黒沼ハイネは特別にならざるおえない人間だった。
黒沼ハイネは双子として黒沼家の次男として生まれた。出てくるのが先だったとかいう、下らない世界の中で、弟となった。兄の名前は黒沼スオウという。自分にないものをたくさん持っている人間だった。兄が自分に持っていないものを、いかに多く抱えているかというと、まず、一つ目に健全な身体が挙げられる。
黒沼ハイネは色覚異常だった。モノクロの世界。夕闇に隠れてしまうと、すべて見えなくなってしまう世の中。そのため、両親から拘束された生活を強いられた。心配されているということは理解出来るがハイネにとって、自分が他と違うことを強調され言われ続けているようで嫌だった。他の子と同じように、五体満足で生まれてきた兄のスオウと同じように、育てて欲しいと、心の隅っこでずっと願っていたが、叶う事は遂になかった。
幼稚園のころは、幼稚園に行くとハイネだけが特別指導の先生を宛がわれる。思考に問題はないので、酷い自閉症を持っている子と一緒に見られていたが、スオウはそんなハイネの前で自由に振る舞う。
小学校に上がるとそれは、露骨に表れた。


「遊びに行ってくる!」
「わかったよ。スオウくん。夕飯までには戻ってきてね」
「うん! 今日は翼とサッカーしてくる! あ、ハイネはくる?」
「いいよ。俺は」
「そうだよ、ハイネくんはいいよ。お母さんか桜ちゃんと遊んでなさい。どうせスオウくんは夕方になっても帰ってこないんだから、危ないよ。もし、行くなら桜ちゃんと一緒に行ってきなさい。一人は危ないから」



時間制限のある帰宅時間。友達と遊ぶのは止めた。スオウは日が暮れるまで遊んでいても怒られないのに、自分だけが怒られ、抱き締められた。
次第に家にいるようになった自分の横を通り過ぎて、スオウは駆け出していった。悪意のない痛みがハイネの心に全力で突き刺さった。もっと、自分を兄と同じように扱って欲しかった。スオウはなんでも持っていた。健全な身体、友達、両親からの程よい愛情。よりにもよってハイネが欲しくてたまらないものを、全部、持っていたのだ。軽々と。
募るのは、苛立ち。可哀想だと言われることを尤も嫌うのに、甘んじなければ一人で帰宅できない身体とか。放っておいて欲しい! 叫びたいが、叫ぶことなど出来る筈もなく、ハイネの心に小さく色んな嫌なものが蓄積されていった。
苛立ち、妬み、絶望。それは、ハイネの視界のようにハイネの心もモノクロに染めていった。
ハイネが世界に抱くのは、恨みだった。
息づく人間の鼓動とか。温度とか、声とか、そういうものが大嫌いで、いつしか、人殺しをしてみたいとまで考えるようになっていた。
護身用のナイフを腰に隠し、戦闘態勢を整える。いつでも、人間を殺せるように。いつでも、自分をこんな風にしてしまった世界に復讐が出来るように。

一時期まではまだ良かった。
ハイネには弟がいた。名前を黒沼桜という。兄のスオウとは違い、ハイネと一緒に遊ぶことを選択した弟だった。一緒にいることが、いつしか当たり前になった。桜の面倒を見ているときの自分をハイネは決して嫌いではなかった。僅かな優越感とか、自分のことを慕う好意だけの桜とか。
たまに、付き合わせて悪いなぁ、と思うが、桜にとって自分自身がいかに大きな存在か少しだけ自覚していた。少しだけというのはずるい言い方かも知れないが。少しだけだった。束縛されることもない、愛情というのはハイネの中で大きなものだった。そうやって、二人は上手に回っていた。ずっと、一緒に遊んでいた。あの日まで。
ある日、突然、桜が妙なことを言い出した。
桜はハイネが色覚異常ということを十分に知っていたので、色に関することを言ってこなかったが、その日は、違った。股から血が流れているのだという。冗談ではない! とハイネは憤怒した。
どこかで、この弟は自分を差別しないだろう、と決めつけていた。ずっと一緒にいたのだから。桜の股から流れるものが血だとは分からない。今まで一緒に砂場で泥遊びをしていたのだ。大方、その泥が太腿に付着したのだろう。桜にはそれが茶色という色だと判る筈なのに。夕暮れに差し掛かったハイネの視界には、判らない。


