10校門を出ると赤煉瓦が詰れた外壁が姿を現す。自転車庫までもう一息だ。そういえば、こいつは今日、何で通学してきたのだろうか。 「ジル、僕は自転車で帰るけど」 「はぁん、充葉ぁん大丈夫だよぉん」 答えになっていない返答に溜め息をつきながら、自転車庫がある敷地まで到着した。自転車は殆ど残っておらず、存在するのも、校内に未だにいる人間ではなく、気まぐれに電車や徒歩で帰宅した人間のものだろう。 僕は黒い柱の横に止めてある銀の塗装が施された自転車に鍵を差し込む。がしゃり、と鈍い音を立てて、解放され、鞄を篭へと押しこんだ。ジルはどうする気だと、後ろを見ると、後輪の上にある荷物置きに腰掛けているので、息を飲んだ。 「充葉がぁ、運転して帰ってねぇ」 体格差を考えれば逆じゃないのかと思いながら、サドルを取った。座席に跨り、ペダルを踏み込む。前輪が不安定に揺れたが、なんとか持ち直し、自転車庫と外へ繋がる段差を降りる。 「充葉ぁんもっと丁寧に運転してよぉん」 「無茶言うな! 僕は腰が痛いんだ」 今更ジルに労わってくれと懇願する気はさらさらないが、先ほどまでの性行為で僕の身体がボロボロなのは言うまでもない話だった。呼吸を荒立てながら喋ると、ジルは黙った。なにか考え事をしているのだろうか。腰に回された手が服の上から皮膚へ食い込む。 「しょうがないねぇん、充葉ぁん」 ジルの腕が背後から伸びてきてブレーキを掛けさせられる。バランスを崩し、転倒しかけた僕は、倒れる寸前で足をアスファルトへとつき、踏ん張る。 「変わってあげるから、どいてぇ」 「え?」 「驚かないでよぉん、オレ、自転車、漕げるからぁん」 「それは、知ってるけど」 「早くぅ」 「あ、はい」 誘引されるがままに座席から降り、後ろに回った。ジルは横向きで乗っていたが、女子みたいで恥かしいなぁと、立とうとしたが「ペダルに足巻き込まれて充葉の両脚はぐちゃぐちゃになっちゃうよぉん」と言われたので、大人しく横向きで座っておいた。よく考えたら今更じゃないか。それに、ジル、お前さ、その長いヒールで自転車漕げるのかよ。 「いくよぉん、充葉ぁん」 同意を求めるというよりただ知らせる声をかけられ、出発した。さすが、ジルというべきか、ヒールでも後ろに僕を乗せた状態でも変わりなく、スムーズに前へ進んでいった。 途中、信号に差し掛かり「充葉はぁん、こんなことも出来ないのぉ」と馬鹿にされ、大層、腹が立ったが、無視してやることにした。 夜風が鼻腔に当たり、寒い。 街の景色はネオンによって埋められ、帰宅する人々の姿が、ぽつり、ぽつり、見える。僕とジルは彼らにとって、どんな風に見えているのだろうか。友達として映っているのだろうか。いや、映ってなどいないだろう。僕とジルの関係は傍らか見れば、歪なものだ。 「到着――」 タイヤが擦れる音がして、家へと到着した。勿論、僕の家の前で止められる筈がなく、顔を上げれば、薔薇で外堀を囲んだ豪邸が目に入った。僕の家はその横だ。 荷台から降り、ジルから自転車を奪う。 「じゃあ、ジル。また明日」 なんだか、笑って別れたくて言ってみるが嘘の笑顔などジルに通じないと気付き、無表情のまま、別れを述べた。 「ふふふ、じゃあねぇん、充葉ぁん」 甘ったるい声が心臓へ落される。家の前だから、理性を保たなければと、火照った顔で、ジルを見つめていると、ふと現実に戻される痺れた声が聞こえてきた。 「み、充葉、じゃ、ない、か」 不安定さを象っているような、稚拙な喋り方で、薔薇園から出てきたのはジルの母親だった。漆黒の時代錯誤な衣装に身を包み、片目を隠した少女のような母親は、折れそうな手を伸ばした。 母親の声が聞こえた瞬間、ジルは僕から離れ、母親の元へと駆けよる。突き飛ばされるような形で弾きだされた僕は、唖然とし、夢から覚めたような気持ちで、彼らの様子を眺めていた。 「どうして外に出てきてるの」 「だって、だって、二人の声が聞こえたから」 「父さん、いるでしょう」 「ネルソンは怖い。今日は。ご飯、食べろって」 「父さんが作ったのでしょう」 「作ったのだけど、美味しくないから、ねぇ、駄目だったの、私、出てきちゃ、ねぇ」 「駄目じゃないけど。夜風は冷えるから、もう中へ入ろう」 「け、けど、充葉が、いる」 ジルの母親が僕の方を向き、言葉をかける。意識を飛ばしていた僕は、急いで顔をあげ、視点を合わせた。 「乃亜さん、こんばんは」 「み、充葉! こんばんは、だ、ぞ」 喜んでいるのか、握りこぶしを作り、僕を見つめる。家へ上がっていかないかと誘われるが丁重にお断りした。誰が、お前とジルとの空間へ進んで足を踏み入れるか。 心の中で悪態をつきながら、返事をして、にこやかに別れてしまおうとする。 この場所には居たくない。暫く避けていたので、ジルと彼の母親が一緒に居る所を久しぶりに見て、心髄が痛みだす。油断し、溺れているときに、くる不意打ちは耐性がなく、いつもより簡単に瓦解への道を辿る。 「では」と声をかけ、立ち去ろうとした瞬間、強烈な視線を感じ、その方向へと眸を向ける。嫌な予感は背中の汗で感じ取っていたが、やはり壮大なものとなり、僕へと圧し掛かった。 「ジル」 誰にも聞こえないようにジルの名前を呟く。僕へ贈られた視線の持ち主は、ジルに違いなく、母親を蔑ろにするような態度をとったせいなのか、眼光を鋭く尖らせ僕を睨んでいた。睨まれた双眸が合うだけで、サドルを握る手を震わせてしまう。 「もう、いいでしょ、母さん」 肩に優しくジルの凶器みたいな手が触れる。 凶器のようなのに、その手はとても優しく見えた。 「だけど、ジル」 「ね」 ジルに言い包められ、あの女はジルと一緒に家の中へと消えていった。 僕には、爪痕が深く残るほど、指を食い込ませたにも関わらず、ジルがあの女に触る手つきはとても優しかった。 大切なものを扱うとき、自然とそうなってしまう手付きだ。対して僕は、どうでも良い玩具を弄ぶようなものだという事に、対比するものを見つけ、初めて気付いた。 ぱたん 家の扉が閉まる。 知っていたさ。 理解していると自分に何回も言い続けた。自分はあの女より、ジルの中で価値が下だということくらい。今更なのに、涙が出ないくらい、心が痛い。 愛しくて止まないのに、どうしてこの気持ちだけは満たされないのだろうか。 肩の傷が疼く。 消毒しないと化膿してしまうと頭の冷静な部分が教えてくれた。 僕は愛しさで溢れ、相手の一番に成りたいという感情を正当化できるものを、唯一知っていて、けれどジルが僕に望んでいるのは、きっとその形ではないということも知っていた。だけど、限界だ。 決壊する。 愛しくて、愛しくて ねぇ、ジル 僕はお前の恋人になりたいんだね。 |