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 引っ越し当日。
 結局、僕は家賃三万六千のアパートに住むことになった。二万円のアパートを母に見せた瞬間、あまりの襤褸さに母が眩暈を起こしたからだ。支えた僕の身体に爪を入り込ませ、ぎりぎりぎりと皮膚に埋め込んでいった。違うのにしないと許さないというアピールなのだろう。
 僕は母を悲しませたいわけではなかったので、近隣にもう少し家賃は張るが、ましなアパートがあってそっちでも良いと思っていると告げると母は、契約書を破り強引にそちらのアパートへの契約を進めた。
 もっとも、現物をみて、若干マシになっただけだと母が思うのは書類を破られた当初から目に見えていた。


「はぁ、こんな所に」
 

 母は溜息を漏らす。こんな所とは失礼なと思いながら、手渡された衣服を押入れの中へと終いこんでいった。
 襤褸くとも風呂は部屋についているし、部屋数も多い。ワンルームではなく、この値段は驚きの安さだ。ただ、安さを物語る証拠もあるわけだけど。


「壁から隙間風が入ってきてるじゃない」
「古いからね」
「はぁ。後で、業者をよんである程度直させるわ」
「自分でやるからいいよ」
「充葉!」


 反論を続けると母からまた叩かれてしまいそうな雰囲気になったので、素直に首を下ろす。
 別に気にする必要、ないのに。母の富裕層特有の思考が気に入らないと思ったが、それ以上に子を心配する母の気持ちなのだろうと思うと、癇癪を起こすわけにもいかず黙って手を動かした。


 夕方になると粗方の引っ越し準備は出来ていて父と母も帰っていった。
 今度は妹弟を連れてくるわ、と言って。子ども心で無邪気にはしゃぎまわるとこの部屋は床が抜けてしまいそうだかけどね、と囁かに悪態までつき、二人は帰っていった。悪態をついていたのは勿論、母だけであるが。


「はぁ」

 溜息をしながら、こたつへ潜り込む。足元から温まっていき、じんわりとしたものが僕の身体へ注入される。
 三月半ば。まだまだ冷える、時期だ。こたつは欠かせない。なんだったら六月くらいまで出しっ放しにしておいても良いけど。
 ゆっくりと寝転ぶ。
 いつもと違った天井を眺めていると、本当に自分は今からこの部屋で暮らすのだという実感がひしひしと湧いてきた。家族がいない、部屋で。
 ジルが……いない部屋で。


 引っ越し先はジルに告げず、来た。
 合格発表日から、それとなくジルの誘いを断り続け、この関係に終止符を打とうとした。恋だと自覚した瞬間に押し寄せた感情が未だに網膜の裏で、息をしている。瞼を閉じれば簡単に思い出せる。あの日、ジルが母親の肩を大事そうに抱いていた光景を。

「未練たらしいな僕も」

 いつまでもこんな感情を抱くならジルに宣告してくれば良かったのに。学習能力がない奴だ、僕は。けど、言い訳をさせてもらうと、ジルに告げたところで都合のよい言葉で丸めこまれてしまうのが見えていた。ジルの言葉は僕よりも上位に存在して、爪先から、喉元にかけて、じゅわじゅわと侵略することは、いとも容易いことなのだ。

「けど、お前はもう僕なんか必要しないかもね」

 独り言を呟いて悲観的になるなんて馬鹿のすることだと知っていたが、双眸から出る涙が止まらなかった。誘いを断り続けてもジルは一度も強引に僕へ迫らなかった。迫られなかったことに衝撃を受けていた自分が、ジルに抱かれたがっていたことを知り、僕はなんとも言えない気持ちになったものだ。
 あの優しい手は僕に降り注がない。僕はこんなにお前のことを愛しているのに、ジルからは何一つとして返されない。食い込んだ、皮膚に残る傷跡を撫でると、膨らんでいて、一生傷になっている。

「はぁ」

 ぽろぽろと涙を流し、今日で泣くのは終わりにしよう。家族にも僕の下宿先は告げないで欲しいと頼んだ。事情は知らないが察してくれた両親は首を縦に振ってくれた。誰も、ジルにこの場を教えることはない。ジルも、この場を知ろうとしないであろう。僕程度の人間に労力を割き、探し出そうということはない。
 例え、僕以外に勃起しなくても、性欲が旺盛というわけではないだろうから。それに、断っても襲って来なかったということは僕に飽きを見出していた可能性もある。唯一僕が縋れる所だったので、気付かないふりを通したけどさ。


「買い物、行こう」

 こたつの電源を切り、のろりと布団の中から出るとコートを羽織り、玄関に鍵を差し込んだ。
 徒歩十分圏内にスーパーがあるので食材をそこで買ってしまおう。母に鍛えられたので料理は出来るから。何か、一心不乱に作ると、嫌な気持ちも忘れられるだろう。
 がちゃりという音がして鍵を閉める。
 寒空が広がっており、冬の空はやけに雲が近くに感じられた。






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