「冗談いうなよ!」


お前まで俺を馬鹿にするのか!
怒鳴り散らす。小学生の頭で思いつく限りの罵詈讒謗を浴びせた。酷い言葉をぶつけた自覚はあったが、自分を止める術をハイネは知らなかった。目の前にいた弟は泣きながら、ハイネの前から立ち去った。
立ち去る姿を見ながら、暫くの間、清々したという気持ちになった。だが、眼前は真っ暗。街灯の明りが見える空間だけが、提灯のように輝いている。ハイネは暗闇の中で取り残されてしまった。
暗闇で佇んでいると、後悔が湧き出す。あそこまで言う必要がなかった。一人では帰れない惨めさ。





「ハイネくん!」
「あ、誰?」

声をかけられる。
聞き覚えのある声だが、茫然と後悔の中にいたので、気付かなかった。


「え、あ、と」
「誰? ごめんだけど、なにも見えないんだ。物体が動いているみたいな」


慌てる動作をするその人物に声をかける。


「初だよ」


初、というのは、先ほど喧嘩した弟の同級生の幼馴染である飯沼初のことだ。ハイネ自身と直接的に関わったことは少ないが、虫が好きで、よく、自分と幼馴染であり、初の兄である翼(仲が良いのはスオウの方だが)が困っていたことを脳裏で思い出す。
聞き覚えのある声だった理由に察しがつき、ハイネは首肯する。


「初? ああ、翼のところの」
「うん。こっち」


握られた手はあたたかかった。今まで興味を持つことのなかった飯沼初という人間によって、自分の心がはじめて救われたような感覚に陥る。初は手を引っ張っている最中、一言も喋らなかったが、自分の歩幅に合わせて歩いた。まるで、今までずっと一緒にいたみたいだった。あたたかさ。押し付けられるわけではなく、選択する自由がある、あたたかさ。黒沼ハイネという人間が求めていた光だった。
初はお礼をいう訳でもなく、家に到着すると知らない間に過ぎ去っていった。両親から抱擁され、先に帰宅した筈の桜は𠮟咤をされた。俺も怒られたかったよ、なんて、桜を淀んだ双眸で見つめたが、その日から、桜との思い出は小さく消えていった。







「初たん」


ハイネはその日を境に初の所に通うようになった。初は不思議な少年で、いつも虫ばかり見ていた。森の中に佇む初を見ていると、自分には見えない緑が浮き彫りになって、見えてくるようだった。
初の周りにある空気はいつだって平等で、清々しかった。誰に媚を売るわけでもなく、初はいつだって、自分の世界の中にいた。いつだって、初は全力で自分を表現していた。
例えば、ハイネが来る前、公園で近所の悪餓鬼と喧嘩をしていたことがあった。虫をその少年は嬲りながら馬鹿にしたという。初はそれに激怒した。虫はこんなに美しいのに、その美しさを判らない人間など、失礼過ぎる! という意思の表れだった。殺すなら食せ! 敬え! というのが初の主張だった。初は、宣言通り、少年が殺した虫を泣きながら食べていた。



「美味しいの、初たん」
「美味い。美味いけど、こんなのは、悲しい」
「そうだね」
「偶に思う。どうして、誰も、自分がこうなるって考えないんだろうかって。俺はいつでも、虫に殺される覚悟はある。俺は殺したから。勿論、死にたいっていうわけじゃない。誰でも、今、下位に見ている生物と立場が逆転するときがある。けど、皆はそれを知らない。知らないから、安堵して、ぼろぼろにする」
「初たんは、知っているの」
「知っている。それ、常識」
「俺の目がこんなのも、いつか、変わるかもしれない?」
「かもな。お前を憐れんでいる奴とお前の立場が逆転するのはそう不思議なことじゃない。俺、思う」




初は言い放った。ハイネが突然泣き出すので、お前も虫を食べたかったのか? と勘違いして、お気に入りの蝶々を渡してきた。蝶々はとても綺麗で、ハイネは持って帰って標本にすると約束して、その場を去った。



初はどこまでも、真っ直ぐで、手を繋いでくれたあの日から、自分の事を特別視しない、唯一の人間になった。特別にならざるおえなかった、ハイネを初だけが対等に見ていた。





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