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 数値で測る世界なんて退屈なものだよねぇ。
 最近のオレは幸せだった。夢を見ている気分。まるで麻薬の中に浸かっているみたいで、充葉の心音が確実にオレの耳朶を通って、充葉とオレは一緒になった。充葉はいつだってオレという存在の傍にあった。なんでだろう、不思議だねぇ。あははははは。充葉はどうしてオレと一緒にいるんだろうか。あたりまえ、すぎて、オレにはわからないことだらけだ。


 その日は、母さんに為に鍵を持って行ってあげた。鍵は部屋からの脱出を測るために必要なもので、鍵の形をした紙幣を差し出したけど、母さんは不服そうに薙ぎ払い、地面に絵を描き始めた。オレが大学という窮屈な場所から(よく考えれば大学が窮屈なのは充葉が存在しないからだっていうことにオレはつい最近、気付くことができた)強引に奉納された道具を使いながら。母さんは地面に絵を描いた。母さんは赤の絵の具を筆に着けて、ぐんぐんと伸ばして行く。母さんの手首から血が出ているようだった。母さんは赤の絵の具で父親を描いた。日本人とは似てもつかない、父親の堀が深い特徴を良く捉えている。オレは尋ねる。
 

「父さん」
「そうだぞ」
「珍しいね」
「別に、そんなこともないかもな」


 普段、緻密な模様ばかりを描く母さんにはとても珍しいのだが、認めようとしない。母さんは父親を描いて、顔に大きくバツマークを付けて、絵の具を放り出して泣きだした。
 黒い手袋に涙が溜まって、溜まって、溜まって、溜まって、仕方ない。オレはハンカチを差し出して機嫌を取ろうと測ったが、母さんはオレの手首を薙ぎ払った。仕方ない。オレという人間は不要な存在でしかないのだから。オレの存在意義というのは所詮、その程度のものなのだ。内臓の色はどうして穢れているのかと尋ねられて、醜いのは仕方ない。頑愚な質問である。

 オレはにっこりと、与えられた贖罪を受けるように、母さんが描く、姿を大人しく眺めた。
 母さんは地面に父親ではない人間の顔を素描していく。赤い線で適当に描かれた、父親の絵とは違い、母さんは丁寧に如実な表現を用いて、本当にその人物がそこにいるように描いていく。母さんがこのような描き方をするのは初めて見た。例えば、フェルメール、ルノアール、ダウィンチといった巨匠と言われる人物が描く、油絵に酷く似ていた。
 肌の質感、髪の毛の美しさ、唇、手、脚、身体、瞳孔の動きまでも再現して、動いていない絵である筈なのに、母さんは、その人物を丁寧に描いていく。描かれたのは、今のオレと近い年齢の青年であった。驚愕するのは艶やかであること。



「誰、それ」
「拓也」
「拓也って誰」
「拓也は拓也だぞ。知れないのか」
「判らないなぁ」
「判らないのか、そうか」



 判らないのは悲しいことだというように。母さんは呟く。暫く足りない頭で考えた後、母さんはぽつりと一言漏らす。




「私の世界」



 母さんは呟いたあと、自身が描いた絵に身体を委ねた。乾燥していない絵の具と母さんの身体がぐちゃぐちゃになる。オレはずっとそれを見ていた。さいきん、かあさんといるとみつばのことをやけにおもいだすんだけど、それはどうしてだろうね、みつば。
結末は、父親が帰宅して、オレの頬っぺたを引っ叩く素振りを見せて、手を収めた。母さんを地面から引き剥がし、風呂場まで連れて行く。
 嫌がる母さんの悲鳴が木霊して、オレは大人しく、母さんの世界を雑巾で消していった。惨めという言葉が似合う光景だ。舌で舐めると、苦くて、毒で脳味噌が溶けてしまいそうだった。
 オレは家を出た。
 バイクに乗り、オレは道路を掛けて行った。オレの耳朶が空気に切り裂かれ、残骸になる。充葉のアパートは襤褸くて、死んでしまいそうだった。充葉のアパートの扉を回す。がちゃりという音がして、オレは侵入する。


「充葉ぁん」


 どうしたの。
 そろそろ、迎えに来ても可笑しくない、時間だよ。
 あれれ。
 おかしいなぁ。

 おかしいなぁ。荷物がないや。空洞だ。白い、白い、白亜の世界。充葉の残り香だけがある世界。充葉がいない。



「ああ、そうか、捨てられたのか、オレ」


 どうでも良くなったんだね。オレのことなんか。
 例えば、一億三千万年前から充葉がオレと一緒にいることとか、充葉が、オレの傍にいて、笑ったり、慰められたりすることとか。充葉がそうやって、オレにくれたものとか。オレが充葉にあげていたものとか。充葉だけは、オレの傍から、いなくならないと。
 あの時、手首を切ったオレに向かい、泣きながら怒ってくれた充葉だけは、他の雌豚とも、背景とも、母さんとも、父親とも、妹弟とも、違い、充葉だけは、オレのことを捨てないとどことなく。
 ほんとうに、どことなくだけど、感じていたんだけど。充葉だけは、オレのことをオレとして見てくれているなんて、淡い期待を、抱いていたり、したけれども。したけれども。オレは、充葉だけは、オレのことを、オレって。




「違ったんだ。捨てたんだねぇ、充葉」


 まぁ、そんなものか。
 




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