いしていたので、当然のことながら強引に改札を潜ろうとして駅員に怒られた。幼い容姿をしているせいで小学生に見られた初は駅員に切符の買い方を教わっていたのだが、その後ろにスオウの姿が見えたため、初は駅員の話を聞かずにスオウの方へ飛んで行った。



「スオウスオウ!」
「え、初じゃない。どうしたの?」
「切符」
「切符がどうしたの?」
「お金」
「あ、お金がないの?」
「ある!」
「いや、あるんだったら、自分で出そうよ。もしかして買い方判らないの?」
「不明」


しょうがないなぁと言いながらスオウは財布からお金を取り出して、懇切丁寧に切符の買い方を教えてくれた。
改札を潜ると初とスオウが向かう先はばらばらだと判ったが初はスオウからひっついて離れなかった。結局、スオウは祖父の家に一緒に行ってくれたのだ。
優しいスオウ。
優しいけど、自分があるスオウ。
傍から見れば、この双子はハイネの方が凶悪で近寄りがたいと思われがちだが違う。本当に強いのはスオウの方。風に揺れる草のような強さだと初は考えていた。いつしか、初はそんな、スオウの強さを好きになった。母親に告げると、恋だと言われたので、ああ、なるほど、恋なのか、と理解した。
人を好きになるということは楽しいことだ。それは初の中で恋でも変わらなかった。このことを、楽しいと思える事こそ、初が愛されて育ってきた証拠であろう。自分の中での、感情がはっきりしていて、あたたかい感情を信じることが出来る。
だから、初には判らなかった。
誰かを愛することによって苦しむ人間の気持ちが。桜も、ハイネも、恋をしている人間はいつだって結ばれるまで辛そうだ。
好きというのはあたたかいだけでは駄目なのだろうか。自分が虫を好きなように。スオウを好きなように。


初はまだ知らない。
誰かを欲しいと執着する時に襲いくる衝動が。恋がなぜ苦しいものになるのか。好きという気持ちが嫌いという気持ちに書き換わる瞬間を。
愛され過ぎた子どもは平等な愛しか知らなかった。






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -