ごめんねが口にはりついてとれそうにないんだ 





side……つぐみ 










慈雨くんに襲われた。言い方は御幣を生じるかもしれないけど、慈雨くんは僕を木の根っこまで連れていき、拳を地面へと叩きつけた。僕が好きだった人がまるで別人のように映った。慈雨くんはいつだって努力家で精悍だった。僕は彼に纏わりつくあの空気を愛していたというのに、慈雨くんの洋服についた匂いは僕が嫌ったあの香水のものだった。
女の人の甘ったるい香りと混じって、それは執拗に僕を追い詰めた。おいおいおい、止めておくれよ、と僕は別人になってしまった慈雨くんを見て思ったけれど、あれほどまでに、執拗に僕を求めてくれる姿は一層のこと清々しく、嬉しかったというのも事実であった。けれど、やはり僕のことをまったく理解しようとしない態度に腹が立った。慈雨くんはどうして僕たちが別れなきゃいけなくなったのか、まるっきり考えず、今まで過ごしてきたようだったからだ。
家族っていう言葉に執着するのはとても危険なことだよ慈雨くん。僕は、家族が大好きだけど、慈雨くんとは恋人になって、それで家族にまた戻れるなんて、そんな話あるわけがないじゃないか。
しかも、僕は浮気っていう最低な行為をして君も自分自身も傷つけて、どうして、慈雨くんはその過程の中で問題を模索しないのだろうか。
一度、甘えてしまったものに、どこまでも堕落していって、問題を解決しようとしないのは慈雨くんの悪いくせだね。慈雨くんは昔からそうだった。決めつける潔さが僕は好きだったし、決断力として見れていたけれど、それは、今の事態には向かないことなんじゃないのかな。
まぁ、結局、慈雨くんにとって自己愛が最大のもので、僕への愛はそれを補うものにすぎなかったという結論なのだけど。
言い返せば、僕にもそれは当て嵌まることだ。けど、ね。
僕は慈雨くんと正しく分離ができそうだったんだよ。
僕としては慈雨くんとの表裏を止めたつもりなんだ。家を出たんだから。心の中にがん細胞みたいにこびり付いて、剥がれない厄介なものを抱え込んでいることくらい知っているけど、ようやく、君と別離できる道が見つかったと思ったのに。慈雨くんはいま、一体、なにを想っているの。慈雨くん。
僕は慈雨くんが望むなら面倒だと思っていた怠惰な心を切り離すことが出来るんだよ。それに、分離が完璧になれば家族としての距離感を理解した上で、ずっとじゃないけれど、一緒にいることも出来るのに。慈雨くんはいったい、何に焦っているのだろう。僕もこの、慈雨くんの焦りというのを理解しなきゃいけないと、今日、慈雨くんに出会って思ったよ。
僕を押し倒した慈雨くんは別人のようだったけれど、額から汗が流れていて、腕は枝にひっかけた切り傷だらけで、せっかくのお洒落が台無しのようにズボンの裾は泥まみれだった。ワックスで固めた髪の毛もたらりと落ちていて、息切れした声で僕に告げたよね。慈雨くん、慈雨くんは、必死だった。
なにが必死にさせるのだろう。それほどまでに、慈雨くんにとって家族という中で僕が傍に居座る理由っていうのは何なんだろう。僕が献身的で慈雨くんが望む愛の形の為なら自己犠牲を出来る人間ならよかったのに。
下らない欲を出して終わりにしてしまったから、現在進行形で結末は訪れているのだ。僕はこのまま、慈雨くんとの分離が出来ればそれで良いと考えてきたのだけど、どうやら、慈雨くんは違うみたい。どうして、慈雨くん。
僕、慈雨くんについて、もうちょっと、じっくり考えてみるよ。






なんてことを考えていたら、一週間経っていた。慈雨くんの気持ちをじっくりしっかり考えてみたけど、今の慈雨くんは僕の知る慈雨くんに当て嵌まらない行動ばかりとるから理解出来なかった。
途中まで計算式に当て嵌めて考えていたけど、三日目くらいにやってきたお父さんに「計算では人の気持ちなんてわからないよぉん」と言われてしまい衝撃を受けた。どうしたら良いんだろうか。どこで、僕と慈雨くんは擦れ違ってしまったんだろうか。
そんなことを考えていたら一週間経過して、僕は雄飛くんと天体観測に行く日になった。あれからというもの、雄飛くんは僕を避けるだろうと思っていたけど、寧ろ積極的に関わってきてくれた。僕と浮気をしてくれたあの男の人といい、雄飛くんといい、お爺ちゃんたちといい、世の中って僕が考えているより神様みたいに良い人が集まってできているのかも、と思う。
けど、きっとそれを慈雨くんに話すと、顔では笑いながら「あんな下等な生物と?」という感情が双眸の奥の方から見えてとれるのだろう。
僕は慈雨くんのそういう所なら判るつもりだ。慈雨くんはとっても見栄っ張りで、だけど、努力できる人なんだ。僕が面倒だと言って諦めるのを傍目で見ているくせに、慈雨くんは自分の為に努力できる素晴らしい人なんだ。
誰にも平等にやさしく見えるけど、ほんとは酷く差別主義者で、きっぱりしている。きっと大勢の人が慈雨くんのそういうところは止めた方が良いよ、と言ってくれるだうけど、そんな慈雨くんに僕は一番だと愛されるのが、とても嬉しかった。だから、なんとかしなくちゃいけないんだ。



