「祐樹は幸せであればあるほど不安になるね」


養父である和人から吐き出された言葉だった。
日曜日の昼下がり。珍しく二人で出掛けていた。たまたま恋人である坂本 透が友人であるキヨと出掛けるというから、祐樹は街中を彷徨いていた。
新しい服でも買おうかとアンティークな雰囲気が似合う、床を突き進み、水槽の横を通り服屋の扉を押した瞬間、和人とすれ違った。もう一人の養父ではなく和人がこの服屋にいることに違和感が襲いかかったが、ラッピングされた可愛らしい袋を片手に持ち恥ずかしそうに隠そうとする和人の顔に理由を察し微笑んだ。
二人はそれからご飯を一緒に食べに行った。袋は案の定、もう一人の養父に渡すプレゼントらしい。「卒業式が無事に終わったから。ほら、柴田くん担任だったでしょう。頑張ったから褒めて欲しいって言ってきて」まったくいつまで経っても子どもなんだから、と付け加え和人は愛しいという文字が描かれた表情を漏らした。
プレゼントと言えば自分も一ヶ月ほどまえに恋人である透にプレゼントを贈ったばかりだった。四年に一度しかない恋人の誕生日はこれまで彼が味わったことがない幸せを与えたくて、自分なりに努力したつもりだ。
そのことを事細かに和人へ喋った。まるで幼い頃に戻ったようだ。小学生のころ、どうしたら養父たちが喜ぶか真剣に考えたものだ。自慢の子どもでありたかった。彼らの恥にだけはなりたくなかった。君を引き取って良かったと言われたかった。
地獄の日々から救いだしてくれた養父たちは、奇跡に近い存在だった。
子どもという視野の狭い空間で、親は絶対的な存在だ。神様に値する人物。
自分をこの世に産み落とした肉親は自分から搾取することしかしない人間だった。老朽化した電車が、かーんかーん、とアパートの横を通る。
響く。
じっくりと頭の中枢に。骨は折れ曲がり、内蔵は腫れ上がって、霞んだ視界が小さな窓辺から差し込む太陽を求めた。充満するのはアルコールの鼻につく臭いと、僅かな血の臭い。自分の身体が腐敗していくような感覚が脳内で警報を鳴らしていた。差し伸べられたのは和人の男にしては小さな、軋んだ手のひらだ。皺だらけで、土いじりをしたみたいに汚れて見えたけれど、和人の手はあたたかかった。抱き締められた身体はもっとあたたかで、初めて人の温度を知った。


「祐樹」
「和人…………」
「何を悩んでいるの」


普段は鈍感な癖に妙なところで鋭い和人が切り込んできた。飲んでいた珈琲から手を離し、見つめられれば昔から嘘はつけない。和人に漏らしていく。言いたくなかった筈の言葉が山のように溢れてきた。
自分の不安が。
大人になったと思い込んでいても、養父たちの前ではいつも祐樹は子どもに戻ってしまう。


「透とずっと一緒にいたいんだ。けど、和人のいう通り、不安でたまらなくなる。抱き締めている温度が消えてしまうように。俺達の間にあるものが普遍的でないという証拠が散りばめられているみたいで」


僅かなことで消えていくものばかりだ。
祐樹にとって透との幸せは雪のようだ。手のひらで抱き締めて裸になって傍にいるのに、手のひらを開くと溶けている。不安を覆い隠すように楽しいイベントを盛り込む。誕生日の出来事だったり、遊園地に出向いたり、家で丸二日間離れることなく一緒にいたり。苦しくなると曖昧にして話を反らす。誤魔化して解決することなどないと知りながらも。胡散臭い、祐樹自身が嫌いな笑顔を張り付けて笑う。



