幼稚園のモルタルに蹴られたボールの痕跡を砂場から佐治明は眺めていた。まだ幼い肥沃した佐治の手のひらは泥団子でぐちゃぐちゃになり、爪の隙間には砂が侵入した。呆然と暗澹とした世界で視界は常に曇っていた。
ボールの痕跡だけが、輝いており閉塞された世界は佐治の神経を歪に狂わす。別に誰に問題があるわけでもない。佐治が閉塞感で泥を口から吐き出し続けるのは。佐治明自身の問題だ。
親の職業は少し変わっているがそれ以外は普通の親だ。愛されている自覚は幼いながらに存在した。誕生日は大きなバースデーケーキで質素ながらに盛大なパーティーが開かれ、夏には家族揃って旅行へ行く。粗相をすれば思いやり溢れる叱咤が飛んでき、不安に泣き叫べば温かな感触が佐治を覆った。愛されて育った子どもであるという自覚はある。一つ下の弟と長男だからといって差別されるわけでもなく、平等な愛の元、すくすく育ってきた。けれど、佐治明は歪んでしまった。
彼の不幸があるとすれば、常人の子供より、世間という物を俯瞰する能力が強かった。それだけだ。
幼稚園の先生が自分のことを発達障害に送るか悩んでいるから、自分に良く構うのだ、とか。本当は実の弟が自分を畏怖な眼差しで見てきている節があるのだとか。佐治は冷静に周囲を観察することが出来た。そんな中で成長した子供は環境がどうであれ、歪に育ってしまうのはある意味、已む負えない事態であった。
少しだけ、諦めるのが得意な幼子はこうして誕生した。泥団子を丸めることなく、一人、閑静な場所で座り込んでいた。同い年の園児や年長組が混じり合い、遊具で戯れる中。




「佐治くんは遊ばないの」


自分を発達障害にかけるか悩んでいる教師が声をかける。一人で、泥団子で遊んでいる子供がいれば教師であれば心配するのは当然のことだ。佐治はにっこりと柔和な笑みを見せる。彼が俯瞰できるのは何も、他者だけではない。自分自身もだ。西洋人の子供のような顔立ちが利用出来ることを、幼いながらに把握していた。長く伸びた色素の薄い睫毛。虹彩も澄んでおり、緑青の世界に引き摺りこまれれば落下しない人間がいないことも。花が飛ぶような笑みを意図的に放つと、教師は弄ばれたように安堵した。


「もうちょっとしたら遊ぶよ」


嘘だ。
後でこの教師も嘘だと気付くが、後というのは、遊戯の時間が終了してからだ。泥団子で遊ぶ佐治には誰も近づかない。誰もが羨む美貌を持った佐治の横には害虫が群れても可笑しくなかったが、佐治自身が放つ匂いがそれを拒否した。一人で良い。誰かと絡むのは酷く面倒なことだ。見透かす、という程、長けた能力ではないが、誰かと接すると様々な感情を抱かなければならない。大凡、園児らしからぬ思考であるが、現にそうなのだから、拒絶する方法がなかった。佐治は泥団子を叩きつける。卵が割れ、卵黄が外に飛び散る光景を表現していた。
早くこの倦怠な時間に終止符を打たないだろうが。実家に居ても変わらないが、少なくとも家族を愛している佐治にとって、どうでも良い園児との戯れより、家族が住む家に方が落ち着けた。
べちゃり、べちゃり、べちゃり。
泥団子を投げ続ける。暇だと、佐治は泥団子が落下する空間だけを眺めていた。





「なぁ、なにしているんだ」



佐治は喋りかけられた瞬間から偽善者、と思いながら顔をあげた。稀にこうやって声をかけてくる奴はいた。大抵「心配になって」など佐治にとって鳥肌が立つ言葉を投げかけてくる連中だ。こういう連中ほど、簡単に裏切るのだということを佐治はしっていた。憐れみの対象に映る人間へ声をかけるなど、所詮、自己満足の世界を満たしたいだけに過ぎない。優しさなど微塵もない。人間と云うのは自分本位の生き物なのだ。自己に陶酔するための材料にされるなど、吐き気がする。