ブルブルブル



携帯が震える。僕の身体も飛び跳ねた。なんだろう? と思うと雄飛くんからのメールで何時に集合するかが改めて書いてあった。僕はくすりと笑い「ありがとう」と返信する。九時だったら、まだまだ時間がある。ご飯の前にお風呂へ一旦入ってしまおうかな。それからご飯を食べていけば湯冷めも防げるし。僕は怠惰だから疲れて帰ってくるとお風呂なんて明日で良いやぁ〜ってなってしまうから先に入っておかないと。
クローゼットからジャージを取り出し、エアコンが入っていない廊下を駆け出す。シャワーだけで良いかな。ちょっとあたたかくなってきたし。御湯沸かすのが面倒だから、っていう理由だけど。
風呂場につき、洗濯機の上にある物干し竿にジャージと下着をかける。洗濯機の中へ今日来ていた服を脱ぎ、徐に投げ込んでいく。服を脱いだ僕の身体は貧相で魅力的と言える部分がまるでない。お母さんは僕と違って運動が出来るから筋肉が年齢と風貌に似合わずそこそこついている。慈雨くんの筋肉はもっとすごい。ギリシャの彫刻みたいなの。綺麗。今まで見た誰よりも慈雨くんの筋肉はとっても綺麗なの。
全裸になった僕は風呂へ繋がる扉を開ける。湯船と洗い場の間にはカーテンがついている。僕が湯船を使わないことが多いと見込んだお母さんとお父さんの配慮だった。
水が飛ぶと、その分、掃除が大変になっちゃうし、御湯を張る時は、長風呂な僕だから風呂の中にはいろいろと長時間湯船に浸かっていても大丈夫な仕掛けが組み込まれてある。いたせりつくせりだなぁ、甘やかされてるなぁ僕って思ったけど、今更気にしてもしょうがないよねってことで有り難く使わせてもらっている。きっと、じゃないけど、こうやって両親にひょいっと甘えてしまう所が僕の駄目な所なんだろうな。
洗い場に設置された椅子に腰かけ、シャワーを出す。身体を洗う石鹸を手のひらで捏ねて泡を出す。
お父さんが言っていたけど石鹸は泡に効果があるからちゃんと泡立たせないと、大きくなったらぶつぶつがいっぱい出来た顔になっちゃうらしい。僕は毎日そんなめんどくさいことできないから、偶に調子が良い日だけ泡立たせることにしているけど。お父さんからしてみれば、意味がないことなんだろうなぁ、なんて呑気に考えている時だった。






背後から手が伸びてきたのは





僕の首元を掴んで、湯船のカーテンの隙間から太い男の腕だと判るものが伸びてきて、首を絞められる。突然の事態だし、僕は訳がわからなくなって、足掻く。
腕を歯で噛みきってやりたかったけど、顎を固定され、身動きが出来ない。裸という無防備さが、僕に襲い掛かる。嫌だ! 助けて! 助けて! 慈雨くん! 殺されてしまう! そんな予感が僕の中でひしひしとしていた。
誰が! いったい! どうやって!
この部屋はお父さんとお母さんが用意しただけあってセキュリティは完璧で指紋照合と網膜反応の生体認証でしか開かないシステムになっている筈だ。だから、誰であろうと、僕の家族以外は入れない筈、なの、に、とそこまで考えついた時に、僕は誰が僕の首を絞めて、もがく僕の口にハンカチを当てているのか、理解した。
慈雨くんだ。
慈雨くんに違いない。
いや、もしかしたら、これはそうであって欲しいという僕の願望なのかも知れない。僕が考え及ばない方法でこの部屋へと侵入する手段があっても可笑しくないのだから。
必死にあがく。濡れた裸の身体で僕は風呂場のあちこちに身体をぶつけた。嗅がせている薬が何かわからないけど、すぐに利くものではなようだ。けれど僕の身体は既に限界が近いのか、指先の末端神経から徐々に鈍くなっていく。
嫌だ! まだ死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない!死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない!死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! 殺さないで、殺さないで、殺さないで、殺さないで、殺さないで!
助けて、慈雨くん。嫌だ、嫌だ、嫌だいや、いやだ。
なに、どうして、こんなことに。