「楽しいのに、言葉や行動一つで不安になる。消えてしまう」



和人はわが子が振り回されている若々しい現実が可愛くて仕方がなかったが、冗談で済まして良い会話でないことも知っていた。自分には既にない悩みだ。相手のことで不安になったり。行動一つ一つにいちいち不安になったり。そういう衝動ともいえる感情は大人になるにつれ萎んでいった。腰が座ったように中々、揺れることはない。
けれど、確かに自分がこれくらいの年頃のときは不安になってしょうがなかった。大切であればあるほど、振り回されるのだ。時には目頭が熱くなるほどに。
結局、そういう時は相手の気持ちを考えられなかったり、自分勝手になるものだ。
自分中心だからすぐに不安になって、他者を蔑ろにする。だが、それで良いのだ。そうやって真剣に衝突しなければ、解らないものだって、山のようにある。
大切であるなら、尚更。けれど、祐樹はきっと、そんな自分勝手な気持ちを許せない人間なのだろう。縛り付けて。がんじがらめにして。自分自身に苛立つのだ。
祐樹が自分自身に許す範囲は小さくて、両手で囲めるほどだ。それが悲しくなるときが稀に和人はある。
もっと大きなものを自分は与えてきたつもりなのだが。虐げられてきた過去が祐樹を縛り付けるのだ。祐樹のせいではない。彼が妙なところで自分自身を責めて、許せなくなるのも。抑制する癖も。すべては彼の肉親が押し付けたものだ。
許せなかった。
和人は祐樹の両親を一緒許すつもりはなかった。他のどの出来事をゆるやかに受け止めてきたが。祐樹が許そうとも。自分だけは祐樹には語らず憎み続けようと決めていた。
あんなに小さくて可愛らしい祐樹の身体を放り投げて痛め付けたのだから。運が悪かったとかそんなもので許してしまえる問題ではないと考えていた。祐樹は本来もっと可愛がられて良い存在なのだ。代わりに自分が与えてきたつもりだったが。伝えきれないものがある。嫌われないようにと、遠慮する癖があったから。だからこそ、今、伝えたかったのだろう。


「言ってごらん、祐樹」
「和人……」
「素直に君の気持ちを。ぶつけてごらん」
「けど、それじゃあ」
「それを遠慮していたら、君たちはずっとそのままだよ。ねぇ、祐樹。もっと素直におなりなさい。君はそうしても良いんだ」
「良くないよ。嫌われる」
「嫌われない。不安になるのは、薄皮を一枚挟んだ関係だからだよ。君はずっと透くんに嫌なところを見せないよう努力していただろう」


祐樹は和人の言葉に酷く驚いたようだった。もっていたグラスをかたりと動かした。



「昔からそうだった。僕等にも良い子でいようと必死だった。一つしか求めていないようにね。僕はさ、祐樹。君はもっと、悪い子になっても良いと思う。馬鹿って呼ばれるくらい必死になって汚いとか酷いって罵られるくらい」
「だめ、だ。それだけは」
「嫌われる? 恥になる? 違うよね。僕等は君を嫌いにもならない。恥にも思わない。大切な子どもなんだから。完璧でいようとする君も、失敗ばかりする君も。僕等は愛しているよ」



僕等と言われて祐樹は手のひらを両手で覆ってしまった。久しぶりに涙腺が崩壊する音を聞いたからだ。和人はなにも言わずに祐樹の髪の毛を撫でた。
外でなければ抱き締めてやったが、今、抱き締めるのは、祐樹のプライドが許さないだろう。和人は腕を引っ込める。



「和人はいつから気付いてたの」
「ずっとだよ。ごめんね、言ってあげられなくて」
「うんうん、良いんだ。俺が、そう望んだから。言い出せなかったんでしょう」
「僕の勝手な判断だよ。誰のせいでもない」
「かず、ひと……俺は恐い。透を押し潰してしまいそうで。もともと、無理を言って付き合いだしたのは俺だから」




ぽつり、と祐樹は語り出した。押し倒せば消えてしまいそうな、透という幸せの名残を遠目に見ながら。
告白したのは自分からだ。間違いない。転校してきた透の腕を引っ張って、好意でがんじがらめにして、幸せという牢屋に閉じ込めた。同じところまで、引き釣り出したのか、引き釣り下ろしたのか、どちらかは定かではない。



