偽者の愛では腹はふくれぬ







愛という形が一つでなければならない理由とは如何なるものだろう。
森夏目は行き詰まった原稿を前にそのようなことを漠然と考えて、物思いに耽っていた。紙を切り裂くペンの音にそれは確実な形へと微々たる変化を遂げた。


「夏目、洗濯物ある?」


扉を大人しく叩いて顔を覗かせたのは同居人でもあり恋人である佐治明だった。変わらず美しさを保つ絵画のような顔に夏目は恐れることなく傍にあった墨塗れのタオルを投げ出す。届いた先には慌てた様子で受け取り静に扉を閉めた。今日はおそらくもう夕飯まで会わないだろうと思い原稿に再びペン入れを始める。以前は家事などに従事せず自分がやりたい職種を全うすれば良いと考えていたが思考が変化したのは佐治と一度別れを選択した後のことである。土下座をして泣きながら詫びを入れる佐治をみて、お前の言葉はどれだけ軽いのかと思ったが、泣きじゃくる姿を見て毒気を抜かれてしまったのは事実。昔から、この顔に弱いのだ。ずどんと心に落ちてくる。過去を顧みると泣き顔だけでと失笑する者もいるだろうが、おそらく、いや、確実に夏目が惚れた佐治の一部として泣き顔があげられる。泣いている顔を見ると、笑顔には出来ないし、笑顔でいて欲しいとは思わないがせめて泣かないで欲しいという愛しさが湧き出てくる。夏目の中で涙とは二つの種類があり、自分のために流すものと、他人のために流すものだ。佐治のは明らかに前者であり、だからこそ、馬鹿だなぁと呆れた気持ちからも愛しさに付随した感情がゆっくりと付き纏うのだろう。佐治の涙は森夏目という人間でなければ自分は幸せになれないと告げているようなものだ。以前は家族のような形をつくり、幸せを構成すれば佐治は幸せになれると思っていた。だが、違ったのだ。涙こそが夏目があってこその自分なのだと訴える。佐治が異常なことは認めなければならないことであるし、もう佐治が過去に犯した過ちを繰り返して欲しくなかった。あの日、幼稚園の砂場で声をかけた自分の責任を感じてもいたし、被害者であり加害者である自分の使命であることも悟っていた。異常者である佐治だが真正面から自分が向き合っていれば、最悪の事態だと言える出来事はいくらでも防ぎようのあったことだ。正直、夏目にそれほど責任を背負う必要は皆無なのだが、夏目は理解したうえで佐治といることを選択した。
色々と建前を陳列してみたが、これは同情なのだろう。だが、確かに愛しさでもあるのだ。同情と一言で片付けられるものではなく、様々な感情が交錯している。だからこそ、愛の形は一つではないと夏目は思うのだ。寧ろ、一つしかない世界など自分が描きだす漫画のように絵空事だ。現状は歪に叢る蝿のように汚い感情が跋扈する。同時に、絵空事では清算がつかない、いいようのない愛情が生み出されるのだ。同情でもあるし、佐治が求める愛情もある、性欲に直結するのも、他者に嫉妬するわだかり、安心出来る空間、過去への責任。様々だ。一つになど夏目は縛れない。
佐治が求めるものとは違うことは知っている。佐治とて気付いてはいるだろう。佐治は突出した感情に答えをつけられる人間なのだ。だが、佐治はそれで良かった。満足には足りないだろうが、夏目が傍にいることを許してくれる場所が確保されているなら。以前、再び寄り添い合うことを許された時、折り合いをつけながら生きることを夏目から正された。俯瞰した視点からしか物事を捉えたことがなく、人より早く成長した佐治に向かい、夏目は「二人で大人になろう」と言ったのだ。目頭がじんわりと熱くなる瞬間だった。自分のことをまるで分かっていないような態度のくせに、自らと向き合うことが出来る夏目が好きだった。自分本位なだけではない。優しいだけではない。厳しさという節度と叱咤するような愛情が夏目には存在したし佐治もその恩恵にあやかった。頬を噛むように。夏目から与えられる愛情は自分を下にも見なければ上にも見なかった。しょうがないな、という想いは籠められているが、夏目が佐治に受け渡す愛情には様々なものが詰め込まれていた。誰に貰った宝物より幸福な存在が凝縮されている。他者は佐治のことを性欲が異常に強いとみなすが、夏目にそれはもう当て嵌まらなかった。夏目との性行為が一番気持ちが良いことに変わりないが、別物である。腸から湧きだす欲望ではなく、夏目か受け渡される儀式のようなものなのだ。



「明、いるか?」


夜までもう会わないだろうと思っていた夏目の姿が扉越しに見える。アイロンをかけていた佐治は飛び上がり駆け寄る。


「なに、どうしたの」
「いや、たいしたことないんだが、今日は晩御飯一緒に食べられる、と思う」


とびっきりの夕食を用意しなくちゃならないね、と佐治は夏目に告げる。ああ、そうだな、楽しみにしてるから、と夏目は答えた。






20120120
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