「つぐみ」



僕の名前をそれは愛おしそうに呼ぶ声を最後にして、僕の意識は沈んでいった。
暗転。


















「んっ―――」


音が籠る。
僕はうっすらと目をあけた。辺りは真っ黒で、ここがどこなのか判らない。事態が飲み込めなくて、脳内で過去の記憶を探る。検索した中でヒットした事象に僕は身体を恐怖のあまり震わせた。
ここはどこ!
僕は窮屈な空間に直ぐにがあるのを感じ取り、壁を叩く。とんとんとん、と叩くと籠った音がしてどこかに閉じ込められているのが判る。
あの声は、慈雨くんのものだった。慈雨くんだ。僕をこんな目に合わせたのは、慈雨くんに違いない。けど、そうしたら、ここはどこなの。慈雨くんは、いるの。


「慈雨くん、じう、くん、慈雨くん、いる、の?」
「ああ、つぐみ。起きたんだ。どう? あ、服は着せたから裸じゃないよ」


そう言われて身体を触ってみる。確かに裸じゃなかった。暗闇だし、混乱している僕には、服なんてどうでも良かった。お風呂場で襲って僕をここまで連れてきたのは紛れもなく、慈雨くんだということは、今、分かった。


「慈雨くん、ここは、どこ、なの、早く出してよ」


懇願する。
慈雨くんの声が聞こえた方に目線をやると暗闇だけだった世界に一筋の光が差し込んできた。懐中電灯で照らした光のようだけど、そこには随分、距離があった。この密閉した空間で、あの光だけが僕に空気を運んでいるのだろうということがすぐに分かった。判りたくないことだった。
先ほどまで、あの光が見えなかったのは、慈雨くんが意図的に隠していたか、慈雨くんがあの一筋の光が差し込んでくる所から僕がいつ起きるかとそわそわしながら見ていたのだろう。地面にいて、僕のことをしゃがみこみながら目玉を穴と一体化させるように覗き込む慈雨くんの姿が安易に想像できてしまった。


「駄目だよ、つぐみ。出してあげない」
「どうして!? 慈雨くん、こんなことするくらい、僕の事嫌いになっちゃったの」


きっとそうなんだ! と僕は結論付けた。僕は慈雨くんのあの執着心は家族ということから僕を自分の傍へ置いておきたいのだと思い込んでいたけど、違って、慈雨くんは僕のころが一回転して嫌いになってしまったのだ。そうに違いない。だから、恨みが溜まってそうなってしまったのだ。ああ、ということは僕は死ぬしかないのだろうか。嫌だ、そんなの嫌だ。


「違うよ、つぐみ」
「え?」
「どうして俺がつぐみのことを嫌いにならなきゃいけないの?」
「だ、だって、こんなことするし」
「これは、愛情表現だよ。つぐみ」


見えないけど慈雨くんがにっこり笑ったのが判る。
けれど、謎は深まるばかりだ。この行為を愛情表現と捉えるには僕の思考が追いつかない。慈雨くん。駄目、だよ。なにがしたいの。僕のこと、殺すの。



「僕の、こと、殺すの? 愛情表現で」

「つぐみの返答次第では」




慈雨くんは驚くくらいさらりと答えた。
僕は慈雨くんを見つめる。驚きで。一筋の光を眺めながら。嫌、嫌だ。ここはどこなの。だしてよ。壁を叩いてみる。押しのけてみる。僕の貧弱な力ではびくともしない。


「駄目だよぉ、つぐみ。そんなのでここから出られるわけないじゃない。つぐみが今、居るのは、山奥の土の中なんだよ。棺桶に入れて、丁寧に埋めたんだ。ほら、俺が教えてあげた小説、忘れたわけじゃないでしょう?」


そう告げられて僕は慈雨くんがさしている小説を思い出した。彼が敬愛してやまないと言っていたものだ。土の中へ埋められた少年は助けて、許してと乞うのだけど、隣人は少年に水を入れて殺してしまう。慈雨くんがあれを再現しているのだ。慈雨くん、嫌、嫌だよ。慈雨くん。僕、言ったじゃない。慈雨くん。


「いやだ、慈雨くん。許して、助けて、ご、ごめんなさい」
「どうして、謝るの?」
「ぼ、僕が浮気したから」
「そうじゃないよ。それはさ、もう、いいんだ。悲しいし、汚いけど、つぐみなりに考えたことなんでしょう。あ、けど一生許すつもりはないよ。つぐみがどうしてもってお願いしたら判らないけど。今は、そうじゃない。俺はそんなことで怒っているんじゃないんだよ」