「透に俺をぶつけて、俺を押し付けたら、潰れて、透が飛んでいきそうで」



海月のようだ。透明で、流されていく。
自分が透に抱く愛情は今の透が受け止めるにはあまりにも重たいものではないかと危惧する。表面上だけしか見ていない、透にとって。べつにそれは透が悪いとかいうわけじゃない。和人が言った通り、自分が良いところしか見せないよう努めてきたからだ。バランスよく。人間味という弱さや強情さ、快楽を残しながら。いつだって、そうやって計算しながら人に好かれる努力を惜しまなかった。そんな自分を好きになってくれたのだから、醜い部分を晒して、嫌われてしまったらという不安は残る。和人は嫌わないでいてくれる、といったが。果たして、透はそうなのだろうか。和人の言葉には重みがある。それは、自分を十年以上愛してくれたというものだ。疑いようのない。乾涸びていた手が福与かになっていったあの光景を、熱を一生忘れることないだろう。和人と親父はじっくりと辛抱強く自分を愛してくれた。二人の養父たちが自分にくれた愛を今更、疑うことなどしない。だからこそ、和人の言葉はすんなりと胸の中に入ってきて、簡単に安堵を与える。透はこれとは、別のようだ。透も、愛してはくれているだろう。だが、それが,自分が押し付けた結果であるという事実は拭えない。今以上に素の野獣のような自分を見せて、彼がそれを受け止めてくれる自信がまるでなかった。



「俺の愛は、重いんだ。和人――厄介なほどにね」


恰好つけながら放つと和人はくすりと、口に手を当てて笑った。



「馬鹿だなぁ、裕樹」


他者を馬鹿にする笑いではない、あたたかい、笑みだ。



「愛というのは重くなければ意味がないんだよ。逆に、重さを知って初めて、愛になるんだ。重さ、というのは、他者を知るということだ。他者を知るということはね、それだけ、傷つくということなんだよ。自分以外の人間と関わるんだから当たり前のことだけどね。素顔で語り合って、がむしゃらに足掻いて、触れあって、傷ついて、その先にようやく愛を知ることができるんだ。軽い、というのは、愛ではなく、恋なんだよ」
「抽象的、だよ、和人。俺には愛と恋の違いなんて」
「判るよ。大丈夫。透くんが君にくれるのも、君が透くんに与えてきたものも。それは、まだ、愛ではないかもしれない。けど、恋では確かにあるんだ。誰かのことが好きっていう、とっても大事な気持ちだよ」


和人は伝票を手に取り、立ち上がる。


「傷つくことを恐れないで。裕樹。全力でぶつかっておいで」
「けど」
「現状維持ではなにも解決しないって知っているでしょう。それは、面倒であるかも知れないけど、大切なものなんだ。それに、もし、駄目だったら」
「駄目だったら?」
「君を愛している僕たちがいることを忘れないで、帰っておいで。どれだけ、大きくなっても、君は僕の子どもなんだから」


頭を撫でて、和人はそのまま、レジへいく。祐樹も急いで立ち上がり、和人の背中を追った。会計は速やかに済まされていて、和人は既に財布を鞄の中に閉まっていた。昔から持っている古びた鞄の中に、親父に貰ってであろう本革で作られた財布がしまわれていく。


「和人、俺が」
「泣きそうな顔をしている飯沼祐樹にお金なんて払わせられないよ。それに、まだ、学生でしょう。いくら、君が陸上選手として有名になっても、僕たちの子どもで祐樹は学生、親が奢ってなにが悪いの」


祐樹は指摘されて、おさまった涙が、先ほどの言葉によって、再び溢れていたことに気付き、急いで目を拭く。
ちゃらんというベルの音がして扉を潜ると太陽が自棄に眩しかった。






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