「夏目、夏目、夏目」



佐治は残念なことにそれからというもの夏目の後を付き纏う亡霊になった。背後を振り返れば常にいるので背後霊というべきか。気軽に声をかけたことに既に、後悔を始めた夏目であったが幼い頃は軽いものだった。寧ろ、兄貴分になったようで当初は気分が良かった。小学校低学年までの話であるが。
高学年になり自我というものが芽生え、夏目の中で常識を知るようになると、佐治がとっていた行動が歪に映り始めた。
朝、起きて家を飛び出すと集団登校でもないのに、佐治は玄関の前で立っていた。冬になると何時間待っていたのか問いただしたくなるほど凍えた両手で、苦痛など何一つないという顔色で笑って見せた。
夏目が早足で歩いても佐治は必死に後をついてきた。扱けて血が出た時もある。夏目が心配にあり駆け寄ったとき、佐治は幸福を得たように、夏目に擦り寄った。木の根が夏目の身体に纏わりつくような感覚が背筋から這い上がってきて、手のひらを握った。骨の形が浮き出て血管が波打つ。
一学年年下の握力とは思えず、夏目は目の前にいる人間に畏怖を抱いた。だが、佐治は気にしないと言ったように夏目の手を引き立ち上がった。ここは特等席だと誇示するように。両手などギロチンで切断されるまで離れないというように。幼い夏目には佐治の顔が滑稽なピエロのようにも映ったし、天国から追い出された天使にも映った。どちらにせよ、人外の存在だ。夏目は生唾を飲む。頸動脈が鳴りやまず右心室で血液がぱぁんと銃口で撃たれたように破裂したようだ。佐治の奇行ともいえる行動はそれだけで収まらず、夏目を襲った。


「もう近付いてくるな!」


と言えればどれだけ良かったか。小学六年生になった夏目は四六時中思考していた。だが、従来の優しさがそれを拒否した。異常だから、自分にとって不愉快な存在だから他人を否定しなければならないのか。違う。人間と云う生き物は多種多様な性格で様々な趣向を持っており、だからこそ、面白いのであるし、誰かの人格を否定して口に出すなど、許されない行為である。夏目は幼いながらにこう考えていた。
何より、これだけ自分を慕ってきてくれる人間を否定するなど自分はどれだけ懐の小さい人間なのだろう。
幼い森夏目は純朴な少年だった。人間の中に存在する悪を頭から否定した。誰の目から見ても悪人だと肯定できる存在など居る筈がない。純朴というのは無知と同等の言葉だ。天然だとも言える。遠まわしに言われているだけで、粗忽で無礼で教養がないと言われているのと同じだ。幼い森夏目はまさしくコレに一致し、人を疑うなど愚かな行為だと決めつけていたし、いくら異常だと言える行為をする佐治明に対しても、温情を持って接するのが普通だと決めつけていた。
子供らしい、と処理をすれば十分であるが、小学六年生になってこれでは、嘲笑われても板仕方ない子供でもあった。同時に夏目はそれだけ優しさを兼ね備えた子供でもあった。純朴とは優しさという意味でも通じるのだ。他者限定でなく、自分も含まれた優しさであるが。自分に優しくせず他者に優しくするなど結局のところ、偽物、便宜上での優しさでしかないので、それで良いのだろう。偽善ばかり投げかける人間より、ずっと森夏目は人間らしい優しさを兼ね備えていた子供であった。
しかし、彼の優しさこそがすべての不幸の始まりなのだ。曖昧で噛めば消えるような言葉で包むより、彼の性格を愚者だと表した方が的確であろう。危険察知能力が無い人間は生き残れないのだ。
お人好しと言われ詐欺を受け、連帯保証人に名前を書く。純朴な優しさとはそういうものだ。回避する能力に長けなければ、どれだけ優秀な優しさを保持していようと、最終的に面倒事から線を引きたい人間は、これらの優しさを自業自得という言葉だけで片付けるのだから。









「夏目、夏目、夏目。中学校へ行っても俺を忘れないでね」



桜吹雪が舞い散るなか、美少女かと見間違う容姿をした佐治に夏目は手のひらを握られながら喋られる。喋るたびに息が漏れて、皮膚を付き裂いてしまう程痛かった手のひらを握った温度は柔らかなものであった。夏目は安堵の息を吐きだすように、佐治の頭を撫でた。色素が薄い佐治の紙は太陽の光を透かした。夏目は容姿だけならこいつはどこまでも綺麗な神様のような奴だな、と思いながら笑みを浮かべる。夏目が進学する中学は進学校として名を馳せている私立だ。公立へ行くだろう佐治とは縁が切れる。どこまでも他者に優しく、自分に優しい愚者である夏目は安堵の息を内心では吐き出していた。追ってくることはないだろうと、世間知らずな脳味噌は能天気な結果を弾きだした。


「忘れないよ」


この言葉に嘘などなかった。
誰が忘れられるだろうか。幼稚園に居たときから声を砂場で遊んでいた少年を憐れみ、身勝手な優しさを振り撒いた揚句、六年以上自分の背後を追ってきた人間を。夏目は慈しみの手のひらで佐治の頭を撫でる。きっとこの一年で佐治も気付くだろう。自分という存在だけを救済の糸口だと追求してきた過去の自分と決別し、数々の人間と触れあえるようになると。人には向き不向きがあるので人間関係を円滑に回せるかどうかは、判らないが、今まで夏目が見てきた佐治の能力を考えれば不可能なことではない。そうすれば、佐治は自分という存在を上手に矮躯へと変化さすだろう。決別が必要なこともある。夏目は自身に納得させるように首を縦に振る。



「忘れないから、明も頑張れ」


な、と幼い天使を包みこむ。決別の証だというように、卒業式につけられた花を佐治の胸元へつけてやった。
潔く心が軽くなった夏目は母親に見つかり、引き摺られるようにして佐治の元から去っていった。胸に刺された造花を佐治が何時までも愛しい眼差しで見つめるのも、夏目を想う佐治の気持ちが心髄から湧き出る普遍的なものなのだと、夏目は知りもしないまま、最後の楽園であった中学一年生を過ごすことになる。
佐治にとって夏目は唯一なのだ。外で何時間も待つのも、手が凍傷にかかろうとも、膝を擦りむこうとも。夏目の気が引けるのなら、これほど意味のある痛みはなかった。夏目は今一つ自分がどれだけ佐治明という人物に慕われているか理解していない。異常など一つの単語で片づけないでいて欲しいものだ。例えば、これから過ごす一年、佐治明という人間は窒息死している感覚を常に味わいながら生きるだろう。夏目がいない世界など、陳腐な塵だけが落ちた世界と同じである。
時には夏目がいる中学校まで見に行こう。夏目は喋ってくれなかったけど、夏目の母親から聞きだした情報で彼が私立に進学することを知っていた。都合が良い。元々、名の知れた金持ち校である進学校への進級は佐治自身も決定していたことである。本当は母親に小学校から入学する様言われたが夏目がいないので公立に仕方なく進学したまでだ。学校が嫌いだと喚いていた我が子を学校大好きに変えた夏目を恩人のように思う母親を納得させるのは容易かった。



「ずっと夏目のことが好きだよ」


覚えて置いて欲しい。
はち切れんばかりの感情が渦巻いていることを。


食べてしまいたい。





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