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 食事を終えるとジルは寝転がった。後片づけくらい手伝え。せめて、食器を洗面台まで運べよ、と一瞥したが、お腹いっぱいになってもう動けないよぉん充葉ぁん、と言われてしまえば、睨むことを止めてしまった。
 僕は多分だけど、とことん、ジルに甘くて、甘く出来る権利を与えられている自分と言うのにとても弱いのだろう。
 蛇口を回すと水道から冷たい水があたる。お湯にしないと滑りが取れないのでぬるま湯に設定して茶碗を洗う。僕が動いているとジルが神経を逆なでするように鼻歌を奏でている音が聞こえる。僕が聞いたことがない類の音楽でジルの創作だろう。ジルはああやって、僕が知らない音楽を良く奏でている。
 これは長年付き合ってきて、つい最近、発覚した出来事なのだけど。何を歌っていたかを聞くと僕には理解出来ない数式を羅列したものだったり、人類が読むことが出来ない古代文字を発音し意味を逆から読んでいくものだったりする。半信半疑でその言葉を聞いたけど、きっと本当なのだろう。
 生きている、自然な動作、その節々が、僕とは異なる生き物であるということを深く自覚させられる瞬間はどこにでも転がっているのだ。

 きゅっと蛇口を閉める。布巾を手に取り、乾燥台の上においた食器についた水滴を拭っていく。放っておけば乾くのだが、僕は乾燥台の上に長時間食器が放置される状況がなんとなく嫌で、すぐに吹き、定位置に戻すようにしている。妙な所で几帳面なのだろう。僕という人間は。
 すべて吹き終わり達成感に満ち溢れると、襖を開け、ジルが寝転んでいる炬燵布団を引っ張る。もう寒さなど感じない季節なのに、ジルは炬燵布団から出て、露わになった部分を寒いと抑えた。


「ジル、出てきて」
「えぇん。やだよぉん。寒いもん」
「寒くない。それに、片付け終わったから僕、銭湯に行くから」


 ジルは銭湯という漢字に過剰反応を見せ、震えあがった。ジルのような人間からしてみると銭湯を利用するなど、気持ち悪いと感じてしまうのだろう。


「止めようよぉん、充葉ぁん」
「嫌だよ。それに、僕は銭湯も好きだし」
「家にシャワーあるでしょぉん」
「シャワーだけだと満足できないから、銭湯に行くんだって」


 はぁ、と溜息を漏らす。僕のアパートはさすが、というか家賃からしてみれば納得の話なのだが風呂がついていない。寧ろこの値段でシャワーが設備されている方が奇跡に近いのだ。湯船に浸かるのがわりと好きな僕としては、アパートを選ぶ上で、唯一失念していた部分だともいえる。だから、僕は一週間に二回は絶対に銭湯に行く日を作った。
 運が良いのか、それとも学生が集まる様な街には銭湯もあるのか、どちらか知らないが、銭湯が近くにあり値段も良心的だ。今日は、その日。ジルとのセックス漬けの日々がこの頃は得に多かったから、機械が中々なく、出かけられなかった。今日という日を逃すつもりはない。


「今日は行くから」
「はぁん充葉ぁん、そんな所に行くより、ねぇ」


 誤魔化すようにジルは僕の顎を掴み、口づけをしてきた。舌を入り込ませて曖昧にさす気だ。噛みきるくらいの度胸が僕にあれば良かったのだけれど、生憎、なく、受け入れてしまう。息が困難になるくらい、支配されてしまい、朦朧とする。駄目だ、意思が弱くなる。


「ジル、止めて。嫌だ」


 唇が離れた所で否定の言葉を吐きだす。酷く、自分が惨めになってきた。良い歳なのに、嗚咽が込み上げてきて目尻から涙が垂れていることを悟る。残念な人間だな、と自分で冷静に観察できる部分が残っているのに、一度流れた鈍い涙は止まることを知らなかった。


「充葉」


 僕を拘束していたジルの腕が緩まる。曇った視界の先にジルを見ると、なぜかジルの方が泣きそうな顔で僕を見ていた。だから、反応が逆だろうが。馬鹿野郎と思いながら、離された手が嬉しかった。セックスとかキスとか、恋人同士の愛し合っているものが所有する特別なものの筈なのに、僕ら二人の間には、それらがまるで、嘘の道具のように蔓延っている。


「銭湯、行くよ。ジルはどうする?」


 ジャケットを羽織る必要のなくなった季節だ。鞄の中に着替えとタオルを放り込んでジルの方へ、振り向く。ジルは何も言わなかった。ただ、その凶器の様な指先で僕の袖を握った。


「ジルも、行くの?」


 うん、とは言わなかったが肯定だった。赤子の様なジルがそこにはいた。僕はジルの分のタオルを鞄の中へ抛り込む。服、は知らない。ああ、この前、置いて帰った服が洗濯してあったっけ。手洗いしか受け付けないタイプで大変だった。押入れの奥にしまってあった筈だ。


「行くよ、ジル」


 いるものを全て詰め込み、ジルに再び声をかける。ジルは袖をまた握ってきた。誰よりも美しくカッコいいジルの姿が妙に可愛く映った。
 愛しい。



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