なら、何で怒ってるの。公園での出来事もそうだったけど、僕には慈雨くんがまったくわからなくなってしまった。慈雨くん。
だけど、慈雨くんの話を聞いて、僕が慈雨くんにどうしても判って欲しかったものがあったのと同じで、慈雨くんも僕にどうしても判って欲しいものがあったんだって気付いた。僕たちはきっととても近くにある差異にずっと翻弄されていたんだね。こうやって、切羽詰まった状態に陥ってようやく判る。

慈雨、くん。



「なに、で?」
「わからない?」
「わからない、よ。だって、僕は僕なりに慈雨くんに釣り合うよう努力したつもり、だったから」
「その努力がいらなかったんだよ」



冷徹な声が落とされる。
努力がいらなかった、ってどうして。だって、こんな僕嫌でしょう。慈雨くんと付き合う前の僕なんて今より最低で、慈雨くんに寄り掛かってばかりで、めんどくさがり屋で、なにもしなくて、そんな僕だと不釣り合いだから人間とも積極的に関わろうと思ったし、別離の先にある自立を持って、慈雨くんの傍に立っていても可笑しくない人間になれるよう努めたのに。慈雨くんはなにが気に食わなかったの。
努力って、慈雨くん。慈雨くん、ねぇ、もしかして、慈雨くんは、僕に何の努力もしない、本当の意味でお人形さんのまま、君の傍で座っていて欲しかったの。慈雨くんの、欲求を満たす為だけの。慈雨くん。















僕の努力って無駄だったの、慈雨くん。そんな、簡単な問題だったの。慈雨くん。けど、僕、お人形さんは嫌だよ。慈雨くん。



「つぐみ、言ってごらん」
「な、なにを」
「ふふ、そんなに泣く必要はないよ。泣かなくて良い。けど、言ってごらん。つぐみは前から言っていたじゃない。俺の後ろをつけるだけの頃から。なにがあっても、慈雨くん、慈雨くんって。そして、失敗するたびに俺にだけ! 俺にだけ言っていただろう! なぁ! 言え! 言わなきゃ、ここから出さない! もっと、俺だけを求めて! 俺だけを頼れ! 俺だけを見ろ! 他の奴らとつぎみは話す必要はない! 空気にも触れなくていい! つぐみは俺の中で! 俺だけを頼って! 俺に縋りつきながら! 生きていけば良いんだから!」



ああ、慈雨くんは僕をお人形さんにしたい訳じゃないんだ。きっと、慈雨くんも不変を望んでいたんだね。慈雨くんって笑っちゃうくらい、僕の事好きだったんだ。自分が好きっていうことは僕を好きっていうことだったんだ。僕にとって慈雨くんは別人で、慈雨くんとってもそうだったけれど、慈雨くんにとっての僕という存在は自分自身でもあったんだね。慈雨くんの自己というのは僕をもってして完成するんだ。こんなに、狂っていて、こんなに名誉なことはないよ、慈雨くん。



「慈雨くん、許して、許して、ごめんなさい、慈雨くん、慈雨くん、許して。僕を、許して、慈雨くん、お願い。僕。嫌、だ、よ。慈雨くんに許してもらえない世界なんて、とてもつまらないものだから。慈雨くん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」



慈雨くんが望んでいたのはこれだったんだ。僕から頼られたかったんだね。だから、自立していく僕が嫌いだったんだ。恋人としての関係になってから僕は慈雨くんにとって余計な努力をしていたんだ。
唇が枯れる。水分が欲しいけど、水は今、見たくない。今、水を見るっていうことは、僕にとって死を意味することだから。



「慈雨くん、許して、許して。ごめん、ごめん」
「じゃあ、外に出たら、恋人に戻る?」
「も、戻る、から。慈雨くん、ごめんなさい」
「今までの、公園でつるんでいた連中とも縁を切る? 坂本透との用事より俺を優先する?」
「する、する、よ、慈雨くん。慈雨くんが望むなら、僕は他の人なんかいらないよ」
「そう。これからは、なにをするにも、俺を頼って。俺だけを見て」



僕は判ったよ、と言った。
その後、契約を結ぶように僕は慈雨くんに「ごめんなさい。許して、助けて」を繰り返し言った。その言葉が僕の口に剥がれついてとれなかった。密室空間に閉じ込められる時間が長ければ長い程、人間は狂ってしまうらしいという科白を思い出した。一筋の光は見えず、慈雨くんの眼光だけが、ぎょろりと僕をずっと見ていた。
どれくらい時間が過ぎたのか判らない。
気が遠くなるほどの時間、僕はごめんなさいと言い続けて、それから僕はどうなったのだろう。



慈雨くん、出して、くれた?



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