そこには凡庸な顔をした少年が立っていた。園児にしては痩身で、垂れ下がった双眸が目立った。覇気がまるで感じられないように映るが、園児は快活に笑いながら、佐治の横に腰掛けた。折れそうなほど細い腕を見つめながら佐治は園児の言葉を聞く。



「泥団子であそんでいるの?」
「うん」
「へぇ。俺もあそぼうかな」
「どこかへ、行けば」
「嫌だよ。だって、お前一人だしさ。一人、暗い奴がいると、ほかのやつもピリピリするだろう。めいわく。だから、俺とあそぼうぜ。お前も楽しくなればよいだろ」


子供らしい無邪気でありながら無責任な言葉で園児は佐治の手を引っ張った。泥だらけの手を躊躇いもなく。偽善者かと決めつけていた佐治にとって、本音を投げかけられ格下と見做された上での言葉は珍しく新鮮だった。
俯瞰に失敗した瞬間である。
瞬間、モルタルによって映し出されたボールの痕跡に光を感じていた世界が急速に閉じられていく。佐治の周囲には暗澹だけが残ったが、手を引かれた先にある少年は光だけを覆っていた。何故、と戸惑う中で、導き出された答えなど、一つだった。園児は佐治明の特別な存在にたったそれだけの出来事でなってしまった。幼い頃から俯瞰した世界を眺め続けてきた佐治にとって、園児の存在がどれほど稀有であったか本人以外にその気持ちは理解することが出来ないだろう。佐治にとって、両親と言う、産まれながらにして離れがたい縁ではなく、教師という職務上与えられた縁ではなく、手を握り締めた園児は初めて外側の世界から彼を引っ張りだした人間であった。





「名前は」
「名前? おまえ、自分から名乗れよな」
「佐治、明」


おずおずと答える。脚を内股にさせ恥じらう姿など女の子のようだ。いや佐治の容姿からそこら辺に転がっている小石より女の子という言葉に似合っている人間はいないだろう。泥団子を投げつけていた人間とは別人のようだ。



「さじあかり、か。よろしくな」
「あ、明で良いよ!」
「ふうん。じゃあ、あかりで。俺は夏目、森 夏目。夏目でいいぜ」



少年は快活に答える。
これが佐治明の世界が輝きだした瞬間である。
同時に森 夏目と呼ばれた園児が成長する中でもっとも後悔した瞬間を切り取ったものでもある。幼さというのはそれだけで魅力的で、それだけで凶器だ。大人になってから過去を振り返ると、羞恥に塗れ五感を塞いでしまいたくなる。
羞恥に感じるというのは、それだけ当時の自分を冷静に見返すことが出来る様になり、成長した証でもあるが、恐ろしいほど無責任な世界だ。思考するということが少ないのだから。
コミュニケーションするのに大切な言語の成長しておらず喋れる数も限られている。乏しい。世界だ。それゆえに、幼さというのは大人から見れば、輝かしい場所に映る。責任が無い世界とはそれほどまでに楽だからだ。
だから、誰でも、幼い頃にした安易な行為が成長した自分へと返ってくるなんて想像しない。想像したとしても深刻に考えない。で、なければ、誰が虐めなど行うだろうか。中学生といえ、子供である。
もし、成長したとき、中学時代虐めていた人間に報復されることが決定していたら。無視され、靴を隠し、時には暴力を奮う。差別される。
対象にならないと分からないことで満ちている。
だから、幼い森 夏目も判らなかった。すべてのことが。無責任に声をかけた。その声が全部、自分にどう返ってくるかなど想像もせずに。









「夏目、ずっと俺を一緒にいてよ」


森夏目がそれを実感するのは彼が中学三年生になった時のことだ。





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