喧騒が引いた教室で黒沼帝は校庭を眺めていた。グランドには騒ぎたてるクラスメイトの声色が聞こえる。本来ならば、自分もあのように土を蹴りあげ駆け抜けなければならない。免除され、今こうして教室の隅っこで黄昏ながら眺めるだけに徹しているのは体調が優れないからだ。幼い頃は身体が弱く頻繁に倒れこんていたが、身体が成長するに減っていった。だから、こんな怠慢さが付きまとう身体は久方ぶりで、体調に気をつけての結果に嘆息を吐き出すしかない。
ふと、グランドで体育に励む恋人であり幼なじみであるトラの姿が見えた。長い手足を伸ばしながら、グランドを誰よりも速く走り抜ける。自分では到底知らない世界を走っているのだろう。相変わらず凄いなぁと帝は見つめた。当然の如く幼なじみは一等で足を踏み込む。タイムを測定していた体育委員に驚愕の声を漏らされると、自身のタイムに納得がいったように襟首で汗を拭いながら笑った。帝はその笑顔を見ているだけで、身体の奥底に溜まった怠さが全部飛んでいくような錯覚に包まれる。同時に訪問するのは表しようのない切なさと愛しさだった。幼なじみという関係に媚びを売るように居座っている罪悪感が切なさに通じる。優しい人のあたたかさに胡座をかいて腰掛けるのは酷く惨めなものだ。誰もがトラのことを優しくないと評価するが、そんな事なかった。帝が住む世界でトラはどこまでも純粋で正義感溢れる人間だ。誰もが黙って見ているのが楽な状況でも、葛藤し行動する。粗忽が大雑把なせいで、トラの優しさが隠れているが、悩み抜いた先にある答えが行動による優しさとして存在する人なのだ。自分も優しさに助けられた人間の一人だ。まだ小学生だった頃、幼なじみというだけで、他者から馬鹿にされ罵りが跋扈される中、手を引いて時には自分の変わりに泣いてくれた。本来は自尊心が高い人間なのだ。特に長年連れ添ってきた幼なじみに涙など見せたくないだろうに。思えば帝が見た最初で最後の涙なのかも知れない。
懐かしさに浸っていると、グランドから目線が飛ぶ。トラがこちらを見てきた。心配しているということが分かる眼差しだ。電撃がばりばり届いたみたいで帝はゆっくりと愛しさだけが篭った双眸でトラを見つめ返した。ほら、こんなにも貴方は素晴らしいというように。


「帝ちゃん、なにどうしたの」

声をかけられ振り向くとそこには柴田が立っていた。遅刻してきたのだろう。耳に突っ込んだ柄が派手なイヤホンを外し、学生服に見を包んだままの姿だった。鞄を乱雑に置く。
トラの友人に当たる人物で、現在は帝の友人にも当たる。柴田が帝やトラに対して裏で行っていた全貌を帝は既に知っていたが、帝にとってそれは粗末なことだった。何よりトラが気にしていないし、気付いていないのなら、自分がとやかく云う問題ではない。過去、自分を罵った人間より非道な行為を柴田は二人に施した。過去の人間が自分にしたことなど些末なことだ。黒沼帝という人間が自分自身に抱いている存在価値からすれば。帝の中で自分の存在価値は驚くほど低く、それゆえに柴田が帝に矛先が向くよう仕向けた賭対象とした虐めは気に止めることではなかった。ただ、高校一年生の時にそのことが契機となりトラが暴れてしまった。優しい人間を傷つけた自分自身を到底許す気にはなれなかった。原因を作り出したのが柴田といえ、誰かを恨み嫌う原因には帝の中ではならない出来事だ。

「微熱があるみたいで。教室で見学なんだ」
「へぇ」

柴田はそう言い帝の横に腰掛ける。授業へ今から向かう気はないようだ。帝が要るのであれば、丁度良い言い訳の道具として役に立つ。サボっても損傷はないだろう。

「インフルエンザ流行ってるみたいだから気をつけなよ」
「うん。ありがと。気をつけるね。あ、けど、風邪とかだったらあまり近付かない方が良いかも」

口元を覆う帝の仕草を見て、気にしないって、と柴田は快活に告げた。帝はにっこりと笑う。
ああ、と柴田は心の奥底に溜まっている自分の嫌な部分を刺激されたかのような感覚に陥った。眼前に朧気な姿をしている同級生は良くするりと心に入り込み罪悪感を植え付ける。過去のことを思いだし若干の申し訳なさが芽生えた。予想ではあるが、黒沼帝という人間は自分が行ってきたことをすべて掌握した上で一緒にいて尚且つ変わらない眼差しで自分を見てくれているのではないだろうか。そう錯覚させられるだけかも知れないが帝の双眸には錯覚を納得させられるだけの理由があった。今だって後悔はしていない。自分はトラという刺激を与えてくれ機能も良い最強の駒を手中に納めたかったし特別な位置。トラにとっての親友という場所が欲しかった。その為に誰かを傷つける必要があったし幼なじみという位置にいた帝は都合が良かった。思惑通りに物語は展開したし滑稽で快感だった。生きざまを否定する気もない。だが、罪悪感は沸くのだ。相手が他でもない、黒沼帝という人間だからなのだろう。


「帝ちゃん」
「なに柴田くん?」
「ごめんね」
「なにが。柴田くんはなにも悪くないよ」


帝とて何を指す謝罪なのか理解していたが気づかないふりをした。謝罪されることではない。自分はそのような価値はない。が、もちろん大前提になっているが、それ以上に柴田が自分にしたことは当時の柴田にとって遊びの一貫だったのだ。無邪気に捕らわれない生き方をする人が帝は昔から好きだ。その上で過ちを自ら認められる人間は尊敬する。だから、過去など今が素晴らしければ、気にする必要さえなかった。
柴田は正気に戻ったかのように曖昧に誤魔化す言葉を重ねてくる。帝は多分これで良いのだろう、と思いながら体育に励むトラの姿を柴田と一緒に眺めた。