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 寒空の中、暫く佇んでいたら、指先が冷たくなってきて正気に戻った。泣いていないのに、泣いているようで、頬を撫でるが、跡は残っていなかった。軋む自転車を押しながら、家の車庫へと入れる。妹弟の自転車が並んだ質素な様子が心を落ち着けた。


「ただいま」


 安心できる場所へと戻る。僕にとって家とは、落ち着ける場所だ。自分の弱音を曝け出せる。扉を開けると、母が年季の入った笑みを浮かべながら、僕を迎え入れる。遅かったわね、という声色が沈んできて、お母さん僕は恋したんです、なんてダサい科白を吐露してしまいそうになった。
 ぐっと胸元へ押し込み、ブレザーを脱ぎ、ハンガーへかける。制服一式が並んだ光景がして、いつも通りの風景が転がっていた。変わってしまったのは僕の方だ。随分遠くへ来てしまった気がする、なんて陳腐な言葉だが、仕方ないのかも知れない。

「食事はいるの、充葉」
「……いらないや。ごめん」
「そう。お風呂だけは入って寝なさいよ」

 普段は出来る限り、家族揃って「いただきます」をする方針の我が家で、勝手に晩飯を抜き、その上、母が折角拵えた料理を食べないと、恐怖ともいえる、怒鳴り声が聞こえてくるのだが、この日の母は優しかった。そういえば、ジルに初めて犯された日の家族は優しかった。

「充葉お兄ちゃんだぁ! お、おかえりなさい」
「帝……ただいま」

 風呂上りの末弟の頭を撫でる。髪が濡れている。お前はすぐに風邪をひくんだから気をつけないと、と諭すようにしゃがむと、帝が抱きついてきた。幼い姿は温かく、帝はなにかを僕に分け与えようと必死だった。
 背後からどたどた、という足音が聞こえると、帝は少し大きいパジャマをずりながら、てとてとと歩いた。
 後ろから、父が半裸で上がってきて、台所の椅子に腰かけながらファッション雑誌を読む妹である藍に失笑された。
 父を溺愛している母の手前、口が裂けてもいえない科白であるが、思春期に有りがちな「父さんキモイ」時期なので、酷く馬鹿にした視線が伺える。

 慌てる父の様子を眺めていると、状態を把握できた。
 どうやら、父が帝の髪の毛を拭いている最中に僕の声を聞いた帝が飛び出してきたようだ。普段は、誰かに迷惑がかかる行動なんてとらない子なのに、珍しい。機敏なこの子に悟られ、心配されるということは僕の声色は随分と沈んでしまっているのだろう。

「兄さん、先にお風呂貰ったよ。次、入ってきたら?」

 次男の竜が精悍な顔つきで、髪の毛を拭きながら述べた。相変わらず父似の整った表情はどこか卓越した雰囲気を覗かせた。僕の家は家族一緒に風呂へ入るのがそれほど珍しくないので、三人一緒で入ったのだろう。

「ああ、そうすることにするよ」

 にっこりと笑った竜の横顔は小学生とは思えなかった。
 両親と妹弟、隣家だというのに、どうしてこう違うのだろう。自分の家が最高だと豪語しないが、ジルがいる空間はあまりにも冷え切って思える。



 僕はパジャマを取り出し、脱衣所へ向かう。ワイシャツを脱ぎ洗濯機へ入れると、ジルの爪によって傷つけられた血痕が出てきた。
 切り傷になっている。
 脱衣所にある鏡で背中を見れば、幾重にもなる、引っ掻き傷が錯乱しており、気分が悪くなった。自分が酔っていた幻想を見せつけられたからだろう。
 僕はジルのことを愛している。今でも変わらない。ただ、少し前まで無限のように湧き出る、まるで慈愛の神にでもなった気分でそれを受け止めていた。だから僕はジルが望む形へと変化したかった。彼がセフレを望むならセフレへ、友人を望むなら友人になりたかった。けれど、僕の愛はすべてを包み込む神の愛ではなく、恋愛感情といった自己欲に塗れた愛だったのだ。一番厄介な。優越感程度で止めておけば良かった。

 恋人になりたい。

 今更、男同士の問題に深く切りかかるつもりはないが、傲慢な考え方だと、溜息を吐き出す。
 恋人の位置が欲しい、一番になりたいという考え方は愛を無限に注ぐのではなく、向こうからも愛を返して欲しいという意味だ。ジルがいつも無意識に振りまき、僕が拾っていた優越感と異なり、ジルから、意識的に好意を持って、僕を慈しんで欲しいと願っている。同時に悲しみを共有したかったり、様々な場面を彼と一緒に過ごしていたい。
無理に決まっているのにね。
 ジルの一番は普遍的なもので、彼の母親であることは言い逃れの出来ない事実である。ジルが好意を持って動き、愛しいと囁いて欲しい。現実的に考えてありえない話だ。
 気付かない方がいくらも良かった。足掻き苦しむ深海の深さが増すだけの発見だ。

「いったぁ」

 湯船に浸かると皮膚が炎症を起こしているのかと錯覚する。傷口から水がじゅわじゅわ侵略してきて、僕の身体を犯していく。ジルも、あの女も知りえない僕だけの痛み。知ろうとさえしてくれないものだ。



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