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「あの噂、本当だったんだ」
「うわさ? あぁ、いっぱいあったよねぇ。けど付き合ったっていうのも、一日だけだったし、ぜーんぶ、セックスするお友達志望だったんだよぉ」

 僕からしてみればファンタジーな単語が飛び込んできて、生唾をごくんと飲み込む。ジルは僕のそんな初心な反応が面白かったのか人差し指で僕を指し、笑った。内心、腹が立ったが、ジルの動作一つ一つに苛立っているときりがないので、気にせず話を進める。

「それで、彼女たちとはどうなったの」

 動揺していないと見せかけるため、ホッチキスを止める作業を再び開始する。ジルは未だに笑いながら、優美な唇を動かす。

「それでさぁ、セックスしようとするでしょぉ。まず、オレをやる気にさせて欲しいならぁ、舐めてってお願いするの」
「うん」

 かち、かち。

「そうすると、あいつら、醜いから喜んでオレの舐めるわけぇ」
「そうだね」
 
 かち、かち。

「けどぉ、いくら、舐めてもぉ、舐めてもぉ、オレのは勃たないわけぇ。その子だけかなぁって思って、いろんな子と試してあげたんだぁ。けどぉ、けどねぇ、無理だった」
「へぇ」

 かち、がしゃん。

「オレ、不能なのかもぉって思っていたんだけどね、母さんのだったらぁ、興奮できるかなぁって昨日の見て思ったんだぁ」

 ジルは僕に、さぁ説明してやったぞ! と自慢するような傲慢な顔で告げた。僕は余計な報告に胸が縮まり、手が進んだ。お蔭で委員会の仕事が終わった。
 僕が立ち上がるのを見ると、ジルも続けて立ち上がり、帰る準備を始めた。資料を持って教室をでる。ジルは当たり前のように手伝わない。僕が重たい荷物を持っている光景をいつもの笑顔で見つめている。
 あ、けど、教室の扉くらいは開けてくれた。僕はそのまま、資料を足で押し上げ整えると廊下へ出て、職員室へ向かうため、足音が響く廊下を歩いた。

 歩いている最中もジルは止まることなく喋り続ける。全部、お母さんに関する報告だ。僕は額に皺を寄せながらジルの話を聞き流す。けれど、なぜだろう。いつもと、違って、いや、いつも以上に空虚な気持ちが付きまとう。 
 ジルの中学時代の話を聞いてからだ。
 僕の知らないジルがあった。
 ジルが知らない僕があるのだから、あって当然なんだけど、後頭部を叩かれたような衝撃が今も残っている。また、ジルが性欲の対象として自分の母親を見ているということが僕には辛かった。
 遠くにいた幼馴染がさらに遠くへ行ってしまった気分になる。初めから僕とジルの距離が近かったのかと問われれば、疑問符をつけて返さなければいけないけど。「さぁ?」と。

 自分の母親を性的対象に見なすというのを想像して吐き気がした。
 確かに僕の母は美しいらしい。僕にはわからないけど。聞いた話、クラスメイト、学年の女子の誰よりも僕の母は美しいだろうと予測される。周囲の人間から聞く限り、美しい人間というのに当て嵌まるのだろう。客観的事実を述べているまでだ。僕の母は誰もが羨み、道行く人間が振り返る美貌を持った人間だ。それに加え、垢の抜け、芯が一本突き通った人間特有の強さが内から滲み出てきていて、魅力を増加させる。
 息子である僕には判らないことであるが。愛妻家な父が常に母を褒めまくっているので、なんとなく。母が美しい容姿をしているということはわかる。美しさを素直に認められない、性格が捻じ曲がった人間は除くけど。

 だけど、僕は母を性的対象として見たことはない。背筋が凍りつく。
 母というのはあくまで、母でしかないのだ。包み込むような温かさ、唯一、情けない姿を晒しだすことを許され、同時に僕の情けない部分を認めてくれる存在。まだ、そのような失態を自我が芽生えてからは行ったことはないけど、いつか、どうしようもなくなったとき、僕は母に泣きつくような気がしてならない。
 僕にとって母とはそういう存在だ。けして、性的な対象に見て良いものではない。どれだけ美しくても、母親というだけで、性の対象から一線引かれている。
 けど、ジルにとって違うのだ。
 ジルにとって実母は性的対象になり得る可能性がある人物。雄弁に語っていた説明の中でジルが女子には反応しなかったと語っていたが、もし、母親のことを想像して射精することができれば、どうするつもりなんだろうか。
 痛い。
 激しい痛みが胸を襲う。溺れている。僕がジルといることに、ジルの報告を聞いている自分に違和感を得る瞬間だ。
 優越感も消え去り、小さな嫉妬だけが残り、罪悪感も盾でしかなかった。けど、僕はジルと一緒にいる。膿むような痛みしか残っていないというのに。

「充葉ぁ、だからねぇ」

 顔を覗き込むようにジルが僕に喋りかける。相手の目を見て喋るジルの癖が無意識に発動されたのだろう。自分のことで精一杯になっていた僕は戸惑いの双眸をジルに見られてしまい、警戒心を強めるが、それについてジルは触れることはなく、にやにやと笑いながら会話を続ける。

「聞いてねぇ、明日」
「いったい、なにを」
「あぁ、酷いなぁ充葉ぁ、オレの話なにも聞いてなかったでしょう」
「うっ」
「はは、けど許してあげる。充葉だからだよぉ」

 有り難いのか、そうでないのか判別しにくい許しを僕はジルから得る。

「あのねぇ、充葉ぁ、オレさ今日試してみるからねぇ、聞いてねぇ」
「試すってお前」
「うん、母さんでイけるかぁ、試してみることにする」

 悠然と告げるジルに僕は視界がうっすらと暗くなるのを感じた。
 わざわざ、僕に報告するのか。
 唖然としていると、ジルはどうしたのぉ充葉ぁと俺の機嫌を逆なでするような甘ったるい声色で尋ねるから、なんでもない! とジルを振り払うように駆け足で職員室へ向かう。けど、僕の駆け足なんて精々知れていて、ジルは歩幅を変えるだけで、余裕で僕に追いつく。
 一瞬、癇癪を起して泣き喚いてたりたくなったけど、感情を素のままで表すことが酷く愚かに思え、ぐっと浮かび上がってきた部分を隠す。

「ジル、明日話すって言っているけど、早く帰らなくていいのか」
「ああ、それなら親父が五連休だからぁん」

 ジルの父親の話を持ちかけると、口調が鋭利を孕んだものへと変わる。僕はそれを見越してわざわざ話題を振った。
 ジルが残ると述べたのだから、ジルの父親が休みなことくらい、安易に想像がついた。当たり前だ。ジルは父親が休みや早く帰宅する日でなければ、僕と一緒にいないのだから。

 あの日からずっと変わらないことだ。










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